・ババの御教え
1996年真実の年
人が身体に執着し、身体だけが真実であると考えるなら、無知の束縛から逃れることはできません。
世界は真実
神聖なる愛の具現者である皆さん! あなた方は様々な霊性修行を行なっています。ある人は、この世界は幻であり、束の間のものだと言います。そしてマーヤ(幻)あるいはミティヤ(迷妄)として表現します。これは全くの誤りです。私は真実であり、あなたも真実です。宇宙全体が真実です。意識はあらゆるものに内在しています。あらゆるものがブラフマンの現れです。あらゆるものに内在する一体性を認識するとき、私たちは神の本質を知ることができます。
世界を非真実で、幻であり、束の間のものと表現することは、人々を欺き、真実でないことを表明するに等しいことです。もし世界が真実でないのならば、世界が真実でないという教えさえも同様に真実でなく、意味が無くなってしまいます。いいえ、そうではありません。この宇宙は真実です。それは、非真実の中に真実を見るとか、真実の中に非真実を見るというような問題ではありません。真実の中に真実を認識するのです。この根本的な真理を認識したときにのみ、私たちは自己に内在する真実を理解することができるのです。
宇宙は真実です。その中の形あるものは変化するかもしれません。身体は変化します。変化することは身体の特質です。変化は進化の過程に特徴的なものです。しかし、認識すべきことは、あらゆるものの奥底には、根本をなす真実があるということです。これは3つの原理からなります。それは、アスティ、バーティ、プリヤム(存在、光輝、歓喜)またはサット・チット・アーナンダ(存在、純粋意識、至福)もしくはサッティャム、シヴァム、スンダラム(真、善、美)です。
真実と変化
人生の基盤となる身体が変化しやすいものだと認識した場合に、変化しやすいというだけの理由から現象世界もまた幻であるということができるのでしょうか? 全宇宙はブラフマンという宇宙意識から生じました。形あるものの多様性は、子供の興味を引くためにつくられたいろいろな形の砂糖菓子のようなものです。形は異なっていても、基本となる意識は一つです。人の形をした砂糖菓子が口の中で溶けるように、身体の外的な形も、アートマの至福を体験すれば溶けてしまいます。生命の源はブラフマンです。変化と進化は生命にとって自然なことです。しかし、不変の神の存在は、変化する身体の中で体験すべきなのです。
進化の過程において、物質の中に存在するブラフマンの原理は、生命へと発展しました。心は生命意識から発展して進化しました。心はここで止まるべきではありません。心は、神の意識へ向かって進化し、究極的にはサット・チット・アーナンダという普遍的な神性意識へと融合すべきなのです。
神性の覚醒
現在、人間の目は外部の現象世界に向いていますが、自己の内に存在する神に向けるようにすべきです。人は、自己に内在する神性意識を顕現する必要があります。そして霊性修行として、自己を神性意識に委ねるようにしなければなりません。これは「内在する神の、意識による認識」と呼ばれます。
最初になすべきことは、内在する神に気づくようにするということです。次の段階は、自己に内在する神が、すべてのものに等しく存在するという真理を認識するということです。自己を他人から隔てさせている覆いや壁は迷妄から生じたものであり、それを取り去るためにあらゆる努力をしなければならないということを認識しなければなりません。そのときにのみ、あらゆる生きとし生けるものとの一体性を体験することが可能となります。
聖典には次のように記されています。「私は実にこのすべてである」。段々認識が進んできました:「これらすべてのものが私の中にある」。すると「私は神であり、神は私である。私はブラフマンであり、ブラフマンは私である。ブラフマンと私には何の違いもない」という意識が存在するようになります。「一なる神が、あらゆるものに微かな形で存在する」。この意識は、多種多様な形で存在する、すべてに浸透している宇宙意識です。この真理を理解することが「宇宙の神を認識すること」です。
心は、見るものに惹きつけられます。心は、性質や態度、執着をつくり出そうとします。とりわけ、エゴ(自我意識)を膨らませます。エゴでいっぱいなので、人は識別力を失い、何が束の間のもので何が永遠のものであるかを忘れてしまいました。そして自分自身を物笑いの種としてしまったのです。エゴをしぼませて除去したときにのみ、徐々に自己の霊的本質を悟ることができます。自己の中にエゴが支配的である間は、霊性を理解することができません。理解できない者に、霊的な学習会や講話が何の役に立つというのでしょう?
サッティャム ギャーナム アーナンタム
あらゆる人間は、究極的な「心を越えた」意識の段階へと向上するために努力すべきです。その段階とは、聖者により英知の鞘(さや)(ヴィジュナーマヤコーサ)として記述されています。近代科学(ヴィジュナーナ)は、物理的対象を分析することに関係しています。しかし英知の鞘は、至高の実在、すなわち遍在する神性意識を探究することに関係しています。これこそが、真の科学的探究です。英知の鞘からこそ、人は至福の鞘へと進むことができるのです。至福の鞘とは、超越意識の状態であり、完全な至福の状態です。
この状態に達することは難しいように思えるかもしれません。しかし、必要な努力もせずに、人間の能力を超えていると考えるべきではありません。私の言葉を聞きなさい。あなたに道を示しましょう。もし私の言うことを聞くだけで、実行しないならば、あなたは目標に到達することはできません。
それは自然なことです。花もつぼみでは、ほとんど香りはしません。つぼみが成長して花開くと、素晴らしい香りを持つようになります。このように、人間の意識が拡大していくと、サット・チット・アーナンダの状態で満ち足ります。意識は、普通の心の状態から始まり、超越した心の段階にまで昇りつめます。それから意識は、より高次の段階にまで達します。その次の段階は、明知を得た心です。これらすべての段階を通じて、連続する実在は同じです。これは、幼児期から老齢期へと身体が変化するようなものです。これが普遍的神性意識であり、誰にでも内在しているものです。多様性の中に唯一者が存在するのです。普遍的神性意識は真理(サッティャム)であり、英知(ギャーナム)であり、無限(アーナンタム)です。
あなたの心を神に向けなさい。神の御名を繰り返し唱えることは、この世の出来事からあなたの心を引き戻す霊性修行として規定されています。もしあなたが、今晩(シバラトリ)を神への想いに集中するなら、超越した心の状態にまで達することはできなくとも、あなたの心は変容します。心の中にいつも神の3つの性質一サッティャム(真理)、ギャーナム(英知)、アーナンタム(無限)であるブランマ(神)一一を抱いていなさい。そして、人間にとっての究極の目標に到達するよう努力しなさい。
(C) 1996 Sathya Sai Organization Japan