・ババの御教え・
インドのアシュラムで、ババ様からいただくインタビューの中で「あなたはモンキーマインド(猿のような心)を持っている」とか「通常の猿じやない。マッド モンキー(気違い猿)だ。」と言われた方々から『モンキー マインド』に関する説明を求められることが多くなりました。『モンキー マインド』は、ババ様から直接ご指摘を受けた方々だけでなく、我々のすべてに共通する大事な問題です。それに関する一文をフィリス クリスタル女史の最近の著書である“Taming our Monkey Maind(モンキー マインドの手なづけ方)”という本から引用させていただきます。クリスタル女史は、既に出版されて日本国内で静かに反響を呼んでいる『節制』という小冊子の著者です。また、今年の9月23日・24日に神戸で行なわれる『サティア サイババご生誕70周年記念祭・シルディ・サイババご生誕160周年記念・神戸サイセンター発足20周年記念行事』には、ババ様ご自身の承認のもとに、講演者としての出席が予定されています。
第二章 『モンキー マインド』
さて、モンキー マインド(「猿のような心」の意)とは、正確には何を指しているのでしょう? サティア サイババは、しばしば帰依者に、あなたはモンキー マインドを持っていると言われることがあり、場合によっては、狂った猿のようなこころ(マッドモンキー)の持ち主だとさえおっしやいます。ババがある人にそのように言われるのを初めて耳にしたとき、私は、いったいそれはどういう意味だろうかと考えてしまいました。そのとき判ったのは、それは決して褒め言葉ではなく、その逆の意味で使われたのだということです。というわけで、私の気持ちは落ちつかず、直ちに、ババの言葉に含まれているメッセージを理解しようという努力が始まったのです。
特に、ババのアシュラムがある南インドでは、猿の群れが、自分たちの住んでいる立木の枝から枝へと飛び移ったり、地面を軽快に移動したりするのを見かけることがよくあります。そこには、母親が走ったり飛んだり跳ねたりするときに、そのお腹に下からしっかりとしがみついている子猿を連れたメス猿が必ずといってよいほど見られます。猿は非常に遊び好きで、また、すべてをよく観察している大きな目をした子猿は本当に可愛いので、彼らを見ているのは大変楽しいものです。猿たちは、視線の当たった物すべてに心を引かれます。いや、気を取られるというのが正確です。特に好物の果物や木の実とか、好奇心をそそる、キラキラ輝くものや鮮やかな色をしたものは彼らを引きつけます。「掴んで走る」というのが猿たちのモットーのように思えます。というのも、彼らは物を盗むことでよく知られているからです。「そうだわ」と私は考えました。「人間が猿に似ているというのは本当だわ。あらゆるものごとにすぐ気を取られて心がいつも忙しく、決して心のやすらぐことがない。」
ババは次のように言っておられます。「心が猿の特徴を備えているというのは本当です。いや、それは猿よりも気まぐれですらあります。心は瞬きするより短い時間に、空間的には何Kmも離れ、時間的には何世紀も離れたところに飛び移るからです。それは一つの欲望から次の欲望へと飛び移り、私たちを混乱に引き込んでしまいます。」
ババは、あることを説明するために、「これから小さい例え話をします」とよく言われます。日常生活の中の、皆のよく知っているものや、よく見かける光景や行為に関する簡単な物語を使って、教えようとすることを明確にお伝えになります。スワミ(サイババのこと)はまた、しばしば〔ラーマーヤナ〕、〔マハーバーラタ〕、〔バガヴァッド・ギータ〕等のような、偉大なインドの叙事詩から引用してお話されます。次にババのモンキー マインドの説明の仕方を一つご紹介します。「この問題について考えてみましょう。たとえば、人間が外部のものごとや、それらのものが人間に及ぼす影響の奴隷になっているのでしょうか? それとも内部的な衝動があって、それが本人を駆り立てて不幸に追い込むのでしょうか? 一つの例を挙げましょう。村々には猿を捕まえる専門家たちがいます。その際には、簡単な道具が使われます。彼らは、賊たちに荒らされる果樹園や庭園に、土で作った首の狭い壷のなかにひとつまみのピーナッツを入れたものをあちこちに仕掛けて置きます。猿は壷に近づいて、中のおいしいピーナッツが入っていることを知り、長い手を突っ込んで、ピーナッツを集めて握りしめます。その時、猿は腕が抜けなくなったことに気づきます。壷の首は小さすぎて、ナッツを握りしめた手が通らないのです! そのため、猿は為す術もなく惨めに座っており、容易に捕まって別の所に連れて行かれてしまいます。猿は、手を抜こうとするときに、壷のなかに何者かがいて腕を引っ張っていると思うのです。猿が握りしめた手を緩めて、ナッツに対する執着を捨てさえすれば逃げることができたはずです! それと同じことで、あなた方は欲望と、それに伴う執着の犠牲者になっています。あなた方は、自分で自分に巻き付けた縄に縛られているのです。同様に、解脱もまたあなた方の手のなかにあります。神の変わることのない栄光を黙想しなさい。そうすれば、一時的で取るに足りない地上のものごとは色あせて、あなたは自由の身になれるのです。」
次もまた、同じテーマに関するババの例え話ですが、少し違った説明がされています。「猿を捕まえる人たちは、口の小さな壷を用意して、中に甘いものをたくさん掴みます。そのために猿は、壷の口から手を引きだすことが出来なくなります。握った手を放さないかぎり、猿は手を引きだすことができません。猿の手を拘束しているのは、食物に対する猿自身の欲望です。猿が、欲望を満たすために自分の手で食物を取ったために、そこから動けなくなったのです。
この広い世界はその壷のようなものです。人生の状況や家庭状況に似ています。私たちの欲望は壷のなかのお菓子に例えられます。この世はお菓子の形の欲望の入っている壷で、人間はその中に手を入れます。その人が欲望を捨てれば、世の中で自由に生きることが出来ます。自由を手に入れるに、最初に為すべきことは、犠牲を払うことです。哲学の用語では、これを克己とか放棄と言います。私たちは、この世が私たちを縛っていると考えますが、この世は生き物ではありません。私たちを縛っているのは欲望にほかなりません。」
このような例え話によって、「モンキー マインド」という言葉の総合的な意味が与えられ、欲望がその本質的原因であることが突き止められます。ババは、私たちがその中に住んでいる物質的な鞘(入れ物)とは別の真の自分に気がつくということです。それは執着のみに関する問題です。私たちが何にしがみついているから罠に掛かるのでしょう? 何にしがみついているから他の人々や思想によるコントロールの格好の対象になるのでしょう? また、物、状況その他様々なものに対する執着によって容易にコントロールされてしまうのは、私たちが何にしがみついているからでしょう?
ババは、私たちは三種類の人間であると言われます。「他の人々があなたのことをどのように思っているかを知らなければなりません。彼らはあなたを、特定の名前を持ち、他の人と区別できる形を持った肉体として扱うのです。それから、自分が自分をどう考えているかを調べなければなりません。あなたは、自分の心と、その猿のようなトリックや、偏見、情熱、また、心が何を求めているかを知っています。あなたは、自分の意識と、自分が何を「自分」とみなし、何を「自分のもの」とみなしているかを知っています。あなたは心を研究しなければなりません。心は愚かな使い方をすればあなたを傷つけることができ、賢く使えばあなたを助けることができる道具なのです。それから、もう一つの自分、すなわち本当の自分を知らなければなりません。というのは、あなたは身体でもなければ、心でも知性でもなく、頭脳でも感情でもエゴでもないからです。あなたは無限の普遍的絶対者であるのです。」ここにババが提唱しているような作業をすると、その結果、真の幸福が得られます。それは、持ち物や、外的状況によって生まれるものではなく、真実を認識することによってもたらされる安心感に基づいたものです。
それでは、いったい心とは何でしょう? ババは、心は一つの道具であり、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚という五つの肉体的感覚もまた道具であって、そのすべてを一緒に使って、外部の世界に関する情報を集めるためのものであると言われます。以上の道具のなかで、心は、諸感覚をコントロールし導くべき、主要な道具であります。ところが逆に、通常それは、本来ならば心の召使であるべき諸感覚に支配されています。私たちが個我の身分に陥っているのは、このように心と感覚の役割が逆転しています。ここでまたババの言葉を引用しましょう。「心の特徴は、感覚という出口から、色、音、味、香り、知覚から成る外の世界へと、あちこち飛び回ることにあります。心は、感覚が心を導いて外界の物に執着させるのを許す傾向があります。それによって、それらのものに対する欲望が生ずるのです。しかし、すべての欲望は、真の自己が単にその中に住んでいるだけの、肉体のなかに起こります。ところが、心を管理して、心の主人であり導き手でもあるハイ セルフ(高位の自己)に向けることは可能なのです。」
ババが心を説明するもう一つの方法は次のようなものです。「心は、何の印象も書き込まれていない白紙のようなものではありません。そこには、何回も生まれ変わってくる間に形成された諸傾向や経験が刻み込まれています。肉体を使って行なわれた数多くの行為の成果も心に刻まれています。したがって、心は、数々の思いや欲望の束になったものであるということができます。」ですから、肉体が真の自己でないのと同様、心も真の自己ではありません。心も肉体も、共にハイ セルフ(高位の自己)が使うために作られた道具なのです。
諸感覚は、心という御者の乗っている馬車を引いている数頭の馬に例えることができます。馬の好きなようにさせれば、おいしそうな匂いを追いかけたり、心の引かれる音について行ったり、あるいは餌をもらおうとして小屋にかけ戻ったりして、様々な方向に走り去ることでしょう。私たちが実際にそのような馬車に乗っていたとすれば、安全性は全く感じられないことでしょう。ところが、多くの人々は、自分が感覚にまどわされることを許しながら人生を送っています。馬車が所定の目的地に無事に到達できるようにするには、確実に馬たちが一団になって同じ方向に進むように、彼らに命令を下す御者が必要です。この目的を達するためのもっとも確かな方法は、御者が手綱を軽く握って、実際の手綱さばきをハイ セルフ(高位の自己)に委ねてしまうことです。ハイ セルフは、馬車を目的地まで無事に走らせるというプロセス全体を扱うことに、はるかにたけています。
ババは、心の役割を簡潔に要約して、次のように言っておられます。「心は、束縛と解脱の両方に仕える道具であると言われています。感覚が心を外界に導くことを許せば、心は人を縛ります。理性に心を支配させて、内なる至高を求めさせれば、心は人を解放します。」
ババが言葉で描いたもう一つの説明図は、警告の形をとっています。「空気はフットボールに詰められればボールの形を取ります。風船に詰められれば、卵形、ソーセージ形、球形等の風船の形を取ります。心は、それが結びついている対象物と同じ形を取ります。小さなものに固定されれば、小さくなります。偉大なものに焦点を当てれば、偉大になります。心は、カメラのように、何であれそれが向けられたものの写真を撮ります。ですから、シャッターを押す前によく注意しなければなりません。」
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