「内側の敵に打ち負かされていて、どうして外界の敵に打ち勝つことができるでしょう。怠惰さと愚鈍さという重荷を背負っていて、どうして英知を獲得できるでしよう。激情に躍らされて、どうして帰依の心を培うことができるでしょう。バランスと落ち着きそれのみによって平安と調和は授けられるのです」
サティア サイ スピークス 第10巻 p.138
「この物質世界の創造物のなかで、何一つ同じものはありません。あらゆる面で二人の人間が同じであるということはありません。各々が独自の特別な体験を経ています。限りない多様性が広がっています。それでも、一体性へと到達せねばなりません。また一個人は一瞬たりとも同じ状態にはありません。幼児は少年ヘ、青年ヘ、成人ヘ、そしてやがて中年、老人となり、ついには老衰します。ゆえに人は、不変であるパラマートマン(神)に避難を求めなければなりません。多様性のすべてはパラマートマンより現われ、パラマートマンヘと帰融するのです。神に避難を求めたとき、人は初めて平安と充足を不動のものとします」
サティア サイ スピークス 第10巻 p.40
「平安とは成功と失敗、喜びと悲しみ、敗北と勝利を完全な平静をもって受け止めることができる受容力を意味します」
「自分自身が平安である人は、自分のまわりのものすべてに平安を認めます。本質は美であり、真理であり、平安です。人はそれを醜いものとして、間違ったもの、暴力的なものとして捉えます。…それだけのことです」
「幸福な人生を送るには、心の平安が必要です。人間の心は荒れ狂うガンジス河に似ています。心はディヤーナ(瞑想)のような歯止めとなるものを効かせて抑制しなければなりません。ディヤーナとは一点集中です。心の動揺が人類にあらゆる不幸をもたらすのです。穏やかで健全な人生を送るためには、心の平安を培わねばなりません」
「徳高い道に沿って考え、話し、行動するなら、人の意識は純粋となり、内なる平安を抱きます。知識は力である、と言われますが、美徳は平安です」
サティア サイ スピークス 第10巻 p.267
「用語に関して少し混乱が生じています。というのも、心自体が存在しないからです。心とは欲望が織り重ねられたものです。心の平安とは欲望がないということであり、その状態において心は存在しません。いわば、心とは滅するものです。心の平安が真に意味しているのは純粋性、すなわち意識が完全に純粋であるということなのです」
「一旦海中深くに潜っていったなら、そこは完全な静寂であり、完全な平安です。動揺、喧騒、混乱一一すべては外層にすぎません。同様に、ハートの最も奥深くに、あなたが拠り所とすべき平安の宿る場があるのです」
サティア サイ スピークス 第1巻 p.172
「今日私たちが努力しなければならないのは、新しい宗教のためでも新しい社会、新しい道徳規範のためでもありません。それらは既に、各民族、各国ごとに存在しています。墓本的な霊性修行の方法も、ほとんどの宗教において既に定めらています。しかし私たちには、あらゆる意識レベルで純粋性を獲得した人々が必要なのです。人は嫉妬や利己心や貪欲や、他の様々な悪い性質からハートを解放したときにのみ完全な至福に到達することができます。社会と社会の間だけでなく人と人との間に、すべてが親戚であり一つであるということを認識できて、そのような認識を喜ぶことのできる人々が必要です。感覚とのかかわりあいから自由に解き放たれるためには、限りある「私」という境界を越えて行かねばなりません。「身体」と呼ばれる城砦の胸壁を跳び越え、はるかなる広大な世界ヘ、熱意をもって入って行かねばなりません。「個人的な必要性」にかなう狭いヴィジョンから、「すべて」という壮大なヴィジョンヘ旅して行かねばなりません。一滴の水が大海に落ちるとき、その滴は自らの狭められた個性や名前、形を失い、大海そのものの姿、名、趣を受け入れます。もしその滴が「滴」として別個に存在しようとしたなら、すぐに蒸発してしまい、非存在へと薄められてしまうでしょう。各々が、宇宙のすべてのものを包んでいる一つの真理の一部であるということを知らねばなりません。人生の全時間を、利己心や嫉妬や貪欲という低次の狭い道のために費やすのは非難されるべきことです。広い心(ハート)を持ち、思考(マインド)を純粋にしなさい。そうして初めて地上に平安と繁栄が確立され得るのです」
サティア サイ スピークス 第10巻 p.84
「快適であるということと平安であるということが混同されています。快適さは平安と同じものであると受け取られています。富む者、地位ある者、富豪や権力者は誰も平安を得ていません。それが真実であることは調べればわかります。平安は、銀行の通帳や部屋数の多い家、倉庫や鉄の金庫の中に見出されはしません。あなた方の態度はすべてあべこべのものとなっています。それは馬の前に荷車をつないでしまうのと同じ程滑稽なことです。物質的なことは霊性のあとについてくるものです。心が馬であるのに、それが顧みられておらず、旅に備えて訓練されていないのです」
「単に憎しみを取り除いただけではアーナンダ(平安)を確実にすることはできません。愛をもまた、培わねばなりません」
「シャンティ(平安)は神の特性です。根気と忍耐と寛容をもって正しい霊性の道に従う者のみが平安を得ることができます」
サティア サイ スピークス 第7巻A p.26
「善いことを考え、善いことを語り、善いことをするなら、シャンティ(平安)は保証されます」
「アルタ(実利)とカーマ(情欲)はそれのみで追求されるべきではありません。今日、人生のあらゆる段階において、あらゆる人々に恐れと不安が存在しているということは、人はただアルタとカーマのみを追い求めており、ダルマ(社会的、宗教的義務)とモクシャ(解脱)をないがしろにしているということを示すものです」
1965年4月10日
「無執着であれば困難のただ中にあってさえ平安でいられます。この世は蓮の葉に溜まった、きらめく滴(しずく)に似ています。それは静止することなく、揺らめき、震えています。執着は積もり積もって、人間の人生を埋め尽くします。苦悩や悲しみが、この世界自体を映し出す映画の題材となってしまいます」
「蓮の葉に溜まった水摘はやがて消えて行きます。同様に、私たちの人生もまた蓮の葉の水満のごとく、束の間のものであり、やがて消えゆくものであるということを知るべきです」
心に正義があれば、人格に美しさが生まれる。 人格に美しさがあれば、家庭に調和が訪れる。 家庭に調和がある時、国家に秩序がもたらされる。 国家に秩序がある時、世界が平和に満たされる。 ──ババ
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