シヴァラトリのメッセージ
今年2月15日に行われたマハ シヴァラトリ(大シヴァ神祭)での御講話からの抜粋です。
過去を忘れ
未来を案ずることなく
現在の義務を果たす者
その者こそ悟りを得た者
愛の化身である皆さん!
過去は過去です。未来は不確かなものです。ただ「今」だけが私たちの手の中にあります。今を生き、自らの喜びを同胞と分かち合うことが人間の第一の義務です。実のところ、人間はあらゆる生物の中で最も幸運な存在です。この全宇宙に比べれば、人は原子のように極めて小さなものですが、にもかかわらず、人はその創造の広大さを理解することができるのです。これはまさに驚くべきことです。人は、小宇宙と大宇宙が一つであることを理解することによって不滅へと至ります。自らのハートという畑で愛という収穫を得る者は、誰であろうと真のキリスト教徒であり、真のシーク教徒であり、真のヒンドゥー教徒、真のイスラム教徒なのです。事実、そのような人こそが真の人間です。人は愛なしに生きていくことはできません。この愛の原理がヒラニヤガルバ(黄金の宇宙卵、黄金の胎児)です。このヒラニヤガルバは人間の身体の右側に位置するものであり、肉体上の心臓は左側に位置しています。左側(left)にあるこの心臓はいつの日にか環境の変化とともに消え去る(left)ものです。人体の右側(right)に位置するヒラニヤガルバは常に正しい(right)のです。永遠であり、不滅であり、そしてあらゆるものを包含しています。人間のみならず、鳥や獣、生き物たちすべての内に存在しています。ヴェーダは宣言しています。「神はあらゆるものの内に存在する」「神は全宇宙に浸透している」 愛はヒラニヤ(黄金)から生じました。反作用、反響、反射という3つの原理がヒラニヤガルバから生じました。人は真の自己を理解できないままに、一時的ではかない束の間の喜びを追い求めて人生を浪費しているのです。
かつて、ある僧侶がブッダに近づき、ブッダを討論に引き込もうと試みました。その条件とは次のようなものでした。「もし私が負けたなら、私は自分の3千人の弟子とともに仏教を学び、生涯あなたに仕えよう。しかし、もしもあなたが負けたなら、あなたは私に仕えねばならない」 ブッダは微笑んで言いました。真の僧侶とはすべてを等しく見る心をもつ者のことです。真の僧侶は苦しみと楽しみ、喜びと悲しみといった人生の二元性に違いを認めません。怒りとエゴに満ちた人を僧侶と呼ぶのは適当なことではありません。 ハリドワール、リシケーシュ、バドリーナート、アマルナートなどの巡礼地では、死者の魂に解脱を授けるマントラを与える巡礼案内者がいますが、巡礼案内者(パンダー)を僧侶(パンディット)と呼べるはずがありません。
この世には、聖典に通じている人々が大勢いますが、単なる学識や、師の御足のもとに座るだけでは、真の自分とは何かを知ることはできません。分厚い本に精通している者は大勢います。しかし、一つでも教えを実践している者がいるでしょうか?実践されることのない学問が役立つことはありません。バガヴァッド ギーターは明言しています。
太古の詩仙、支配者
微より微なる者
一切の支持者 不可思議の姿をした者
暗黒の彼方にありて太陽のごとく輝く者
『詩仙』とは誰でしょう? 詩仙とは、過去、現在、そして未来を知っている者のことであり、単に言葉遊びをする者のことではありません。つまり、神のみが本当の詩仙であることを意味しています。『太古の(プラーナ)』の隠された意味とは何でしょう? 『プラ』は身体を意味しています。身体において、頭のてっぺんからつま先に至るまでを動かしている神聖な原理がプラーナと言われるのです。次に来るのが『支配者(心を支配する者)』です。あなた方は罪を犯した人を刑務所に入れるかもしれませんが、しかし、その人の心が世界中を駆け巡るのを止めることはできません。この世の中に、心に命令することのできる人は一人もいません。心を支配する力をもっているのはただ、神のみです。したがって、神は『心を支配する者』として知られているのです。
このような説明をし、ブッダはその僧侶を黙らせました。そして、虚栄や自己顕示、プライドやエゴを捨て去るようにと助言を与えました。世俗の知識に心を奪われることのないようにと教えました。ブッダはその僧侶に、神について知り、神に全託するようにと熱心に説きました。
ブッダは言いました。「私は長い間、霊性修行を行ってきました。知識を求めて様々な聖典を詳細に学んできました。そしてついに、真の自分とは何かを知るためには、感覚を支配することが最も重要であることを知ったのです。五つの感覚は神からの贈り物です。正しく使いなさい。そうしてはじめて、あなたは真の自分とは何かを理解することができます。五感を適切に用いることなしに、聖典に精通したり霊性修行を行ったりすることが、一体何の役に立つというのでしょう? 私は五感を制御し、正しい道に沿って用いるようにしてきました。その結果、私は至福を経験しているのです」
ブッダは五感を制御し、正しく用いることによって涅槃へと到達しました。涅槃とは何ですか? 涅槃とは至福との融合に他なりません。水泡は水の中で生まれ、水の中で保たれ、ついには水に溶け込みます。同様に、人は至福の内に生まれ、至福の内に保たれ、やがては至福に融け込みます。至福は、五感を制御することによって経験できるものです。これが真の霊性修行です。単に神の御名を歌うだけでは十分ではありません。まず第一に、感覚を制御しなければなりません。涅槃に達した時、ブッダは従弟アーナンダが涙を流しているのを見て、そばに呼び、言いました。「アーナンダ、その名のとおり、おまえは至福(アーナンダ)を経験すべきだ。決して悲しみの涙を流してはいけない。おまえは至福の化身だ。私たちは皆、神(ブラフマー)の具現なのだ」 そう言ってブッダはその手をアーナンダに置き、涅槃に達したのです。誰であろうとこの真理を理解する者は、至福を経験し、神へ到達することができます。解脱することは極めて容易で、簡単なことであるというのに、なぜあなた方は解脱を求めて苦しみもがくのですか? それは単に、あなた方が真理を認識するために何の努力もしていないということです。あなた方は、黄金にも例えられる自らのハートに、世俗的な欲望という金属を混ぜ合わせているのです。その結果、ハートは汚され、至福という真の性質は失われてしまいました。
正義、富、欲望、そして解脱は人生の4つの目的(プルシャールタ)であると見なされています。実際、これらは人生の4つの段階に対応しています。すなわち、学生期、家長期、林住期、遊行期です。この4つの段階は、言葉の真の意味においては人生の4つの目的に対応してはいません。今日人々は、プルシャという言葉が男性に該当するものであり、女性に該当するものではないという誤った観念を抱いています。しかし実際には、プルシャとはアートマ、意識、生気、個々の魂を意味しています。アートマには男性女性というような性はありません。ゆえに、人生の目的とは意識の原理のダルマ、生命の原理のダルマ、アートマ ダルマを意味するのです。それこそが真のプルシャールタ、最も重要な人生の目的です。この人生の目的という言葉の真の意味を理解しないままに、人々はこのダルマは男性のためのものであり、あのダルマは女性のためのものだと語ります。融合こそが真のアートマ ダルマであり、真の目的です。
2番目の目的は富です。富はお金や黄金を意味しているのではありません。お金や黄金を得ることが人生の目的ではありません。お金は、来ては去って行きます。英知こそ真の富です。多様性の中に一体性を見ることが真の英知です。人は英知という富を得なければなりません。
3番目の目的は欲望です。欲望は感覚的欲望を意味するのではありません。人は解脱への欲望を抱くべきなのです。人は、アートマの原理を理解し神へ到達したいという欲望を抱くべきです。ヴェーダーンタの一つ一つの言葉には、たくさんの意味が結びついています。多くの人々が様々に説明しています。今日、人々が人生の4つの目的について理解していることは、学生期や家長期、林住期、遊行期という4つの人生の段階に相当するものです。これらは霊的なダルマに相当するものではありません。霊的なダルマこそ真のダルマです。これによってのみ解脱が授けられます。解脱とは何でしょう? 解脱とは単に、神に到達するということではありません。思いと言葉と行為が神と一つにならなければなりません。ガンジス河やゴーダヴァリ河、サラスワティー河のような河には様々な名と形がありますが、一旦大海に融けこむと、河はその名や形や特性を失います。同様に、一旦神に融合すれば、違いは全くなくなります。そのような不二一元性を経験することこそが、人生の真の目的です。
[このシヴァラトリの朝、バガヴァンは実に20数年ぶりにヒラニヤガルバ リンガム(黄金の宇宙卵)を物質化なさいました。帰依者にそのリンガムを見せて、バガヴァンは続けられました]
過去20年間、帰依者の皆さんはリンガムの顕現を目にする恩恵を与えられませんでした。なぜなら、このすばらしい光景を見るために、いつも何10万もの帰依者たちがプールナチャンドラ ホールに集まって来たからです。プールナチャンドラ ホールでは大勢の人々を収容することができないため、いつも人が殺到していました。その結果、帰依者たちは大変不自由な思いをしていました。それを避けるために、リンガムの顕現は中止されたのです。これだけでなく、他に3種類のリンガムが顕現していました。それは「ブール」と「ブワッ」と「スワハ」です。「ブール」は体現(身体)を意味し、「ブワッ」は振動(プラーナ)を、そして「スワハ」は放射(アートマ)を意味しています。私はしばしば、「あなた」は1人ではなく3人であると言ってきました。すなわち、「あなたが自分だと思っているあなた(身体)、他の人があなただと思っているあなた(精神的な身体)、本当のあなた(アートマ)」です。シヴァラトリにはいつも、この3つのリンガムが顕現していました。今もなお、幾つかのリンガムが現れ出ようとしていましたが、私はそれを止めました。あなた方に話すべきことがたくさんあるからです。将来、あなた方は神の顕現をもっとたくさん見るでしょう。この至福は神の近くにいてはじめて経験できるものであり、その他の場所では経験できないということを理解しなさい。私があなた方と同じように話し、笑い、歩き、食べているからといって惑わされてはなりません。身体の感覚に惑わされてはなりません。私の行為はすべて無私、無私、無私です。私には利己心は全くありません。この真実を固く信じなさい。完全に信じるなら、たとえどこにいようとも、あなたの願いは求めずともかなえられます。完全な信仰を抱かない者のみが苦しむのです。自己への信頼を深めなさい。これがあなたが最初に取りかからなければならない霊性修行なのです。
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