神聖なる愛の化身である皆さん!
信仰をもたず、信じることができないがゆえに
滅びゆく者たちは大勢います
しかし、信じるがゆえに滅びゆく者は一人もいません
神聖なる愛の化身である皆さん!
古来、多くの賢者、聖者、求道者たちが神に到達しようとして苦行に時を費やしてきました。ブラフマの知識と英知、すなわち真の自己に関する知識を熱望する求道者たちは大勢います。彼らは様々な場所へ行き、多くの偉人たちを見、全世界を歩き回りました。書物から得た知識は神の知識、英知ではありません。たとえ宇宙のあらゆるものを知っていたとしても、それは真の英知ではありません。
真の英知とは何でしょう? 英知の人とは、個人と集団が一つであることを知っている人のことです。しかし今日、人は自分自身の人間性を知ることができないでいます。そのような人が神性を知ることができるでしょうか? 人間性を知ることのできない人が、どうして神性を知ることができるでしょう? 時間は過ぎて行きます。しかし人は自分自身を知ることができないでいます。書物から自己に関する知識やブラフマの知識を得ることはできません。賢者が私たちにそれを贈ることはできません。教師がそれが何かということを真に正しく私たちに教えることはできません。なぜでしょう? なぜなら私たちはアートマの原理という真の自己に関する知識を外の世界に見出すことはできないからです。書物からこのことを学べるというようなことは根拠のないことです。これは自分自身のハートから顕れ出るべきものです。この英知は自分の内にあるというのに、外に求めるのは全くの無知であるといえます。
この真理を熟考してブッダは、正しい道に向かおうと、人生の26年間を過ごしました。彼はあらゆる聖典を学びました。多くの賢者に出会い、彼らの教えを聞きました。しかしついに彼は、そのようなことによって真理を知ることはできないのだと気づきました。英知は常に内にあります。自分のハートの内に存在する英知に気づいていないのです。外界に存在する人々がどうして教えることができるでしょう? ゆえにブッダは、自分自身の内に存在する至福と英知を体験するため、大変な苦行に取り掛かったのです。彼の目は内へと向けられました。彼は外へ目を向けることを完全に止めました。徐々に真の自己の知識が内より顕れ始めました。「仏(ブッダ)に帰依し奉る。僧(サンガ)に帰依し奉る。法(ダルマ)に帰依し奉る」彼は自らの知性(ブッディ)を通して、自らの内に存在する真の自己の知識を知ることができたのです。彼は知性から顕れ出た英知を社会にもたらしました。彼は社会(サンガ)に出て、社会の中でこの英知を実践(ダルマ)しようとしました。英知を得ようと熱望しても、英知は書物の研究を通じて得られるものではありません。そのようなことは時間の浪費となるでしょう。内なるものを育んで初めて、真の自己の知識が顕れ出るのです。あらゆる力が人間の内にあります。この至福と英知を体験するため、彼は多くの書物を学びました。彼は書物の研究によって知識を得たいと望みました。彼は英知を得た権威ある人々を崇めることによって知識を得たいと考えました。それから、家長になれば英知を得ることができると考えました。そしてついにはすべてを放棄し、苦行を始めたのです。しかしブッダは、あらゆる苦行を行ったにもかかわらず、英知を獲得することができませんでした。
人が体験しなければならない至福とは書物の中にあるのではありません。苦行の中にあるのでもありません。家長となることにも、世捨て人となることにもありません。この至福は苦行や瞑想やジャパ(神の御名を繰り返し唱えること)によって得られるものではありません。これらの行いは、求道者にとって良い時間の使い方であると言えます。人間のハートに内在する力を外に見出すことはできません。人間の内には未知の力が多く存在しています。人間の身体は大きな発電機です。ハートは大きな磁石です。人間の思考能力は大きな電流です。その力のすべてが人間に内在しているのです。ブッダが最後に決心したこととは何でしょう? 彼は5つの行動器官と5つの感覚器官を適切に使って初めて、英知を得ることができるという信念を培いました。まず最初に彼は善いものを見ることから始めました。何を見ようとも、その光景は私たちの心に刻み込まれます。したがってあなた方は、悪い光景を見るべきではありません。悪い光景が心に刻み込まれてしまいます。どんなに努力しようとも、その悪い光景を心から消し去ることはできません。人は神聖な、真実のもののみを見るべきです。私たちは、平静さを与えてくれるものを見るようにしなければなりません。
創造は私たちが見るものに左右されるのです。ゆえに私たちは善いものを見ていくようにしなければなりません。悪い光景を目にしてしまえば、それは私たちの心に刻み込まれてしまうため、消し去ることができなくなってしまうのです。善いものを見るようにするためには善い仲間をもたなければなりません。善い仲間をもてば、善い行動をとることができます。私たちは悪い仲間の中に入り、邪(よこしま)な人々の仲間に加わって、自らの人生を台無しにしています。悪い仲間から逃げ去りなさい。善い人々の仲間に加わりなさい。いつも正しい行いをしなさい。何が永遠で、何が一時的なものであるのかを良く考えなさい。私たちはまず、善い仲間(サットサング)を求めなければなりません。善い仲間とは何でしょう?善い仲間とは何でしょう? それはただ善い人々の仲間に入ることを言うのではありません。「サット」とは永遠を意味します。それはどのような状況下にあろうとも変化しません。それこそが神です。ゆえに神は『サット-チット-アーナンダ』と呼ばれます。私たちは『真理−純粋意識−至福』である神の仲間に加わらなければなりません。そのような善いものを見て、善い印象を心に刻んでいかなければなりません。
善い仲間と共にあれば、善い思いを抱きます。善い思いを抱くなら、人生において善いことを聞くでしょう。善いことを聞くなら、善い行いをします。内なる感覚や観念を純粋にし、調和をはかるためには、この3つが不可欠です。それが人間性、人間らしさと言われるものです。『人間とは何か』を正しく探求するのが人間です。人間についての正しい探求とは何でしょうか? 神聖な思い(意)、神聖な言葉(口)、神聖な行為(身)、これら3つすべてに調和があれば、内なる感覚は純粋になります。本当の神性はこの内なる器官が清浄になることにより顕れ出るのです。私たちは善い思いと感情、善い言葉、善い行為が一つとなるようにしていかなければなりません。この3つすべてが一致することにより、自分自身の神性に気づくことができるのです。ブッダはこの真理を悟り、至福を体験することができました。
ブッダが生まれて9日目に、彼の母は亡くなりました。彼は継母ゴータミに育てられました。継母は大きな愛をもって彼の世話をしました。ゆえにブッダはゴータマと呼ばれるのです。人生における成就を果たすように彼を育て、養ったのはゴータミであったがゆえに、ブッダはゴータマという名を与えられたのです。ブッダはあらゆるものを自分の内より顕わしました。自分の外の書物の研究や自分の外の賢者の仲間たちは英知を与えてくれはしないと彼は判断を下しました。今日世界では、多くの人々が真の自己の知識を説いています。しかしそれを実践し、至福を体験した人を一人も見つけ出すことができません。そのように教えを説くことが一体何になるというのでしょう? すべての聖典を研究することが、何の役に立つというのでしょう? すべての聖典を研究することが、一体何の役に立つというのでしょう? 実践することのできない研究は全くの無駄です。あなた方は自分の良心に従うべきです。それが真の道です。それが真の教師です。 (ブッダ プールニマの御講話より抜粋)
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