1926年11月23日、バガヴァン シュリ サティア サイババ様が肉体をもってこの世に顕現なさいました。ババ様は常々、自分の誕生日を祝ってもらう必要はないとおっしゃられておりますが、神に近づきたいという帰依者の強い願いにより御降誕祭を開くことをお許しになられます。
この日はババ様の御降誕をお祝いして、インドや世界各地で盛大な祝典が開かれます。
ババ様の過去の御降誕祭での御講話をご紹介いたします。
ドルヴァ*を祝福し
ガジェンドラ*を救い
クチェラ*を助け
プラフラーダ*を守った
同じ神の慈愛がこの地上にやって来た
逃げ場のない者への避難所として
平安、調和、正義の神として
全世界の神として
存在・意識・至福の具現として
真の聖王、プッタパルティのサティア サイ
王の中の王として
母親の膝に抱かれて眠っている赤ん坊の顔は何と魅力的なのでしょう! 目に恐れはなく、唇には喜びが表れています。そして平安に満ちています。赤ん坊は人の平安と喜びを奪う邪悪な力―嫉妬、貪欲、怒り、憎しみに影響されません。赤ん坊に利己的な欲望はなく、他の人に自分を印象づけたり見せびらかしたりしたいと望みはしません。将来の計画はなく、過去への後悔もありません。母親の愛と強さに対する赤ん坊の信頼は揺るぎないものであり、たとえ空が崩れ落ちようとも、その安らぎは乱されることがありません。赤ん坊が青年へ、そして成年へと成長したとき、なぜ恐れ、心配、憎しみに入り込む余地を与えてしまい、この安らぎを失ってしまうのでしょうか? その理由は、圧倒的な感覚の影響、そして感覚を満たそうとして騒ぎ立てる欲望です。さらに、人は今日『多様性』のみを見る傾向にあります。人は『一体性』という見方を退け、その結果、競争と闘争、失望と絶望に直面しています。
子供はより多くの情報を集め、様々な経験をしてより深く理解するに従って、世界とは、反対する勢力や軍隊の渦巻く戦場であると考えます。そこでは不正な手段によって勝利を勝ち得る必要があります。各人がそれぞれの考えをもっています。シュルティ(天啓経典)にはこう書かれています。「二者が同意することはない。相違は論争を生む」 そしてついに人生は、エゴとエゴが争う闘技場となるのです。これは医学における分野と同じくらい悪い状況と言えます。医学の分野において、目、鼻、喉、胃、肝臓、心臓、皮膚等だけしか診断し、扱うことのできない専門医は、それらが皆、肉体と呼ばれる有機体によって統合されているということを忘れています。そして、それぞれを異なった要素として別々に学ぶことは賢明ではないということを忘れています。
宇宙、個人、パラマートマン(至高の神)、すべては不可分に統合されています。科学者たちは宇宙のほんの一部を垣間見ては、大きな勝利を得たかのように誇示しています。これまで科学により発展してきた技術でさえも、人類にとって、危険性をはらんでいます。科学は宇宙とその背後にある力を切り刻み、宇宙を微小な部分に特化しては真実に関して誤った描写をしているのです。
帰依者たちもまた、『多』を見るというゲームに囚われていますが、そこには唯一者しかいないのです。人々は解脱や悟りが確実に得られる道よりも、自分に名声をもたらすであろう、一般に普及している道を求めます。彼らは自分独自の神の観念を念頭におき、人に優越することや、生活の糧を求めるために争っています。ヴェーダの格言である「私は一なるものである。私は多になろう」は無視されています。『多なるもの』を装っているのは『一なるもの』なのです。ですから人はこの世で活動している間、『多なるもの』の影響よりもむしろ『一なるもの』の影響を感じなければなりません。
霊的な道での巡礼の旅では、信仰はまさに必要不可欠です。人は今、あまりに短い生死の合間にあって、儚(はかな)く取るに足りないことに夢中になっており、より真実であり、より永続する事実や経験よりも、そういったものに信仰を置くことによって自分自身を欺(あざむ)いています。人は識別心やより深い実在には固執せず、にわかに吹く疑いや失望の風に心をさらわれています。
赤ん坊は母親を信頼しているので、母親の膝の上にいるときは穏やかで動じることがありません。母親はある人をお父さんと呼び、ある人をおじいさんと呼びます。また別のある人を兄弟姉妹と呼びます。子供は母親の言ったことを疑うことなく受け入れます。母親は子供に父親への信仰を植え付けます。同様に、母なる大自然はこの世界を設計し、活力を与え、動機づけている『父』がいることを宣言しています。しかし、人はこれを受け入れません。人は信仰の力を失っているのです。
信仰はあらゆる行為の基盤です。みなさんは理容師が手に鋭いカミソリを持っているからといって逃げたりはしません。おとなしく、理容師の特殊性を認め、理容師を信頼して髪を切らせます。また、みなさんはクリーニング屋に高価な衣服を渡します。洗って、アイロンをかけて返してくれると信じているからです。また、みなさんは自分の車の運転手や自分の家を建てた建築士を信じています。それと同様に、人に内在して動機を与える者、内在するアートマン、神の声を信じなさい。
今日、人は見たことがあるものや経験したことがあることだけを信じるべきである、と絶えず忠告しています。どこかで何かが起これば新聞にニュースが載ります。人は疑うことなくそれを信じます。それと同じく、真理を発見すること、そして真理に目覚めていない人と真理を分かち合うこと以外には何の目的ももたなかった先見者や賢人たちの体験を信じなさい。インドには神と神を求める者を信じる無数の人々、そして、自己の内に神の真理を顕現した無数の人々がいます。このために、彼らの人生は幸福で満ち足りたものになりました。
もちろん求道者は内にも外にも多くの障害に遭わねばなりません。しかし、その一つ一つが試練であり、これにより潜在的にもっている信仰が引き出されるに違いありません。暗闇のない所では光のありがたさが分かりません。空腹の苦しみがなければ誰も食べ物を探し求めません。母親が病気の子供を細心の注意を払って看病するのは、死んでしまう可能性があるからです。
ゆえに、ある聖者は弟子たちにこう忠告しました。「神に何事をも頼んではならない。神の御心に任せなさい」と。 ジャターユ*はラーマに「私の所へ来て最期の儀式をしてください」 と頼んだでしょうか? シャバリ*はラーマに嘆願したでしょうか?
神聖さ、純粋性、信仰、普遍的な愛という性質を培いなさい。そうすれば神はあなたを慰め、元気づけ、救うために歩み寄ります! ハートの純粋さと感覚のコントロール、もしこの二つの資格を身につけたなら恩寵はあなたのものとなるでしょう。
外の世界から至福が得られるという空想により、人は内的な道から迷い出て苦難に巻き込まれています。人は妻や子供などの家族に至福を求めています。生活水準を維持しようとして人は悪の道へと進みます。基本的な間違いは、肉体こそが最も大切な存在であると信じていることです。認識し、尊敬し、そして応ずるべきである内在の神を、人はないがしろにしています。
神の化身はアートマ シャクティ(至高の神我の力)です。それはクリヤ シャクティ(行為の力)とヨーガ シャクティ(神との交わりの力)という衣服をまとっています。一般的に、化身する過程はより高次元から低次元へ『降りてくる』ことと言われています。しかしそれは違います! ゆりかごの中の赤ん坊が助けを求めて悲しみ泣き叫ぶとき、母は身をかがめて抱きかかえます。その行為は『降りてくる』とは言えません。必要となる準備が整えば、化身はやって来てあなたを救うでしょう。一方、もし欠点を増やし、低い方へ低い方へと落ちるならば、一体どうして救われるというのでしょうか? 愛と、神の至福をハートに培いなさい。至福は清らかなものを見ること、清らかなことを聞くこと、清らかな言葉を話すこと、汚れのない行動をすることから生まれます。
あなた方が自分自身でこの至福を確立する日、その日こそがあなた方にとっての『私の誕生日』です。もう一つ別の事実も話しましょう。スワミの誕生日がプッタパルティでお祝いされているのは、何千もの人々がはるか遠方より、高価で大変困難な旅であるにもかかわらず、ここへやって来るからです。スワミの誕生日だから来なければならないと思ってはなりません。
私は自分の誕生日が祝われることを望んではいません。そのようなつまらない考えは抱きません。私の唯一の願いは私の至福をあなた方と共に分かち合い、至福に満ちて生きるようにあなた方を励ますことです。あなたが至福を得た時が私の誕生日です。私の使命は「ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ(世界のすべてが幸福で、繁栄しますように)」です。人類はひとつであることに気づきなさい。愛と奉仕により、地球上のあらゆる人が喜び、満足するようにしなさい。そしてあなた方のハートを、そうしたいという熱望で満たしなさい。そうすれば、間違いなくハートはサイの寺院になります。その瞬間から、私はあなたのところにいます。
今朝から、多くの人々が私に「ハッピー バースデー!」 と挨拶しました。誰も私のために幸福を願う必要はありません。なぜなら私は、いつでもどこでも幸せであるからです。神の至福の化身に向かってなぜ「ハッピー バースデー」と言うのですか? あなた方もまた、至福を蓄えようとして毎年誕生日が巡ってくるのを待っていてはなりません。あなた方は常に幸せでいなければならないのです。
1978年11月23日 プラシャンティ ニラヤム
サティア サイ スピークス改訂版第14巻p97〜102
*訳 注
ドルヴァ :修行に励んだクシャトリア。ヴィシュヌ神が祝福して北極星とした
ガジェンドラ :象の王様。水中でワニに捕えられ、祈りによりヴィシュヌに救われた
クチェラ :クリシュナ神の学友。困窮している所をクリシュナ神に救われた
プラフラーダ :ヒラニヤカシプの息子。悪魔に殺されそうになったが、ヴィシュヌ神により救われた
ジャターユ :聖鳥ガルダの子。ラーマの妃シータを救おうとしたが悪魔ラーヴァナに倒された
シャバリ :ラーマに深く帰依した女性
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