ディーパーヴァリー(ディワリ)  
       
   

サイババの写真光のお祭り、ディーパーヴァリーは、インドの太陰暦におけるカールティカ月(日本の旧暦の長月)の新月の日に祝われます。太陽暦では通常10月の終わりから11月の初めに当たります。 ディーパーヴァリーはディワリあるいはディーワーリーとも呼ばれますが、ヒンドゥー教のお祭りの中でももっとも広くインド全土で行われるお祭りで、正義が悪を征服して勝利すること、そして人々の霊性の闇を照らすことを象徴する、光のお祭りです。「ディーパーヴァリー」という言葉の文字どおりの意味は「ランプの列」です。このランプというのは、単に真理についての英知を象徴しているだけでなく、すべてのものの内で輝く唯一なるアートマのことも指しています。 伝説によると、この日は、ナラカースラ(ナラカ阿修羅)というアスラがクリシュナ神との戦いに敗北し、捕虜となっていた1万6000人のゴーピカー(クリシュナ神に帰依する牛飼いの女たち)が解放された日とされています。陰鬱な気分と悲哀が終わりを告げたことを記念して、ゴーピカーたちはランプをともし、クラッカーを鳴らし、花火を上げてこのときを祝ったと言われています。インドの市中では通常ディーパーヴァリー当日前後2日を含め5日間かけて祝われ、特にグジャラート州と北インドの一部では、ディーパーヴァリーの日は大晦日、翌日は新年の元日として祝われています。


「ババの御言葉」

ディーパーヴァリーとは「ずらりと並んだ光」という意味です。ウパニシャッドの中に、「タマソーマー ジョーティルガマヤ」(暗闇から光明へと導き給え)という祈りがあります。これは、暗闇のあるところには光が必要であることを意味しています。暗闇とは何でしょう? 暗闇の一つの形態は悲しみです。平安のないことも暗闇です。死も暗闇です。失望も暗闇の一つの形態です。災いも暗闇です。やる気のなさも暗闇です。これらはすべて、暗闇のさまざまな形態です。悲しみという暗闇を取り除くには、幸福という光に火を灯さなければなりません。病という暗闇を晴らすには、健康という光を据えなければなりません。損失と失敗という暗闇を乗り切るには、繁栄という光を導き入れなければなりません。

科学的観点からディーパーヴァリー祭を見るなら、かつて遠い昔に、私たちの先祖が北極圏で暮らしていたことに注目すべきです。北極圏では夜が6カ月間続きます。そこでの太陽はメーシャ サンクラーンティの日(太陽が黄道上で白羊宮に入る日)に姿を現し、トゥーラ サンクラーンティの日(太陽が天秤宮に入る日)に沈みます。白羊宮から天秤宮に移るのに6カ月間かかるのです。太陽が天秤宮に沈むと暗黒の半年が始まります。

今日はカールティカ月〔11月〜12月〕のチャトゥルダシー(14日目)で、アマヴァスヤ(新月)です。カールティカ月はカウムディと呼ばれます。昔、北極圏の人々はこの日からランプを点灯し始めました。ランプを灯すことには意味があります。その日から長いこと闇の中にいることになるために、人々はそのランプをニティヤ・ジョーティ(絶えざる光)と呼びました。

シュリ ラーマの戴冠式は、ラーマがラーヴァナと羅刹の輩を倒してアヨーディヤーに凱旋したのちのディーパーヴァリーの日に行われました。ラーマが森に追放されていたために、アヨーディヤーは長いこと闇におおわれていました。ラーマという光がなかったために、アヨーディヤーは暗黒の都でした。一方、森は光で満ちていました。ラーマの帰還は、神の光の帰還としてアヨーディヤーの市民に歓迎されました。そのため、人々はあらゆる場所にランプを灯して、その出来事をお祝いしました。

それだけではありません。今日のお祭は別の意味深いことがらも祝します。今日は、ヴァーマナ(矮人(わいじん)、ヴィシュヌ神の化身)に化身した神が、皇帝バリから三歩分の土地(神の三歩)を得る約束を交わしたのちに、バリを冥界に追放した日です。ヴァーマナは、バリのアハムカーラ(エゴイズム)を成敗(せいばい)するために三歩分の土地の寄贈をうまいこと利用したのでした。

ディーパーヴァリーは、大我(ブラフマン)がエゴを制圧したことを祝うための祭です。人は、無知の闇に埋もれ、永遠のものと移ろいゆくものとを識別 する力を失っています。アハムカーラによって生じた無知の暗闇が、神聖な知識の光で晴らされるとき、神の光が体感されます。ディーパーヴァリーは、皇帝ヴィクラーマ ディティヤが王位に就いた日でもあります。

もし、人が無知の暗闇を晴らそうというのであれば、外界のランプと同じように、容器と灯油と芯とマッチ箱が必要です。人間にとって、心(ハート)が容器で、頭(マインド)が芯です。愛が灯油で、ヴァイラギャ(犠牲)がマッチ箱です。あなたにこの四つがあるとき、アートマ ジョーティ(アートマの神聖な炎)が燦然と光り輝きます。アートマの光が燃えるとき、英知の光が現れて無知の暗闇を晴らします。

ランプの炎には二つの性質があります。一つは暗闇を追い払うことであり、もう一つはつねに上へと向かうことです。墓穴の中に入れられても、ランプの炎は上に向かって燃えます。そのため聖賢たちは、人をより高い状態に導く炎として、英知の明かりを崇めました。ですから、光の輝きを取るに足らない現象として扱うべきではありません。外界の明かりを灯すのと同じように、人は、内なる明かりを灯すよう努めるべきです。人間の財産は神聖な性質によって管理されるべきです。これには、トリカラナ スッディ(三つの道具の純粋性)という、肉体と心(マインド、マナス)と言葉の三重の純粋さが要されます。

ディーパーヴァリーの内的意味は、人を暗闇から光へと導くことです。人は絶えず闇に埋もれています。暗闇におおわれるたびに、人はいつまでも輝き続ける内なるランプに火を灯すべきです。どこへ行くときにもそのランプを持って行きなさい。あなたがどこにいようとも、そのランプが道を照らしてくれるでしょう。

1991年11月5日の御講話より

私たちが今日祝っているディーパーヴァリー祭の意味を調べると、シュリ クリシュナが阿修羅(あしゅら)ナラカースラ(地獄の阿修羅の意)を滅ぼしたことを祝う、伝統的な喜ばしい祝祭であることがわかります。私たちは、まずクリシュナ原理を理解して初めて、ナラカ原理の意味を理解することができます。クリシュナは、五大元素である風、(くう)、火、水、地の具現です。クリシュナは、プラーナ、アパーナ、サマーナ、ウダーナ、ヴィヤーナという五つの生気の具現でもあります。
 「クレーム、クリシュナーヤ、ゴーヴィンダーヤ、ゴーピジャナヴァラッヴァーヤ、スワーハ」――このマントラには『バーガヴァタム』の本質が含まれています。五つの名前は五つのプラーナ(生気)を表しています。クレームは地を、クリシュナーヤは水を、ゴーヴィンダーヤは火(火の神)を、ゴーピジャナヴァラッヴァーヤはヴァーユ(風)を、スワーハは空を表しています。
 神が五大元素に内在していることに気づくと、この宇宙に五大元素の存在しない場所はないことがわかります。人体は五大元素でできています。肉体を作っているために、五大元素は肉体にしか影響を及ぼすことはできず、アートマに影響を及ぼすことはできません。
 『バーガヴァタム』に出てくるクリシュナの物語を注釈する際に、多くの書き手があらゆる誤った解釈をしました。そうした誤った解釈の一つに、クリシュナの妻たちに関するものがあります。

『バーガヴァタム』に関する誤った解釈
 人体には、シャドチャクラと呼ばれる六つの霊性の中枢があります。その中でもっとも重要な二つが、フリダヤチャクラ(ハートの中枢)*(1)とサハッスラーラ((サハッスラ)の花びらの中枢)*(2)です。フリダヤチャクラは「ハートの蓮の花(フリダヤカマラ)」と呼ばれ、サハッスラーラは「千枚の花びらのある蓮の花」と呼ばれます。ハートの蓮の花には八枚の花びらがついています。八枚の花びらは、八つの世界、八つの方位 、世界の八人の守護者、八つのブータ(霊)、地上の八つの地域の象徴です。これら八枚の花びらの主であったために、クリシュナは八人の妃の夫と記述されたのです。主はパティと記され、主の支配下にあるものは妻と記されました。これは世俗的な意味での夫妻の関係ではなく、象徴的な関係です。こうした関係の深遠な意味が正しく理解されなかったために、『バーガヴァタム』は誤って解釈されました。

また、クリシュナは一万六千人のゴーピカ(牧女)と結婚していたとも述べられています。ゴーピカとはだれでしょう? このゴーピカは肉体の姿をもった牧女ではありません。人間の頭には千の花びらのついた蓮の花があります。クリシュナは16のカーラの具現と記されています。サハッスラーラ(花びらが千枚ある蓮の花)の主として、クリシュナはその蓮についている一万六千のカーラを支配します。脊柱(せきちゅう)(ムーラダーラ)の下部から上昇したクンダリーニ シャクティは、サハッスラーラの一万六千の実在物に融合します。これが、肉体に内在する神の役割の深遠な意味です。この内的な意味に気づかずに、人々は誤った解釈やよこしまな解説をしています。
 クリシュナと阿修羅ナラカの戦いは、こうした背景をふまえて理解しなければなりません。「ナラカ」にはアートマに敵対する者という意味があります。ナラカとは阿修羅という意味ではありません。ナラカは地球の周りを公転していた星の名前です。地球に近づきつつあるとして、人々がこの星の脅威に恐れを抱くと、クリシュナは星を破壊して人々の恐れを取り除きました。

ディーパーヴァリーはクリシュナの勝利を祝うもの
 私たちはときおり惑星がもたらす危険を案じます。たとえば、人々は数年前、「アシュタ グラハ」(八つの惑星)の配置から、世界は重大な危険にさらされるのではないかと推測しました。五千年前、人々はある惑星が地球に近づいて来ることを恐れました。クリシュナは、その不安を和らげるために人々を救いにやって来て、迫りくる危険を取り払いました。ディーパーヴァリーの祝日は、ナラカースラ(阿修羅ナラカ)から救出された日として、クリシュナの勝利を祝います。この日は神が人類を暗闇から光明へと導く時として祝われるのです。
 伝説として伝えられているナラカースラの話には、ナラカースラはプラーグジョーティシャプラムの(あるじ)であると記されています。プラーグジョーティシャプラムの象徴的な意味は「アートマを忘れた場所」というものです。その内的な意味は、悪の力はアートマが忘れられている場所に宿る、というものです。今日の世界のあらゆる混乱と悪は、人がアートマを忘れてしまったという事実が原因です。すべての人は自分の肉体と精神を意識していますが、内なるパラーマートマ(神)を意識していません。

ディーパーヴァリーの日、私たちは一本のロウソクでたくさんのランプに火を灯します。ほかのランプに火を灯す光は、神の象徴です。ほかのランプはジーヴァナ ジョーティ(個々人のランプ)です。それらは一つの至高なる光から生じました。この光の祭典を祝うのは、その真理を人に教えるためです。
 伝説によると、クリシュナはサティヤバーマの助けでナラカースラを殺しました。これは何を意味しているのでしょう? 私たちの一人ひとりが、サティヤ(真理)の力を用いて、自分の内にいる悪の軍勢と戦い、悪を滅ぼさなければなりません。ウパニシャッドは、「サティヤメーヴァー ジャヤテー」(真理のみが勝利する)と宣言しています。ヴェーダには、「真理を話しなさい」という訓示があります。あるとき、大地の女神がヴィシュヌ神のもとに行き、自分はどんな重荷にも耐えられるが、非真に興じている者たちの重荷を背負うことには耐えられない、と嘆きました。人は、真理を守るためにはどんな犠牲もいとわないことを覚悟しなければなりません。これは、誓いを守るために妻子と王国を犠牲にしたハリスチャンドラによって教えられた教訓です。ハリスチャンドラは真理の最高の保持者として傑出しています。

すべての者が真理を固守する努力をすべきです。真理は神です。神への信仰と、真理を固く守ることによって、あらゆる悪の軍勢を負かすことができます。

1989年10月28日の御講話より

阿修羅ナラカースラが根拠地としていた都は「プラーグジョーティシャプラム」と呼ばれていました。都の名前は、「プラーグ」、「ジョーティ」、「シャ」、「プラム」という四つの音節でできています。プラーグは「以前の」、ジョーティは「光」、シャは「忘れること」、プラムは「肉体」という意味です。これらを合わせるとハートを指す言葉となります。この言葉の内的意味は、肉体をまとっている人間は自らの内にあるアートマジョーティという光を忘れている、というものです。「ナラ」(人間)という言葉にはさまざまな意味があります。一つの意味は「アートマ」、そしてほかには「永久でないもの」という意味もあります。ナラである人間は、自分の本当の霊的な状態を忘れています。ナラの都に悪い性質が入ると、人はナラカースラ(阿修羅的存在)になります。ナラカースラという言葉には、人々をナカラ(地獄)まで運ぶ人という意味もあります。

バーラタ(インド)の祝祭の根底にある内的意味を正しく理解すべきです。たとえば、ずらりと並んだランプはすべて、一つのランプの火で灯されることに注目してごらんなさい。その一つのランプは燦然と光り輝く至高神の象徴です。ほかのランプは個我の内にある光の象徴です。「一なるものは多となることを意志した」というヴェーダの言葉の真理は、一つのランプの炎でたくさんのランプを点火することに例示されます。ディーパーヴァリー祭は、このようにして、もっとも深遠な霊的真理を証明しているのです。

ディーパーヴァリーは、阿修羅ナラカースラの象徴するあらゆる悪い性質を取り除くための日として祝わなければなりません。この日に解放されたゴーピカたちは、私たちの内に閉じ込められている善い性質の象徴です。善い性質は光を放って表に現れるべきです。これがこの祝祭の内的意味です。阿修羅のような性質が残っている限り、人は闇に埋もれたままでしょう。悪い性質と悪い思いは完全に取り除かなければなりません。

私は、私たちの祝祭や聖日が、それぞれの内的意味を理解した上で、その真意をくみとって祝われることを望みます。ナラカースラの滅亡は、悪の滅亡と善なるものの復活の象徴です。

1988年11月9日の御講話より

ディーパーヴァリーには、光の輪や光の綱という意味があり、その祭はもっとも特徴的な方法ですべての人に祝われています。ディーパーヴァリーは、古い服を捨てて新しい服をまとう日です。家とその周囲を掃き清め、新装し、すがすがしく、きれいに見えるようにする日です。そして、そうした作業をしている最中、擦り切れた偏見を捨てること、愛と互いに敬意を払うという新しい習慣を身に付けること、親戚 縁者や、あらゆる宗教、あらゆるカーストの兄弟姉妹への態度を新たにすること、ハートの戸口の敷居に友情と同胞愛のしめ飾りをかけること、を心していなければなりません。そうすることで、ディーパーヴァリーの祝祭は、真に意味のある、実り多いものとなるでしょう。

また、ディーパーヴァリーは、ダナラクシュミーと呼ばれる富の女神に捧げる日でもあります。インドの多くの州では、ダナラクシュミー プージャを行ってこの日を祝います。そして、富がやって来たら、信用して与えるべきものとして尊び、私腹を肥やすためではなく、社会の貧困を改善するために使わなければなりません。富は来るかもしれませんし、去って行くかもしれません。奨学金は得られるかもしれませんし、得られないかもしれません。喜びもまた、来ては去って行くかもしれません。何が起ころうとも不動でいなければなりません。目的地へと向かうために自分が選んだ道から外れてはなりません。

1973年10月25日の御講話より

人間は、人と獣と神の混合物です。あなたは、そのうちのだれが優位 に立つかを争う、三者間の避けることのできない戦いにおいて、ただの人間と卑しい獣を抑えこみ、神が勝つことを確実にしなければなりません。ディーパーヴァリーの祝祭は、人の中にあって人を神性から引きずり降ろす、ナラカの性向を負かしたことへの感謝を示すためのものです。ナカラは地獄の名前です。そして、今日クリシュナの手で死んだことを祝われている阿修羅は、人間の上昇志向を妨げるあらゆる性質の権化であり、ナラカースラと呼ばれています。

ナラカースラはブーミ(大地の女神)の息子と言われていますが、また、バウマ(物質、大地、この世)とも呼ばれています。これは非常にふさわしい呼び名です。というのも、この世とこの世のものに対するあらゆる執着は、痛みと悲しみの世界へと私たちを引きずり降ろすからです。この世の領域、この世の富は、感覚を越えたところにある霊的な領域、真の自己の認識、真の自己への信頼という霊的な富の前にあっては無力です。

このディーパーヴァリーの日に、ナーマスマラナのランプを灯し、それをあなたの戸口である唇に据える決意をしなさい。そのランプに信愛の油を注ぎ、不動心をその芯としなさい。あなたの人生のすべての瞬間にそのランプを輝かせなさい。御名の光の輝きは、あなたの外側の暗闇と内側の暗闇の両方を追い払うでしょう。あなたは自分の近くに来たすべての人々の間に、喜びと平安を振りまくでしょう。

1965年10月24日の御講話より

訳注:
(1) アナハタチャクラとも言われ、心臓部に位置する。
(2) サハッスラーラチャクラは頭頂部に位置している。

ディーパーヴァリーの御講話

  • 2002年 サナザナサラチ79号
  • 1992年 サナザナサラチ48号
  • 1991年 サイラムニュース170号
  • 1989年(未訳)
  • 1988年 sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19881109.html
  • 1973年(未訳)
  • 1966年(未訳)
  • 1965年(1)(未訳)
  • 1965年(2)(未訳)