ラーマナヴァミのメッセージ
三月二十五日はラーマナヴァミ(ラーマ神の御生誕祭)です。
そこで、ラーマナヴァミの御講話をご紹介いたします。
永遠の原理─ダルマ
ダルマ(人の守るべき本分)は時や場所によるものではなく、その時々の必要性や圧力によって変更されたり調整されたりするものではありません。ダルマは、内なる調和と外的な平和へ向かって進んでいく上で、人類を導くたくさんの根本的な原則を意味しています。人がダルマから外れてさまようなら、肉体的な苦役を強いられる以上に大きな害に直面することでしょう。今、十分な警戒をせず、十分に団結しないなら、敵に侵略され、囚われの身となる恐れがあります。しかし、ダルマを失うことは大惨事にも等しいのです。自分に与えられた能力を十分に使うことができないなら、人生に何の価値があるでしょう?
この原理は、サナータナ(永遠)と呼ばれます。なぜなら、この原理に起源はなく、その創始者は確認され得ないものであるからです。この原理は公明正大な賢者の清らかな知性に啓示されたものだからです。この原理は基本であり、永遠です。一時的な気まぐれを表すものではありません。限られた社会の必要に応じるために他の国々で生まれた意見が猛攻撃をしかけてきても、インドは揺るがず、臆しません。なぜなら、インドはあらゆる時、またあらゆる人々のために定められたダルマを固く守っているからです。インドの統治者もまた、ダルマに厳しい人々を尊重し、厳しい苦行によって清められていた、ダルマを深く信頼する人々や、ダルマを解釈する人々のアドバイスを受けました。彼らは統治者の中の統治者を認識しており、祈りと苦行によって神の導きを求めました。自分たちを支配している者とは、永遠の内在者、すなわち照覧者であることを彼らは知っていました。彼らは、神は王に対してだけでなく、最も地位の低い民にさえも十分に慈悲深いのだということを教えられていました。ゆえに、この国の統治者は、全国民一人一人の幸福に心を配り、一人一人の苦しみに関心をもつよう警告されていたのです。
目に見えない存在―神
ダルマとは学生、家長、労働者、主人、召使い、霊性修行者、世俗を放棄し遊行生活を送る人などのような、人間の各段階における理想に近づくための行動規範です。その規範が歪められ、人がこの世にやって来た崇高な目的を忘れて、この世での生涯を自ら蝕むとき、神は化身し、人を正しい道へと導くのです。つまり、神はダルマの原理を復興し、ダルマの実践の回復のために人間としてやって来ます。これが、ギーターの中で『ダルマサムスターパナ』と言われているものです。学者たちは、例えばラーマやクリシュナのような、神がまとった姿のうちで、誰がより良く、より偉大であるかを議論するかもしれませんが、神がまとった姿に上も下もありません! それはボクシング対決のような激しい喜びを学者たちにもたらす、一種の知的訓練に過ぎません。ヴィーラヴァドラ シャストリーは今、これに似た問題を提示しています。最初に言っておきましょう。神はここであろうとどこであろうと、どのような姿をまとおうとも、分かつことのできない存在なのです。
ラーマの本質
ラーマは、人間であると錯覚を起こさせるような姿で顕れました。ラーマは、幼少のときからでさえも、日々の行いの中でダルマを固く守りました。ラーマはダルマの具現です。ラーマの中には、悪のかけらもありませんでした。 ラーマの神性は、穏やかな気質、愛と優しさの中に顕れています。ラーマを瞑想しなさい。そうすれば、すべてのものに対する愛に満ちあふれます。ラーマの物語を常に思っていなさい。そうすれば、心の中のあらゆる動揺が、完全な静けさへと鎮められることに気づきます。女性の悪魔であるタータキが殺されなければならなかったとき、賢者*ヴィシュヴァーミトラが「タータキは、神御自身の弓矢によって呪いから解放されなければならない」と説得するまで、ラーマは議論し、ためらい、思い止まっていました。これが、ラーマの愛と優しさの徴です。
ラーマは、他人を殺すための都合のよい言い訳を作るために、その人を挑発するようなことは決してしませんでした。また、ラーマは敵対者を救うためのあらゆるチャンスをその敵対者に与えました。ラーマは、*ジャーバーリのような賢者だけでなく、*ヴァーナラーや*ラークシャサたちにもダルマのメッセージを伝えました。ラーマは、*ヴィビーシャナの敬意をためらうことなく受け入れ、もしも*ラーヴァナが自分の不正行為を悔い改めるなら、そのときだけはラーヴァナさえも受け入れる用意があると宣言しました。『真理を語りなさい』と経典は告げています。ラーマはあらゆる誘惑を物ともせず、真理を固く守りました。『徳ある行為を実践しなさい』と経典は告げています。ラーマは決して道から外れたりはしませんでした。例えばラーマは、皆さんも知っているように、父の命令に従うために、十四年間を森で暮らさなければなりませんでした。したがって、その間は人が住んでいる街や村には行きませんでした。ラーマは、*スグリーヴァやヴィビーシャナの戴冠式が催されたときでさえも、*キシュキンダーや*ランカーへは行かずにいました。ヴィビーシャナは、「十四年にはあと数日を残すのみです」と言い、深い悲しみに沈んでラーマに嘆願しましたが、ラーマは代わりにラクシュマナを送りました。ラーマは、決して動揺したり行き過ぎたりするようなことはありませんでした。このような厳しさをもって、ラーマは誓願を守ったのです。
アートマ ラーマ
ラーマはダルマの具現です。クリシュナは愛の具現です。ラーマは、ダルマという義務を常に意識していました。ダシャラタが、死に至るほどに苦悶しながらラーマの馬車を追いかけて、「止まれ、止まれ」と叫び、スーマントラに止まるように頼んだとき、ラーマはスーマントラに止まるなと言いました。ラーマは言いました。「もしダシャラタ王があなたをたしなめたなら、聞こえなかったのだと言いなさい」スーマントラは苦しみました。どうしてラーマが真実でないことを言うでしょう? しかし、ラーマは説明しました。「馬車を止めろという命令は、悲しみに打ちひしがれた父からのものです。それに対して、私を森に連れていくようにという命令は王からのものです。あなたはその王の臣下なのです。悲しみによって理性を失ってしまった人のうわごとは聞くべきではありません。あなたは王の命令のみを聞かなければなりません」
神の化身が出現する前ですら、舞台は非常に綿密に、細部に至るまで用意されているのです。*カイケーイーは、まだ未決定であった二つの頼みごとをしようとしています。ダシャラタは、息子と離れ離れになったとき、その苦しみがゆえに死ぬことになるだろう、という苦行者の呪いをその身に受けようとしています。ヴァーナラーは神の目的の手助けをしようとしています。*シーターは、悪が崩壊する原因を提供するために、大地より立ち上がろうとしています。ちょうど花輪が、様々な植物から集めた花々や様々な色と香りの花々で造られているように、神の物語という花輪は、神の物語のすばらしい筋書を決定するための様々な出来事や頼みごと、恩恵、祝福、呪いによってつくり上げられるのです。
ラーマは、いかにして苦しむのかということを人に示したのだと言う人がいます!では、もしも、ある王様が宮殿で芝居をする準備をし、乞食の役を演じることを喜び、非常にリアルに演じたとして、それゆえにあなたはその王様が極貧の不幸に苦しんでいると断言するでしょうか? ラーマは至福です。至福はラーマです。もしも砂糖が甘くないなら、どうしてそれが砂糖であり得るでしょう? もしもラーマが苦しんでいるなら、それはラーマではあり得ません。鉄のボールは皮膚にやけどを負わせることはできません。しかし、鉄のボールを真っ赤に熱するなら、それは可能です。それは役割を演じているに過ぎません。熱が冷めてしまえば、鉄のボールは常に冷たいのです。
もしあなた方が、少なくともラーマが抱いていた父と母に対する帰依心を抱くなら、ラーマの御名があなた方を救うでしょう。両親への帰依心がないなら、ラーマの御名は単に唇の運動に過ぎません。ラーマの御名を唱えたり書いたりするときには、ラーマの御姿とラーマの本質を瞑想しなさい。それは心の訓練となり、霊的意味において心は強く健全になるでしょう。このラーマの誕生日に、このダルマの化身をあなた方のアートマ ラーマとしなさい。それが私のアドバイスであり、私の祝福です。
一九六三年四月一日
*訳注
ヴィシュヴァーミトラ 厳しい苦行をしたヴェーダの聖仙の一人 ジャーバーリ アヨーディヤーの王ダシャラタの司祭 ヴァーナラー キシュキンダー国の猿たち ラークシャサ 悪鬼 ヴィビーシャナ ラーヴァナの弟 ラーヴァナ ランカーの悪鬼。シーターを誘拐した スグリーヴァ キシュキンダー国の猿の王 キシュキンダー 南インドの猿の王国。現在のマイソールにあったともいわれる ランカー 現在のスリランカ。ラーヴァナの住む島 カイケーイー ダシャラタの三人の妻の一人 シーター ジャナカの王の娘。ラーマの妻
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