・ババの御教え・
1996年真実の年
真実の探究
人は皆、真実の探究をし続けなければなりません。あらゆる考え、言葉、行動の中に、この探求を進めていかなければならないのです。真実とは、単にある瞬間に事実として現れ出たもののことではありません。真実は不変であり、時間を超越しています。真実を口にするにあたって注意すべき点は、その真実が快く有益なものでなければならないということです。真実は、人を動揺させるようなものであってはいけません。また、人を傷つけるようなものであってもいけません。このようにして実践される真実は、カーストや宗派の壁を超越しています。霊性に根ざしているがゆえに、普遍的な価値を持つのです。
どのようにして真実の探求に着手すべきでしょうか? まず、真実と真実でないもの、見かけ上の事実を区別すべきです。ある瞬間に明らかだったことでも、次の瞬間には変化してしまいやすいものです。その上、見かけ上は明らかなことも、本当は真実でないかもしれないのです。例えば、太陽についていえば、「東から昇り、西へ沈みます」。実際は、太陽は昇りも沈みもしません。太陽が昇ったり沈んだりするという見かけ上の現象がおこっているのは、地球が自転しているためなのです。
見方を変えなさい
他の例をあげてみましょう。同じ目で、異なる人物一母親、妻、子供等々を見ているとします。見る目は同じであっても、目に映った人に対して湧き起こる感情は異なっていて当然です。母親は、尊敬の念をもって見られるのが当然です。子供は、好意をもって見られるべきです。妻を見るときには愛情がおこるのが当然です。この場合、真実の探求に必要とされるのは、特別な関係のもとでは、どのように人を見るのが正当であるのかを理解することです。
この世界を見るにあたって、人は見方を変えなければなりません。神の創造に間違いなどありません。正しくしなければならないのは、人の見方なのです。目は良いものと悪いものを見、耳は快い音楽や不快な言葉を聞きます。感覚器官そのものは同じです。感覚器官を用いて何が良く何が悪いかを識別しなければならないのは、人間なのです。悪いものを見たり、悪い話を聞いたりするのは、感覚を誤って使っているからです。舌についても同じことが言えます。神の御名を唱える代わりに、良くない話に熱中しているとしたら、舌を誤って使っていることになります。他人の悪口を言ったり、批判することに夢中になっていてはいけません。
真実の探求を、人生のあらゆる領域で進める必要があります。神を探す必要はありません。神は遍在です。神はあらゆる人の内に宿っています。聖典の中で言明されているように、神は宇宙全体に内在するのです。
神は、ラーマ、クリシュナ、アッラー、イエスというように、どのような名前ででも呼ぶことができます。同じ神が、違った名前で崇拝されているのです。名前や姿は無数にありますが、すべての名前は神のものです。神のものでない名前や姿などありません。
「ブラフマンは真理であり、英知であり、至福である」と経典に書かれています。真理は無限です。あらゆるものが真理に基づいています。今日、人々は真理を固く守らなければなりません。真理は神です。「神はどこにおられるのですか?」という質問の答えはこうです。「神はあらゆるところにおられます。」
1996年4月14日の御講話より (C) 1996 Sathya Sai Organization Japan