◆サイの御教え◆
新年のメッセージ
あらゆるものは『時』の命ずるところにより生ずる
良いことも悪いことも『時』に左右され
繁栄も貧困も『時』しだい
『時』はあらゆるものを決定する
『時』に支配されないものはない
この全世界において
これは『真理』なり
『時』は神なり
神聖なるアートマの具現である皆さん!
時は神の具現です。それゆえに、時は『年』と呼ばれています。賢者は神を『時の具現者(カーラルーパーヤ)』と表現しました。
動くものも動かないものも、この宇宙のすべてのものに神は浸透しています。したがって、神は『時を胎内にもつ者(カーラガルバ)』として特徴づけられます。また、賢者は神を『勇者たちの中の至高者(ディーロータマ)』としても表現しています。『ディーラ』という言葉は、偉大な知識人や非常に頭の良い人などという意味に捕えるべきではありません。ディーラとは、自分の知性(ディー)を神に向ける人に対してヴェーダが与えた称号です。
『カーラム(時)』という言葉は『カー』と『アラム』に由来しています。すなわち、時の具現である神は、それぞれが受け取るべき報いを与える者であるということです。神が世俗的な捧げ物や世俗的な権威、世俗的な権力に屈服するようなことはありません。神は霊的向上心に対してのみ応えるのです。
人生の目的
この世界で私たちは、昼と夜の同じ繰り返しを絶えることなく体験し続けています。皆さんは同じように宗教的沐浴をして、同じように食欲を満たし続けています。このようなことを毎年毎年続けています。しかし、有意義で高尚な人生を送るためにどのような努力をしていますか? 同じことを何度も何度も繰り返しながら、何度も何度も同じ苦しみを味わっています。もしこのようなことをし続けるのなら、人生の価値とは一体何ですか? 人生の目的とは何ですか? 何が人生の第一の目的なのですか? この基本的な問いを探求する人はほとんどいません。
したがって、私たちが詳しく吟味しなければならないことは、どうすれば他者への模範として役立つような、理想的で至福に満たされた、霊的向上を目指した人生を送ることができるかということです。人は霊性修行に励みます。しかしその修行の成果を吟味すれば、修行が無意味であったことが分かります。これらの修行はすべて、純粋にある種の精神的な満足をもたらすためのものであり、それ以上のものではありません。
私の見解では『霊性修行(サーダナ)』も『充足感(サーディヤム)』も独立して存在するものではなく、別々のものではありません。霊性修行と充足感はひとつであり、同じものです。霊性修行を目的地(サーディヤム)へ至る手段であるとしてしまうのは、心の錯覚なのです。真の霊性修行とは、人は神ではなく物質的な身体であるという考えを捨てることです。物質的なものから霊的なものへ目を向けることが真の霊性修行です。
今日、私たちはこの世界について実に様々な知識をもっています。この種の知識はどれも、ヴェーダの言葉でいう『英知』ではありません。真我(アートマ)に関する知識だけが真の知識なのです。一般に言う知識とは物質的なものに関する知識であったり、感覚上の知識であったり、調査して得た知識であったりします。しかし、それらは皆『真我の英知』ではあり得ません。最も高次の意味においては、『真我』と『英知』は異なるものではありません。それらはひとつであり、同じものです。ですから、ヴェーダは次のように言明しています。「ブラフマーは真理であり、英知であり、無限である(サッティアム ニャーナム アナンタム ブラフマー)」 真理、英知、無限、そしてブラフマン、これらはすべて普遍なる真我(パラマートマ)の別名なのです。これらは同意語です。互いに異なるものではありません。
英知と帰依
『英知』とは何でしょう? 人の真の本質を認識することが英知です。帰依は、この英知と一つになることを達成するための手段です(真我の知識が真我と一つになるときのことです)。 英知とはあらゆる想念からの解放を意味しています。英知の道を行くには、適切な努力をして思考をコントロールする必要があります。英知の道を行こうとも、帰依の道を行こうとも、最終的に受ける啓蒙の光は同じです。
たとえば、月は太陽の光を反射します。太陽からの光は暖かく、光輝いています。その同じ光が月から放たれたなら、それは涼やかで静かな感じがします。太陽の光も月の光も、同じ光です。太陽と月の両方に光を与えている本源とは『アートマン』です。太陽の光は英知にたとえられ、月の光は帰依にたとえられてきました。帰依心が至福に満ちているとき、英知は光り輝きます。このように、帰依と英知は同じ過程の始まりと終わりを示すのです。
この現象世界において、私たちは『行為をする者』、『行われている行為』そして『行為の目的』という三つの存在を認めます。これが帰依の特徴です。霊性修行者は行為者です。霊性修行は、行われている行為です。神のヴィジョンを得ることが行為の目的です。この過程が、『英知』、『知られるべきもの』、そして『知る者』としても描写されているのです。最も高次の意味においては、これらはすべて一つです。これらは、三つの異なる段階において違った形で現れます。人は、これが霊性修行における霊的体験だと自分で想像していることに夢中になっています。しかし、本当に探し求めるべきことは、霊的でないものに対する執着を捨てることです。世俗の富や権力に頼るべきではありません。神は純粋なハートから生じたものだけを受け取ります。神は世俗的な捧げ物に屈することなどありません。このことについては歴史的な実例があります。
『時』は神の顕れである
『ヴィシュヌプラーナ』と『シヴァプラーナ』のどちらにも、パールヴァティーは最も美しい女神として描写されています。パールヴァティーは自分のたぐいまれな魅力を自覚しており、シヴァを配偶者として射止めたいと思いました。しかし、あらゆる努力は徒労に終りました。この経験から教訓を得てエゴを捨て、パールヴァティーは厳しい苦行に入りました。猛暑、酷寒、激しい風雨に立ち向かい、彼女は苦行によってやせ衰えました。心はただシヴァだけに集中していました。エゴが完全に取り除かれたのを見て、シヴァはパールヴァティーを自分の半身とすることに同意しました。
このエピソードの内的な意味は何でしょうか? 大自然はパールヴァティーを象徴しています。大自然は非常に美しいものです。自分の魅力を誇りに思い、自然は皆を惹きつけようとします。惹きつけることに成功すると、エゴが育ちます。大自然の申し子である人間もまた、エゴを増大させ、利己心に満ちた人生を送ります。エゴは、知識、肉体的な強さ、権力や地位、外見の美しさ、他の様々な業績を基に、あたりに撒き散らされます。学問におけるプライドでさえも人を神から遠ざけます。
このようなうぬぼれに満ちている人は決して神を悟ることはできません。うぬぼれのない人だけが、神を悟った魂となれるのです。*ヴァールミーキ、*ナンダ、*クチェラ、*サバリ、*ヴィドゥラ、ハヌマーンは神を悟った帰依者たちですが、偉大な家系や、富や学識を自慢することはありませんでした。彼らの最高の特性は、エゴがなかったことです。たとえば、ハヌマーンはその偉大な武勇と学識にも関わらず、自分をラーマの召使いと呼ぶことに満足していました。この世で得たものも為したこともすべて束の間のものであり、永遠ものではありません。それらに誘惑されると、人は慢心し、最終的には破滅を招きます。したがって、自分が行為者であるという観念を捨て、神のみが行為者であると見なさなければなりません。神は与える者であり、神は受け取る者であり、神はまたその与えられたものでもあります。
『時』とはまさに神の顕れです。生と死は『時』によってもたらされます。それゆえ、誰もが時を神と見なすべきであり、時を神聖な行為をするために利用すべきです。一瞬たりとも無駄にすべきではありません。時を無駄にすることは人生を無駄にすることです。
行為の果実は『時』によって決まります。幸福であろうと不幸であろうと、裕福さであろうと貧しさであろうと、経験することはすべて自分の行為の結果なのです。したがって、良いことも悪いこともあなた方の行為にかかっています。自分の行為に従って、その通りの報いがくるのです。自分の時間をどのように利用したかが、結果を決めるのです。
したがって、神の顕れであるこの新年を正しく活用しなければなりません。皆さんはクリタユガ、トレーターユガ、ドヴァーパラユガ、カリユガと呼ばれる四つの時代について聞いたことがあります。この四つは、それぞれにかけ離れたものであるというわけではありません。その違いは経験に基づいています。クリタユガであろうとカリユガであろうと、異なる形態をとっているわけではありません。その時の人々の振る舞いによって、時代に名前が付けられるのです。クリタユガにあっても、執着と嫌悪感に満ちている人はいます。カリユガにあっても、真理を固く守り、平安に満ちた徳高い人生を送っている人はいます。どの時代においても、神がその源泉です。ですから、神につけられた御名の一つは『ユガディ(時代の起源たる者)』です。ユガディのお祭りは、このような理由から祝われるのです。すべては神の顕れです。このことを認識しないで、人は何かを得たときに得意になり、何かを失ったときに意気消沈するのです。利益や損失に影響されない平静さを育むべきです。
王様と帰依者
かつて、ある王様が最も利口な人を見つけようと会議を召集しました。王様は質問しました。「世界で最も白いものは何か? 最も黒いものは何か?」 会議に集まった知識人たちから様々な答えが返ってきました。ある人は「ミルクです」と言い、ある人は「綿です」と言い、 ある人は「空です」などと言いました。
その会議には一人、すばらしい帰依者がいました。王に尋ねられて帰依者は言いました。「私は学問のある知的な人間ではございません。私がもっておりますわずかな知性は、神からの贈り物です。一人一人がもっている知性はすべて神からのものです。その知性を誤って使っている人もいれば、上手に使っている人もいます」 そして、神へ祈りを捧げた後、帰依者は断言しました。「昼は他のどんなものよりも白く、夜は他のどんなものよりも黒い。これは、この世界において明らかなことです。昼は白く、夜は黒いのです。私たちの人生はすべて、この昼と夜、すなわち白と黒の繰り返しを続けています。この昼と夜のサイクルを乗り越えた者とは誰でしょうか? 神だけです。白と黒の組み合わせは『一日』として表現されています。このサイクルに打ち勝った者とは神です。昼(ディナム)と神(ダイヴァム)の違いとは、この世界に昼と夜があろうと、神には昼も夜もないということです」 そして帰依者はこう締めくくりました。「神だけが人に恩寵を与えることができ、それによって人は昼と夜を超越することができるのです」
王様の質問に答えようと前へ進み出た無学な人間の厚かましさに、会議に出席していた学者たちはみな憤慨しました。他の種類の傲慢さならば抑えることもできましたが、学者たちのこの傲慢さは簡単には抑まりません。これは学者たちの基本的な病気です。学者たちはたくさんの本を勉強し、書物の上での知識に没頭しています。しかし学者たちは、その結果としてエゴだけを膨らませてしまい、自分が知っていることのほんの少しでさえも実践したりはしません。学者たちは王様に近づき、言いました。「このような無学な男の言葉など聞くべきではありません。彼に自分の言ったことを証明するように求めなければなりません。今日の世界においては、いかなる分野のいかなることに対しても証明が求められます」
そこで、王様は帰依者に、自分の言ったことを証明するように言いました。帰依者は、証明をするために一日の猶予を求めました。そして、その間は自分のすることに対して質問したり反対したりしないことを条件として願い出ました。王様はその二つの要求を受け入れ、宮殿の中であっても、それ以外のどこであっても、誰もその帰依者の行動や振る舞いに口出ししないようにと告げました。
翌日、王様は昼食の後、宮殿で休んでいました。帰依者はコップにミルクを満たし、王様の寝室の入り口に置きました。それから、乳飲み児をドアの近くに連れてきて、その子を叩き、大声で泣かせました。王様は昼寝の邪魔をされました。王様は激怒して起き上がり、昼休みを邪魔する無礼なことをした者を確かめに出てきました。王様は、部屋から出るときにミルクの入ったコップを倒してしまいました。コップが見えなかったのです。
帰依者は王様に言いました。「昼間はミルクよりも明るく白いのでミルクが見えなかったのです。王様、もしミルクが最も白いものであるなら、ミルクが見えなかったというのはどういう訳でしょう? ミルクよりも昼間の方が白いのです。昼間の光はミルクよりも白いのです。この事実をお認めにならなければなりません」 さらに帰依者は、こう付け加えました。「星は昼間でも空にあります。しかし、昼間の強い光のために見ることはできません。夜がやって来れば、星は見えるようになります」
昼の白さは『英知』を表します。夜の暗さは『無知』を表します。神は英知と無知の両方を超越しています。神を忘れ、人は世俗の体験に夢中になっています。神は神を通してのみ体験することができます。
神は『サット・チット・アーナンダ』と表現されています。サットとは『真理』です。チットは『英知』です。真理と英知が一つになれば、そこにはアーナンダ、すなわち『神性の至福』があります。真理と英知を切り離せば、至福を経験することはできません。真理は砂糖にたとえられます。英知は水にたとえられます。砂糖が砂糖、水が水のままであるなら何も特別なことはありません。しかし、その二つが一つになれば、おいしい甘い飲み物であるシロップを得ることができます。同様に、真理と英知がひとつになったとき、はじめて至福を経験します。真理は、真理を通じてのみ得ることができます。英知は、英知を通じてのみ得ることができます。至福は、至福を通じてのみ経験することができます。英知の化身としての神は、『英知の道』を通してのみ悟ることができます。至高の知識、すなわち『英知』とは何でしょうか? それは、あなた自身の真の自己を知ることです。それが真の知識です。真我を知ることこそ、真我を顕現させることです。絶えず真我に集中することが、神の直接的なビジョンを経験する手段です。真我とは何でしょうか? それはアートマです。皆さんが『私』と言うとき、それは真我を指しています。この『私』とは誰なのでしょうか?それは身体ですか? 心ですか? 知性ですか? アートマ(内なる神)ですか? この問いを探求するなら、アートマだけが『私』であるということを理解するでしょう。
アートマはどこからやって来たのでしょうか? 『ナラ(人)』という言葉は、アートマを意味します。アートマは空、そして他のあらゆるものに浸透しています。したがって、空などの基本元素は『ナーラース』と呼ばれました。これらの元素の根源者は、『ナーラーヤナ』と表現されています。この五大元素によって構成されている人間は神(ナーラーヤナ)なのです。アートマとは、至福に満たされたものという意味です。この至福を世俗的なものから得ることはできません。皆さんが経験するあらゆる快楽は束の間のものなのです。
三つの意識状態
人は心の作用を克服したときにのみ、至福を経験することができます。これが可能となるのはどのようなときでしょうか? それは熟睡しているときです。熟睡している状態は、基因となる形態と表現されています。目覚めている状態は身体上の形態です。夢を見ている状態は精妙な形態です。熟睡状態は基因となる形態です。行動の動機と実際の行動とが忘れ去られるとき、基因体のみが存在します。これらの意識状態は探求してはじめて、得ることができるものです。心をコントロールしたいのなら、良い行為をしなければなりません。良い行為をするにしたがって、良い想念と良い感覚を培うようになります。あなたは、自分で考えた通りのものになります。良い考えをもつなら、真実を正しく理解できるでしょう。反映されているものは変わるかも知れません。しかし、実体そのものが変わることはありません。たとえば、流れる小川や静かな湖、濁った池に映った太陽は様々に変化しますが、太陽自体は変わらないものです。身体は容器のようなものです。心は身体に入っている流体です。そこに反映されているアートマは映像です。その映像は心の状態によって鮮明であったり、不安定であったり、濁っていたりします。ほとんどの人はこの霊的な真理を容易には理解できません。
アートマについての真理
たとえば、ヴェーダンタにはこう宣言されています。「動かない者はまた、動く者でもある」 この意味は、神は動かないものでもあり、動くものでもあるということです。どのようにして、動かないものが動くものとして描写されるのでしょうか?また、どのようにして動くものが動かないものとして描写されるのでしょうか? 「神は不動であるが、神は動いている」というこの言明には明らかな矛盾があります。これに対してヴェーダンタはすばらしい説明を加えています。夢見の状態では、自分自身があらゆる種類の動作を体験します。しかし、夢の中では動いているように見える身体も、実際はベッドの上で動くことなく横たわっています。物質としての身体は動いていません。夢の中の身体は動いています。どちらの身体も同じ一つのものです。身体は、ある意識状態においては静止しており、別の状態においては動いています。
ヴェーダンタは、物質的な状態には動きがあり、霊的な状態には安定した不変性があると宣言しています。したがって、瞑想の目的は安定した不動の霊的状態に到達することにあります。ヴェーダンタは、数多くのこのような深遠な真理を明らかにしています。
たとえば、自分の住んでいるところを聞かれたら、人は特定の地域の特定の住所を答えるでしょう。しかしヴェーダンタによれば、すべての人の真の住居は神です。同様に、人は自分の属するカーストや共同体を示す言葉によって自分のことを言い表すかもしれません。しかし、そのようなものはすべて世俗的な属性に過ぎず、世俗的な目的に役立つに過ぎません。どのような物質的な違いも重要なものではありません。
基盤となる実在は、すべての人の中にあるアートマです。ヴェーダはすべてを『不滅の子』と表現しました。人は精神について話をします。しかし、自分の信じることに矛盾した振る舞いをしています。思い、言葉、行動を一致させるべきです。この三つを一致させるためには、アートマ(真我)についての真理を理解しなければなりません。
このアートマとは『時』であり、時は神です。したがって、時を浪費すべきではありません。時を良い行いで満たしなさい。これ以上のサーダナはありません。良い思いと良い行いによって時を神聖なものにしなさい。そのためには、良い仲間とつき合わなくてはなりません。そうすることによって、やがて解脱へと導かれるでしょう。神への想いで心を満たしなさい。神聖な行為に専心しなさい。これが本当の霊性修行です。
人は何時間も瞑想に時を費やすことを要求します。しかし、心が集中していないなら瞑想は何の役に立つのでしょうか? それなら日常の仕事に従事したり、社会奉仕に尽力したり、バジャンに参加したりしたほうがよいのです。このような手段によって心をコントロールするように努めなさい。また、このような活動は礼拝へと変わるでしょう。思いと行いのすべてを神に捧げなさい。「あらゆる行為が神を喜ばせるために為される」。そうすれば行為は浄化されます。
神を体験したいと思うのなら、義務と行為を通してそれを行わなければなりません。これはそれほど簡単なことではありません。皆さんは私の話を何年も聴いてきました。メモを取り、テープレコーダーを聴いています。しかし、皆さんの中に少しでも変化がありましたか? それがあなた方の生き方です。自分の中で何か変化があったとき、それだけが霊性修行の成果です。皆さんは昼も夜も同じことをして時を費やし続けていますが、何か人生を崇高なものにするための努力をしていますか? 理想的な生活を送るように努力しなさい。日々の振る舞いの中で、何かより良い変化がなければ、いわゆる霊性修行と称されるものはすべて無駄になってしまいます。
揺るぎない信仰
英知は神です。英知はアートマです。自然は『知られるべきもの』です。人は神と自然が結合したものです。『バガヴァッド ギーター』にはこう書かれています。「『クシェートラ(場すなわち身体)』と『クシェートラージュナ(場を知る者すなわちアートマ)』とが共に人間の人としての存在を形成している」 同様に、聖典は人間の身体を寺院と呼び、そこに内在する真我を、その寺院におわす神と呼んでいます。この事実を単に知的に理解しただけでも幸せになれるでしょう。しかし、その理解を日々の生活の中で実践するなら、もっともっと幸せになります。しかし、このようなことに対して立派な決意をするだけで満足してしまい、実行するという強い決断力がないということは哀れなことです。これに関連した、ある物語があります。
昔々、森中の鹿が集まって会議を開きました。鹿たちは自分たちが様々な点で犬よりも優れていると同意するに至りました。鹿は犬よりも早く走ることができ、高く跳ぶことができます。鹿は犬が食べるような激性のものではなく、浄性のものを食べます。したがって鹿たちは、以後決して犬を恐れるべきではないことを大きな喝采の中、満場一致で決議しました。その決議事項が通過するかしないうちに、鹿たちは森の中で大きな犬の吠え声を聞きました。鹿たちは時を移さず命がけで逃げ出しました。鹿の決議は風と共に消え去ってしまいました。会議のあった場所には一頭の鹿も残ってはいませんでした。この会議の結末と、いわゆる霊性修行者と呼ばれる人がする決意とは似たようなものです。
固く信じる勇気や強い決心をする勇気がなければ、時計の振り子のように一瞬一瞬揺れ動く求道者が行う霊性修行は、何の役にも立ちません。反対に、たとえ辛い状況にあろうとも自分の決意を決して揺るがさない人は『英雄』と呼ばれ、そのような人は神の恩寵を勝ち得ます。
私たちは霊的な価値観のもとに世俗的な活動をすることによって、日々の生活の中で成就を求め努力すべきです。私が時々皆さんにお話ししてきたように、手は社会の中に、頭は森の中に置かなければなりません。それはつまり、社会の中でどのような活動に従事したとしても、霊的な理想はしっかりともっていなければならない、ということです。それだけが、永遠の平安をもたらす真の霊性修行です。様々な反映、反響において何が変わろうとも、実在は決して変化しません。あなた方はこの不変の実在、アートマであるということを覚えておきなさい。あなた方の霊性修行はすべて、この固い信念と揺るぎない信仰を確立し、人生を完全に成就させる方向へと向かうべきです。
真の霊性修行
あらゆる行為を神に捧げ、感覚器官すべてを浄化すべきです。これが真の『バジャン』です。『バ』は『神聖なもの』という意味です。神聖なものとは何でしょう?自ら光輝を放つというアートマの原理です。バジャンの『ジャ』という文字はジャパ(神の御名を唱えること)という意味を含んでいます。このように、バジャンとジャパは同じ一つのものなのです。
たとえどのようなことをしていたとしても、呼吸のプロセスにおいて絶え間なく無意識のうちにジャパ(常に神を憶念するということを意味する)があなた方の内で行われているのです。それは『ソーハム(私は神)』です。これは真の霊性修行です。なぜなら、何の努力もしないうちにあなた方の内で呼吸がなされ、心臓が脈打ち、血液が循環しているのと同じように、意識して努力しなくともそのジャパは続けられているからです。これらはすべて自然な過程であり、あなた方が全く意志しなくとも続けられていることです。これに対して、長期にわたる訓練によって無意識のうちに自動的に行われるようになる行為もあります。
たとえば、嗅ぎタバコを嗅ぐ習慣のある人は無意識のうちに指を鼻の方へ動かします。同様に、心はどこかへさまよわせながら、習慣によって無意識のうちにジャパを行う人がいます。これは本当のジャパではありません。(無意識にではなく)超意識の状態で続けられるジャパだけが本当のジャパです。その状態に至るための自分の能力について、いかなる疑念も抱いてはなりません。固く決意するなら、疑いという幻影を越えて間違いなくその状態に達することができます。残念なことにあなた方は、世俗的なことをする場合に比べて、霊的なことに関する目的に対しては固い決意や粘り強さを表そうとはしません。人は、宇宙空間への何百万マイルもの旅をするためにはどんな努力もする準備ができていますが、自分自身に内在する真の自己へ一インチでも行こうと努力することはほとんどありません。どのような知性も、どのような世俗的取得物も、束縛されることのないアートマの平安をもたらすことができないなら、それらは一体何の役に立つと言うのでしょうか? 神のみが、人間に永続する平安を与えることができるのです。
したがって、神の愛の具現である皆さん! 『新年』には、神という意味が含まれていることを知りなさい。神には『時』に関係する様々な呼び名があるのです。純粋な、無私の気高い活動に従事することによって新年を神聖なものとしなさい。できる限り他人を傷つけたり苦痛を与えたりしないようにしなさい。蒔いた通りに刈り取るのです。怒り、羨望、プライド、嫉妬といった感覚に乱されていると感じるときには、油断なく警戒し、神に集中することを頼りとしなさい。
一九九一年一月一日 プラシャンティ マンディールにて
*訳注
ヴァールミーキ 叙事詩ラーマーヤナの作者と伝えられる聖仙
ナンダ クリシュナを、生まれたときから養育した牧人
クチェラ クリシュナ神の学友。
サバリ ラーマに深く帰依した女性
ヴィドラ 『マハーバーラタ』に登場するクル族の勇士
目次に戻ります(C) 1999 Sathya Sai Organization Japan