母の必要を満たし、母が心穏やかにすごせるように手助けをしようとの思いは重々ありますが、相手がどういう状態で、どう思っているかに想いを巡らせず、時に思いやりのないことを言ったりしてしまいます。
もちろん、この御言葉に対する思いでも良いですし、相手を思いやることから、進んで犠牲を払うという行動に移すまでにある色々な障害や、どうそれを乗り越えるかということや、それらに関するスワミの御言葉を紹介して下さっても良いです。
そしてその、うまく行ったり行かなかったりの経験をメール等で分かち合い、より良く実践出来るようになりたいと思います。
2月の感想
私にとっては認知症の母との関係が主で、母が何度も同じことを聞いてきたり言ったりするときや、トンチンカンな受け答えをするときに、ある程度までは優しく答えられるのですが、段々ぞんざいに答えるようになってしまいます。
母にすれば、単にさっき聞いたことの答えや、聞いたこと言ったこと自体を覚えていないからそうしているだけだし、聞いたことを理解して答えた言葉が、私が言ったこととはズレていただけで、意図して変なことを言っているわけではないのに、なぜそのままに対応できないのだろうと考えたとき、母の現状をそのままには受け入れられずに、以前のようであってほしいという気持ちが「相手の立場に立つ」ことを妨げているのだと気付きました。
それは、認知症の症状を改善できるであろう方法を今の状況では十分に行えないことへの満たされない思いや、そもそも肉体のレベルでしか母を見ていないことが原因だと思いました。
身近な人ほど姿形への執着が強いのでなかなか難しいのですが、母のこの姿は魂がまとった一時的な衣に過ぎず、それは私と愛を分かち合うため、私が気付いていない私の色々な面を気づかせてくれるためにあるのだと思って接するように心がけました。
それでも優しく答えられないと思うときは一呼吸おくようにしたり、何度も何度も機会は与えられるので、少しずつ思いやりのないことを言わなくてもすむようになっています。
でもなぜ、相手を傷付けたいわけでもないのに、相手が嫌がるだろうと分かっていることをしてしまうのかは、より深く考えてみたいと思います。
そしてまた、そもそも相手の思っていること感じていることを分かることができるのだろうかという疑問がわきました。
色々なことに母がトンチンカンな受け答えをしたりするのでそう思うのと、どう感じているのかと思って聞いても “大丈夫” とか、こちらを安心させるようなことしか言ってくれないからそう思うのですが、これは認知症の研究をしていた医師が自分が認知症になり体験を綴った本を読んで、その不安や情けなさや混乱を知ることができました。
また、記憶力や論理的な思考力が衰えていっても感情は残っているので、プライドを傷つけるようなことは言ってはいけないとのことでした。
確かに母も “色んなことをすぐに忘れる” “何もできなくなった” と嘆いています。
また、誰かにされたことの不満を言うときに、何がいやなのかを知ることもできます。
完全には理解できなくても、相手に思いを巡らし、嫌がりそうなことはせず、喜びそうなこと、しなければいけないことを、相手が受け入れやすいように言ったりしたりすることが大切だと思いました。
それがどうだったかは、喜んだり戸惑ったりの表現から知ることができますし、スワミが気付かせてくださいます。
「最善を尽くして、結果は神に委ねる」だと思いました。
------------------------------------------
職場やセンターで、セヴァ(人の中におわす神への奉仕)をするときに、同僚や家庭(家族)を犠牲にしていたことに気づきました。周りの方々に皺寄せがいかないように、周りにも気を配りながら、セヴァに取り組むように心がけました。