サイの御教え
ある特定の霊的な教えが広く受け入れられる場合、その教えには必ず、あらゆる人が日常生活の中で実践し、体験することのできる規律が含まれています。各人にとっての最高のダルマとは、自分自身のダルマに勇敢に従うことです。
この問題に関しては、宗教と道徳の間で対立があります。神は(人間の考える)道徳的規律について、「困難で危険に満ちたものである」と語っています。どの行為が正当で、どの行為が正当でないのか? どの行為が道徳に適っており、どの行為がそうでないのか? 人々は未だにそれを結論づけようと奮闘しています。しかし、クリシュナは価値ある行為について次のように触れています。
「あなたの思いを私にとどめよ。私に身を捧げ、私を崇め、私に全託せよ。そうすればあなたは、私に到達するであろう。このことが真実であることを私ははっきりと言おう。なぜならあなたはわたしにとって愛しい者であるから。これは我が教えであり、我が恩寵である。これは私に至る道である。一切のダルマを(私のうちに)放棄せよ。私に従いなさい。悲しむことはない。私はあなたを、あらゆる行為の結果から解放しよう」
この2つの詩節の意味と重要性に注目してごらんなさい! この世に生まれ来ては、しばし留まり、そして再び去って行くという輪廻から救われ、解放されるには、全託しさえすれば充分ではないでしょうか? あらゆるものの内に神を見、どんなときにも神を認め、常に神の存在に気づいているという至福に浸ること。深い帰依と愛により生じる神との絆の中に溶け込むこと。重要なことでも些細なことでも、神に捧げられたあらゆる行為、(願望、意思、態度、活動、成果、結果といった)始めから終わりまでの捧げられたすべてのこと。神を崇め無執着の気持ちで、自己への執着、行為への執着のすべてを放棄すること。神はそれをあなたに求めています。
もちろん、このように全託することは難しいことです。しかし、たとえ僅かでもそうしようと努力するなら、そのための勇気を、最後まで神自らが授けることでしょう。神は友としてその人と共に歩み、助けます。神は導き手としてその人を導きます。神はその人を悪と誘惑から守ります。神は杖となってその人を支えます。クリシュナは次のように語っています。「この行為の道にほんの僅かでも従うならば、恐れに脅かされることはない」。ダルマに従うこと自体が喜びの源泉です。この道は障害に悩まされることがほとんどといってありません。これがクリシュナの教えです。
「あなたは私のもとに来る。あなたは私に近づいて来る」、言い換えれば、あなたは私の神秘を理解し、私の内に入り、私の性質を獲得するということです。この言葉には神性を獲得すること、神の内に存在すること、神と一つになることが示されています。あらゆる存在の内に神を認識したなら、知識という道具によっていつもすべてに内在する神を体験するのなら、神のみを見、聞き、味わい、匂ぎ、神のみに触れるなら、その時人はまぎれもなく神の身体の一部となり、神の内にあって、神と共に生きているのです。自分自身の向上という義務に取りかかれば、まさにその第一歩を踏み出す時、新たな力が得られるでしょう。あなたは初めて知る、より純粋な喜びに震えることでしょう。完全な至福を味わい、かつてない神聖さに身を新たにすることでしょう。
このダルマは特別な人のために定められ、提示されたのではありません。このダルマは皆の手の届くところにあります。なぜなら、皆、神を切望しており、皆、この移り変わりの背後にある、基盤となる何かを発見するための識別力を有しているからです。極悪非道の罪人でさえ、激しい自責の念にかられて神に従うことにより、すぐにも心を洗い、純粋になることができるのです。
したがって神の指令とは、各々が自分のために定められた特別なダルマを追求することです。自分が身に付けている文化の霊的基盤に基づいて、自分の人生を設計すべきです。物質を対象としたビジョンを捨て、神の声に耳を傾けるべきなのです。
(ギータ バヒニより)
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