Hear 2 Heart - ラジオ サイ リスナーズジャーナル

ギーター・モーハンラーム女史による講演@

私の拝見してきた驚くべきスワミ


 

本稿は、英国タワー・ブリッジでのサイ・リトリート(静修会(せいしゅうかい))における、ギーター・モーハンラーム女史の講演(2004年パート1)をまとめたものです。ギーター・ラーム女史は、四世代にわたってスワミと交流のある家に生まれました。女史は、バンガロールにあるスワミのアシュラム「ブリンダーヴァン」の名士で熱心な帰依者、パドマナーバン博士の御息女です。女史の曽祖父、シェーシャギリ・ラーオ氏は、1943年にスワミのもとに来られ、長年にわたってプラシャーンティ・ニラヤムの寺院の僧侶を務められました。たいへん幼いころからスワミのもとに来られているギーター・ラーム女史の人生は、驚くべきサイ体験と驚嘆に値する逸話にあふれ、そのどちらも、興味深く、啓発的です。現在、女史はアメリカのワシントン州在住です。

 

つねにおられる私たちのスワミ蓮華の御足に敬礼し、皆さんにサイ ラムと申し上げます。サイ ラム!

このリトリートのテーマは「すべては一つ」というものだと知り、私は自分がインドからアメリカへ渡り、さらにアメリカから英国にやって来たということで、このテーマについて思いを巡らせておりました。このサイの地域リトリートの会場に入ってくるとすぐ、この場にいる全員と一つであると感じます。それは私たちの愛するスワミが、スワミの愛で私たちを結び付けてくださるからです!

ですので、私をここに置いてくださったことを、皆さんに感謝いたします。もう遅いので、今日はスワミのことを少しだけお話できたらと思います。先ほど女性の方が、お話の初めに、主、そして、一人の女性と子どもの姿をとって主を訪れた三人の人物に関する、美しい物語を読んでくださいました。私たちの主は、かのように物事をなさることで知られています。

招待状は要らない

物語が読まれている間、私は1970年に起こった奇妙な体験のことを考えておりました。私の母が初めて英国のロンドンを訪れることになったのは、スワミからシーターラーム氏(英国で初めてサイ センターを立ち上げた古参の帰依者の一人)の家で話をするようにと言われてのことでした。スワミが母にその家を訪問しに行くようにとおっしゃったのは、そこがインド国外で最も早い時期にオープンしたセンターの一つだったからです。

私の母は、インド国外を旅行したこともなければ、また、それは初めての一人旅でもありました。スワミはシーターラーム氏に愛のこもった手紙を書いて、冒頭で私の母を送ることをお伝えになっていました。スワミはその手紙に、私の母が何を食べるか、母はベジタリアンで、しかも、口やかましいベジタリアンだ(笑)、ということさえお書きになっていました!

母の出発の直前に私たちがプッタパルティを訪れたとき、私はまだ学校に通う少女でした。母が旅立つので、スワミは私たちをインタビューに呼んでくださいました。そのインタビューで、スワミは母に、

「心配することはない。私はシーターラーム夫妻に手紙を書いておきました。二人はヒースロー空港に迎えに来てくれるでしょう」とおっしゃいました。

インタビュールームから出るとき、スワミは母にお金のことまで聞いてくださいました。当時、インドで外国のお金に両替するのは、とても難しいことでした。そこで、スワミは私の母に、英国に持っていくようにと500ポンドをくださったのですが、それは、もし買い物がしたいなら、ということでした!(笑)

お楽しみはさておいて、そのインタビューでのことです。インタビュールームには、ある一人の婦人がいたのですが、スワミが全員(その部屋に何人もの人がいた)に話をしていたとき、その婦人は、スワミが間を入れるたびにスワミに話しかけていました。婦人はこう言っていました。

「スワミ、スワミは私たちの町においでにならなければなりません。私たちは、自分たちの町でたくさんのセヴァを、奉仕をしています」

皆さんはもちろんご存知かと思いますが、当時のサイ オーガニゼーションは、まだ出来て日が浅く、いわば、型を作っている最中でした。ですから、スワミはさまざまな地域の人を何人かお選びになり、それぞれの地元でオーガニゼーションを率いさせていました。

さて、そのように、スワミが間を入れるたびに、その婦人は、

「スワミ、スワミは私たちの町においでにならなければなりません」と言っていました。

婦人が最初に言ったとき、スワミは婦人を無視なさいました。二度目、また無視なさいました。そして、三度目、私は少しドキドキしてきました。なぜなら、皆さんもご存知かと思いますが、私たちが何かを言ったとき、スワミが二度無視なったら、それはもう口をつぐんだほうがいいからです。けれども、その哀れな婦人はそのことを知りませんでした。私には、これは、この哀れな婦人を使って教訓がなされるのだということがわかりました。婦人は今夜のスケープゴート(悪玉)になるのだと。

さて、三度目、その婦人はスワミがまだ話をなさっているときに、また言ったのです。

「スワミ、スワミは私たちの町においでにならなければなりません」

すると、スワミは婦人を見て、おっしゃいました。

「ですが、もう済んでいます! 私はもうあなたの町に行きました!」

しかし、その哀れな婦人は、それでも口をつぐまずに、こう言いました。

「いいえ、スワミ! スワミはまだ私たちの町においでになっていません」

スワミは話題を変えましたが、突然、その婦人を見て、おっしゃいました。

「あなたの町のセヴァはどんな具合ですか? 奉仕はどんな具合ですか?」

そのとたん、婦人はとても喜びました。なぜなら、婦人はその町の奉仕のコーディネーターだったからです(笑)。婦人は言いました。

「スワミ、奉仕はとても素晴らしくよく進んでいます。ご存知かも知れませんが、始めた当初、セヴァに出かけて行くのは、5家族から10家族ほどでした」

当時、スワミはよくこうおっしゃっていました。

「毎日、セヴァ(家事)をしているときに、家の料理に使っている米や小麦粉を一つかみ脇に取り分けておきなさい。しばらくして、それがある程度たまったら、全部集めてサイの帰依者で一緒に料理を作り、貧しい人たちに配りなさい」

毎日一つかみのお米(ハンドフルライス)を取り分けておくことの背景にある目的は、家族のために毎回食事を作るたびに、食べるものが何もない人たちのことを思い出すことでした。

ですので、その婦人は言いました。

「スワミ、私たちが始めたとき、お米を取り分けていた人は10家族でした。今、私たちは100人いて、持ち寄るお米は25キロほどになります。私たちは大勢の人に食事を施しています。スワミ、セヴァは素晴らしくよく進んでいます!」

これは自分で自分の首を絞めているようなものです! スワミのことを知っていたらですが(笑)。なぜなら、自分たちがどれほど素晴らしくよくセヴァをしているかをスワミに話すことは、私たちには不要だからです。自分たちがどれほどよくやっているかということは、スワミが私たちにお話しになることです。スワミはおっしゃいました。

「オー! ベリー ハッピー! ベリー ハッピー!」
テルグ語で、「チャーラー サントーシャム!」(とても幸せです)と。

さあ、婦人は我を忘れて喜びました! その婦人はセヴァ コーディネーターでした。すぐにでも地元に帰って、どれほどのことがあったかを皆に話さんばかりでした。

ところが、突然、思いがけなく、スワミはおっしゃいました。

「料理にはどういうお米を使っているのかね?」

私は、即座に母を突(つつ)きました。なぜなら、私はいよいよお小言が始まったと感づいたからです(笑)。お小言は、まず笑顔という形から始まります! 婦人は言いました。

「スワミ、とてもよいお米です! 私たちはとてもよいお米を使っています!」
スワミはおっしゃいました。

「いいや、私は他の人のことを聞いているのではありません。私はあなたのことを聞いているのです! あなたはセヴァの活動のために、どういうお米をとってあるのですか?」

「よいお米です」と婦人は言いました。スワミは言いました。

「え、本当ですか? よいお米?」

婦人は言いました。

「はい、スワミ、とてもよいお米です!」

そして、その間にも、婦人は言い続けていました。

「ところで、スワミ、スワミはご自身で私たちの町にセヴァを見にいらっしゃらなければなりません!」

スワミはおっしゃいました。

「ベリー グッド! ベリー グッド! そういえば、知っていますよ、家族には5ルピーのお米、ナーラーヤナ セヴァ、奉仕、貧しい人への施しには2ルピーのお米」

すると、婦人は言いました。

「いいえ、そんなことはありません、スワミ!」

スワミはおっしゃいました。

「そうです、そうです! 私を信じないのですか? 自分の家には5ルピーのお米、貧しい人には2ルピーのお米」

明らかに5ルピーのお米のほうが質がよく、2ルピーのお米は、きちんとゴミなど取っておらず、質のよいものではありません。婦人は言いました。

「いいえ、スワミ。よいお米です、スワミ」

すると、満面の笑顔をたたえていたスワミの表情が、さっと変わりました! 今日、ここで皆さんにこの出来事をお話ししている今でさえ、私は1970年に逆戻りして、スワミの表情が変わったのを目に浮かべることができます! スワミはおっしゃいました。

「私を信じないのですか? 待っていなさい! 見せてあげましょう。あなたは、"お母さん、お米を恵んでください"と言って家にやって来た物乞いに、お米がいっぱい詰まった袋を渡しませんでしたか? 赤い布袋に包んでとったおいたナーラーヤナセヴァ用のお米です。2年前にそれを物乞いに渡しませんでしたか? 私を信じないのですか? 待っていなさい!」

それから、スワミは奥の部屋に入って寝室に歩いていき、2年前にその物乞いが渡された、2ルピーのお米の入った赤い袋を抱えて戻っていらっしゃいました!

「あなたはこれを私にくれませんでしたか? 私はあなたの町に行ったのです!」

皆さんは、そのときの沈黙を、その部屋がしんと静まり返ったのを、婦人の恥ずかしさを、想像できるでしょう! 婦人は恥じ入りました。目には涙があふれていました。ここで信じていただきたいのですが、その日、インタビュールームにいた10人は、その後、スワミがお喜びにならないようなセヴァをあえてしに行くことなど、決してなかったでしょう! なぜなら、それは、それほど心を動かされた体験だったからです。スワミはおいでになるのです。主として、あらゆる姿で、あらゆる時に!

これが、私が小さな子どもだったころから拝見してきた驚くべきスワミです。スワミは私の母でした。スワミは私の父でした。スワミは私の先生であり、よい友人でした。そして、スワミは、驚くべき、愛すべき主でもありました。

ここで、先にお話ししていた私の生い立ちについて、もう少しご紹介したいと思います。私の祖父は1943年にスワミのもとに行きました。それは「非常に変わった方法で」でした。祖父は行きたくなかったのですが、引きずってこられたのです。私の叔母たちは、それより6ヶ月前の1942年にスワミにお目にかかっていました。叔母たちは、当時まだ16歳だったお若いスワミを拝見していました。叔母たちは、スワミがお歌いになる歌やスワミのメッセージに深く感動して家に帰ってきました。スワミは叔母たちに、ダサラー祭という10月にある10日間のお祭り、つまり、ナヴァラートリー祭に戻ってくるようにとおっしゃっていました。叔母たちは、私の祖父に自分たちをプッタパルティに連れ行ってもらいたいと望みました。なぜなら、当時のプッタパルティへの旅は、とても大変だったからです!

当時のプッタパルティへの旅の「ハイライト」

皆さんはきっと、プッタパルティへのむちゃくちゃな旅について本で読んだことがおありでしょう。プッタパルティは私の家族が住んでいたバンガロールから100キロしか離れていませんでした。私の家族は皆、バンガロールに住んでいました。たったの100キロとはいえ、プッタパルティに着くまでに優に一日半以上はかかりました! 私たちは午後2時ごろバンガロールを発って、それからペヌコンダというアーンドラ・プラデーシュ州の小さな村に着いたのは夜中の2時ごろでした。列車はそこまでで、私たちは列車を降りて外に出ました。夜中の2時には何もありませんでした。ただ花崗岩(かこうがん)の塊があっただけで、それはその駅だったのですが、私たちはその石の上に座りました。

私は子ども時代、ずっとその地ペヌコンダでとてもとても多くの時間を過ごしたことを覚えています。私たちはただ小さなかばんからシーツを取り出して石の上に広げ、その上に寝そべって朝の6時くらいまでうたた寝したものでした。そして6時ごろ、一行の中の子どもたち全員に飲ませるために近くの店で牛乳を手に入れようと、何人かの大人が辺りを走り回りました。けれども、私たちに牛乳を売ってくれる人は誰もいませんでした。というのは、私たちがプッタパルティに行こうとしていたからです。ペヌコンダでは誰もスワミ(当時16〜17歳)を信じていませんでした。誰もスワミを信仰していませんでした。ペヌコンダの人たちは、「自分は神だと言っている頭のおかしな少年がいて、あんた方のように都会からやってくる人たちが、皆で状況を悪くしている」と言っていました! ですから、実際、村の人たちは帰依者たちに石を投げつけて、「次の列車で帰れ、行くんじゃない!」と言ったものです。帰依者たちは、ただ座って「サイ ラム、サイ ラム」と唱えていました。


Puttaparthi in 1940s - 50s

たまに、誰か貧しい村人が子どもたちをかわいそうに思って、ほんの少し牛乳を売ってくれることもありました。6時半くらいに子どもたちに牛乳を飲ませてから、朝7時ぐらいに、私たちは全員、小さな荷車に詰め込まれ、ブッカパトナムという別の場所へと運ばれました。それは次の村でした。そこで降りると、選択肢が二つありました。チットラーヴァティー川まで歩いていって、川を越えるために水に浸かって歩いて渡り、プッタパルティ(旧マンディール)にたどり着くか、あるいは、牛車(ぎっしゃ)に乗るかです。牛車の持ち主は、そうしたい気分のときには、私たちに川を渡してくれました。たまに、川まで乗せてから、「俺はもうどこにも行かない。皆、降りてくれ!」と言うこともありました。(笑) それは、川が氾濫(はんらん)していたからですが。チットラーヴァティー川は今皆さんが目にするようなものではありませんでした。川には水がありました!(笑) 特に10月中は雨がたくさん降ったので、川は急激にあふれ出し、人々はそこで降りなければなりませんでした。

ときたま、男は、「渡らせることはするが、子どもと荷物だけだ」とも言ったものです。ですから、大人は皆、川に浸(つ)かって渡らなければなりませんでした。かわいそうに、女性たちは悲鳴を上げたり、怒鳴ったりしながら、サリーを着たまま川を渡ろうと奮闘しました。誰も泳ぎを知らなかったので、皆とても怖がりました!

そして、子どもたちです。私は大人たちがあんなことをしたなんて信じられません! 大人たちは私たち子どもを、荷物と一緒にぎゅうぎゅうに牛車に詰め込んだのです! 私は従兄弟をはじめ、全員を覚えています。私たちは皆、牛車に座り、牛は川を渡るよう仕向けられました。牛たちが川に入ったとき、何が起こったと思いますか? 牛が泳ぎだしたのです! おかげで、牛車は牛の後ろでぷかぷかと浮いていました。(笑) 私たちが下らなければならなかった丘には、とても大勢の人たちが立っていました。そして、その中で最初の犠牲者となった一団が、牛車だったのです。皆、「サイ ラム! サイ ラム!」と叫んでいました。(笑)

牛車の持ち主たちは何とも奇妙な叫び声を上げていました! 私たちは、「どうしてそんな叫び声を上げて私たちを怖がらせるの?」と言いました。すると男たちは、「あんた方を怖がらせているんじゃない。牛たちを怖がらせて泳がせようとしているんだ!」と言いました。(笑) そうやって男たちが怒鳴り散らして怖がらせれば怖がらせるほど、牛たちは速く泳いでいきました。私たちは全部の荷物と一緒に牛車の中で揺らされて、水の上を上がったり下がったりしました。

一つの荷を降ろして、また戻ると、今度は次の一団の人たちの番です。皆さんも想像がつくと思いますが、丘の上から最初の一団を見ていた二番目のグループは、心臓発作を起こすのではと思うくらい心配していました!(笑) そして、次も全員が放り込まれました!

そうしている間にも、男たちは戻りの牛車の中で食べものを平らげていました! プッタパルティでは何も手に入りませんでした! 皆さんの中で最近プッタパルティに行ったことのある方は、信じてください、皆さんはとても、とても幸運です! 今はイタリアンレストランもあれば、ピザハットもあれば、何でもあります! 当時、私たちがプッタパルティに行ったときには、何もありませんでした! 店は一軒もなかったのです! 何かバンガロールから持ってくるのを忘れたら、また牛車に乗って、ブッカパトナムまで戻って買わなければなりませんでした。ですから、本当に、私たちは全部のものを、だいぶ上手いことかばんに詰めていました。

旅はこんな具合でした。前の日の午後2時に出発して、次の日の午前11時か12時に川を渡り、牛車に乗って、びしょ濡れでプラシャーンティ・ニラヤムに着いたものでした!

けれども、対岸には私たちの愛する主がおられ、私たちが牛車から降りるのを手伝うために待ってくださっているのです!

「さあ、いらっしゃい! とても疲れているのでしょう! ご婦人方は皆、ずぶ濡れですね。さあ、いらっしゃい!」

といっても、部屋はどこにもありませんでした。プラシャーンティ・ニラヤム(至高の平安の館)はありませんでした。何もありませんでした! 一行は旧マンディール(寺)に行かなければなりませんでした。そして、そこにも部屋は三つしかありませんでした。スワミの部屋と、私の祖父の部屋と、予備の部屋です。ですから、私たちは皆、着替えをするために予備の部屋に行きました。それから、私たちが部屋から出てくるまでに食事が用意されていました! スワミが村の女性たちに料理を作らせていたのです。さらに、スワミは子どもたちの全員が食事をもらっているか、大人たちの全員が食事をもらっているかを、確かめてくださっていました。そして、午後3時ごろになると、スワミはこうおっしゃったものです。

「よし!! もう、お腹が空いている人はいなくなったのですから、腰を下ろして、話してください。バンガロールでは何がありましたか? どうやって出てきたのですか? どのくらいここにいるのですか?」

祖父と16歳のサイ

私たちのプッタパルティへの旅はこのようなものでした。そうした旅の一つに、私の祖父が――私は祖父の話をするために話し始めたことを忘れてはおりません(笑)――一緒に来てほしいと頼まれたのでした。なぜなら、男性の付き添いがいなかったら、女性だけでは旅はあまりにも大変で、出かけられなかったからです。さらに、祖父は厳格なブラフミン(バラモン階級)の紳士でした。当時はそうしたことが重要だったのです。祖父は言いました。

「わしは16歳の小僧(こぞう)になど会いに行かん! 其奴(そやつ)はブラフミンですらない! 学校にも通ったこともない! サンスクリット語も知らない奴だ! わしは行かん!」

そこで、二人はこう言ってせがみました。

「いいえ、いらして下さらなくてもいいんです。ただプッタパルティまで私たちを護送していただきたいのです。私たちは彼にまた会いたいのです。彼が来なさいと言ったのです」

プッタパルティの村には親戚が一人住んでいました。その親戚は寺の僧侶でした。そこで、祖父は言いました。

「わかった! 護送しよう。じゃが、わしはその若輩(じゃくはい)には会いに行かん! おまえたちは、わしが16歳の、教育も受けていない、ブラフミンでもない文盲に会いに行き、その若輩を偉人の類だと信じるほど頭がおかしいと思うのか? おまえたちは、まったく頭がいかれておる! わしはその若輩には会いに行かん。わしが信じて毎日礼拝しているのはシヴァ神だ。わしはおまえたちをそこで降ろして、親戚の家に行って過ごす。それだけだ!」

このようにして、二人は最終的に祖父を説き伏せたのでした。

二人は殿方が同行してくれることになって喜んでいました。そして一行は、牛車、それから列車、それからバス、それからペヌコンダで石を投げられ、その他もろもろという全旅程を果たしました! 時間が経つに連れてその旅がどんなものかがわかった祖父は、よく二人を怒っていました。そして、とうとう一行は旧マンディールに辿り着きました。もし、皆さんの中で、プッタパルティには行ったことがあるけれども旧マンディールには行ったことがない方がいらしたら、どうか行ってみてください。今はだいぶ変わってしまいましたが、スワミがよくお座りにいなっていた石は、まだあると思います。

一行は夕方5時半に到着しました。スワミは当時、よくその石にお座りになっていました。今やっているようなバジャンはしていませんでした。当時は今のようなやり方ではバジャンは歌われていませんでした。ただ長い歌を次々に歌っていました。一人が歌うと次の人が次の歌を歌い、スワミが三番目の歌を歌うといった具合に、スワミもバジャンに参加なさっていたのです!

夕方、バジャンが行われているときに、四人は、私の祖父と二人の叔母は、到着しました。私たちがオールドパッタム・マンダラム、つまり、旧マンディールの敷地の中に入ると、スワミはその石の上にお座りになっていました。さて、二人の女性の手助けをすることになっていた殿方、私の祖父シェーシャギリ・ラーオはどうしたでしょう。祖父はスワミを見ました。自分は見ない、その場を立ち去る、と宣言していたのに、祖父はスワミを一瞥したのです。そして、その2秒後、ドスン! 祖父は床に倒れてしまいました。

二人の叔母はどうしたか想像できますか? 祖父は二人を守るはずが(笑)、失神して床に倒れてしまったのですから! スワミはバジャンの途中で立ち上がって、おっしゃいました。

「心配ない、心配ない!」

スワミは立ち上がり、その58歳の男をスワミの部屋に運んでベッドに寝かせるために、手を貸してくださいました。スワミはおっしゃいました。

「心配しないで。二日間はこの状態のままです。行って、バジャンに参加しなさい」

それで、かわいそうに、二人の婦人は、スワミにお目にかかるのはまだ二度目だというのに、父親は失神し、自分たちは座って何とかバジャンを歌おうとしていました! 集中力について話しながら! そこにはスワミがいらして、幸せそうに石の上に座ってバジャンを続けていました。バジャンが行われている間、二人が、「お父さんに何があったんでしょう?」と言うと、スワミはおっしゃいました。

「心配しないで、目が覚めたら自分で教えてくれますよ。大丈夫です。私が面倒を見ます」

そうして、一日半の間、スワミは58歳の老いた男の面倒を見てくださったのです。スワミは二時間おきに男の口に水を含ませては、ヴィブーティを物質化して額に付けてくださいました。それは二日にわたって続きましたが、二人の哀れな婦人は、父親が回復するかどうかわからずにいました。

二日後、祖父は目を覚ましました。祖父はすっかり変わっていました! 祖父は言いました。

「おまえたち女は、わしの二人の娘は、バンガロールに戻って構わんが、わしは戻らない」

叔母たちは言いました。

「お父さんは、ここに来るために同行するのではない、とおっしゃっていました! 私たちと一緒に戻らないとは、どういうことでしょう? 」

祖父は言いました。

「戻らない。この敷地内に足を踏み入れて、石の上に座っていた少年を見たとき、わしは少年の顔にシヴァ神を見たのだ。頭に月があるのを見たのだ。首に蛇が巻き付いているのを見たのだ。額に第三の目があるのを見たのだ! それぞ、わしが15年間礼拝してきたシヴァ神なのだ。わしはシヴァ神を見たのだ。どうしてシヴァ神のもとを離れることなどできようか? わしは戻らない」

それから、祖父はプッタパルティから退職届けを出し、二度と戻って来ることはありませんでした。その後、祖父がバンガロールに来ることはありましたが、それはスワミに同行してのことでした。それはスワミがバンガロールにいらっしゃる場合のことでした。そうして、祖父は1965年に亡くなるまでプッタパルティに住み続けました。

私たちは皆、スワミとより親しくなろう、スワミにより近づこう、スワミにとってより愛おしい存在となろうと務めました。けれども、それは骨の折れることでした。こうしたいろいろな話を聞くのは素晴らしいことですが、ただ聞くだけでは済まされないのです。幸か不幸か、私たちはスワミが教えてくださることを実践しなければなりませんでした。祖父が「其奴(そやつ)はブラフミンですらない!」と言ったところから、「私」が他の誰よりも大切だったところから、「私たち」へと変わらなければなりませんでした。「私たち」へと変わっていかなければなりませんでした。私たちは狭量な「私」から成長して、「私」の家族から「私たち」の家族、親戚、友人へと、そして、サイの帰依者すべてを含めるようにならなければなりませんでした。成長するには、とても長い時間がかかりました。

さて、祖父はプッタパルティに留まり、祖父のおかげで、私の父も21歳という若い歳にスワミの帰依者になりました。そして、私はとても、とても幸運なことに、その結果、その家に生まれたのでした。ですから、それ(スワミを信じること)は難しくはありませんでした。実際、私は皆さん方全員に感心しています。遅くにスワミのところにいらした皆さんに。なぜなら、成長してからだと、より難しいからです。大人になると、社会がすでに自分のシステムの中に入り込んでしまっています。「行って、受け入れて、見て、信じること」は、さらに難しくなるのです。そして、特に、それは異なる文化からやって来た方には、もっと難しいことです。私は、1988年にスワミからアメリカに行きなさいと言われるまでそのことを本当にはわかっていなかったということを、実感したのでした。

「荷造りをしなさい」

夫と私はバンガロールにいました。夫はサイ・センターの面倒を見ていて、私はバル・ヴィカスの教師をしていました。子どもたちはバンガロールで生まれました。私たちは二人とも、バンガロールのサイの活動と、生身のスワミがいらっしゃるところに始終深く関わっており、スワミから離れてとても遠いところに行くことなど、まったく望んでいませんでした。ですが、突然思いがけなく、ある日、スワミは私たちに、「荷造りをしなさい、行く時間です!」とおっしゃったのです。けれども、私たちは行きたくありませんでした! 私たちは泣きました。私はタントラ(護符)を投げ捨てました。(笑) スワミにとって私はずっと問題児でしたが、スワミは私にとてもやさしくしてくださいました。それは普通、母親が問題児にそうであるのと同じでした。私は行きたくありませんでした。スワミはおっしゃいました。

「いいえ、あなたは行かなければなりません!」

スワミは私が発たなければならなかった日に、すてきな話をしてくださいました。スワミはおっしゃいました。

「わかっているでしょう、あなたは私の近くで、それはたくさんの体験をしてきました。あなたはそれが"ただ"だったなどと思っているのですか?」(笑)

この世には、残念ながら、"ただ"であるものは何一つありません。(笑) スワミはおっしゃいました。

「あなたは行かなければなりません。あなたは、行くときには小さなスワミを、3フィート5インチ(約104センチ)のスワミを見ているだけですが、私のもとを発ってアメリカに行けば、遍在のスワミを見るようになるでしょう!」

そして、私は本当に見たのです! 私がこのようなリトリートに来て、皆さんのようなサイの帰依者にお会いして、「皆さんはスワミのことをどのようにして知ったのですか?」と尋ねると、帰依者の方たちは私に素晴らしい話をしてくださいました。私は言いました。

「何ということでしょう! 私はバンガロールで自分のちっぽけな問題のことでスワミを追いかけて走り回っていたというのに、ここにいる人たちは、スワミを見たことがないのに、スワミと話したことがないのに、ただの一度もインタビューに与(あずか)ったことがないのに、スワミのもとに来たのね! スワミはどうやってそれをなさったのでしょう? それは、ただただ、私たちがスワミのところに来るべき時に、スワミの愛が私たち一人ひとりに放たれたということね」

私はアメリカに行き、年を重ねるにつれて、スワミが「あなたはここで小さなスワミを見ているたけですが、行けばそこで遍在のスワミを見るようになるでしょう!」とおっしゃった意味を本当に理解するようになりました。

GODとDOG

先の講演者の方は犬についてお話しになりましたが、それである話を思い出しました。スワミが、マイソールという、バンガロールから80キロほど離れた所に住んでいた私の従兄弟(いとこ)たちに宛てた、すてきな手紙がありました。

その時、従兄弟の母は子どもたち全員を残して、ある催しのためにプッタパルティに出かけていきました。一番大きな子どもは16か17で、他の子どもはもっと小さく、幼い子どもでした。親たちは二日後に戻るからと言って、行ってしまいました。親は行ってしまい、子どもたちだけが残されたのです。母親がプッタパルティに行くと、スワミは降誕祭に向けてここに留まりなさいとおっしゃいました。降誕祭は一ヶ月も先でした! そこで母親は言いました。

「スワミ! 私は子どもを皆、置いて来たのです。プッタパルティに一ヶ月留まることはできません!」

スワミはおっしゃいました。

「なぜ、子どもたちのことを心配するのですか? 私が子どもたちと一緒にいます」

母親は言いました。

「でも、スワミ、子どもたちはとても小さいのです。私がいないと、あの子たちは私のことを心配するでしょう。学校に行く支度もできないでしょう。一番上の子はカレッジにいますし」

スワミはおっしゃいました。

「心配しないで。私が手紙を書きましょう」

そして、スワミは私の従兄弟たちに宛てて、すてきな手紙をお書きになりました。従兄弟は今もそれを持っています! スワミはこうお書きになりました。

「あなたたちは、宇宙の母が、この全宇宙を生んだ母が、あなたたちと一緒にいるというのに、自分の肉体の母が離れているからといって心配しているのですか?」

それがスワミのなさった問いかけでした。

「私があなたたちと一緒にそこにいないことを心配しているのですか? 私はいつもあなたたちと一緒にそこにいるのですよ!」

そして、スワミはその手紙に、従兄弟たちの日常に起こった多くの出来事を拾い出してお書きになりました! スワミはおっしゃいました。

「あなたたちは昨日これらをしませんでしたか? おととい、これらをしませんでしたか? おととい、プージャー ルーム(祈りの部屋)に明かりを灯すために、ランプに油を足しませんでしたか? 」

スワミはその手紙にそうしたあらゆる出来事を書き出して、それからこう結びました。

「それでも、まだ心配だったとしても、心配しないで。あなたたちの家で飼っている犬は、朝はD-O-G、犬で、夜はG-O-D、神です! 彼があなたたちの番をしてくれますよ!」

今日は多くのことがありましたが、スワミは私を時間内に迎え入れてくれました。さて、これが私が子ども時代ずっと体験してきた驚くべきスワミです。スワミはいつも私たちと共におられるということを、スワミは何度も私たちに確信させてくださいました。

私が次にスワミに会った時、スワミは私に言うべきことがたくさんおありになるに違いありません。私がバジャンに15分遅れて入ってきたこと、私が来たときすでにバジャンが始まっていたこと――ごめんなさい、スワミ、私は遅れてきました!

ハイドラマ(高尚な劇)をハイティーのときに


General Cariappa

私は、カリアッパ大将という、私たちが独立を手にした後のインド軍の初代の大将のことを思い出しました。スワミはカリアッパ大将のことがたいそうお好きでした。大将はとても背の高い人でした。もちろん、私たちインド人の中では背が高かったという意味です。大将は6フィート3インチか、4インチ(190〜193センチ)ほどありました! ですから、スワミが何をおっしゃっても大将はスワミを見下ろし、スワミはいつも見上げなければなりませんでした。カリアッパ大将は非常に礼儀正しい人だったので、スワミの身の丈になるようにひざまずいていたものでした。そうすれば、スワミが見上げなくてもよくなりますから!

ある日、スワミが私の両親の家に夕食にいらしたとき、カリアッパ大将は言いました。

「スワミ、パドマナーバン博士の家に来る途中、スワミは私の家のハイティー(夕食の時間が遅かったイギリスで夕方に食卓のテーブルで紅茶と軽食をとる習慣。アフタンーンティーよりも高いテーブルを使うためハイティーと呼ばれる)にお越しにならなければ」

パドマナーバン博士というのは私の父のことです。すると、スワミはおっしゃいました。

「いいですとも! 行きましょう。ハイティーは何時ですか?」

すると、カリアッパ大将は、私たち皆がいる前でこう言いました。

「スワミ、きっかり5時です。1分前でも1分後でもいけません」

スワミはおっしゃいました。

「おや! わかりました!」

私の父は、当時スワミを車にお乗せしていたので、スワミをカリアッパ大将の家にお連れして、その後カリアッパ大将の家から自分の家の夕食にお連れするよう命じられました。ですが、私の父は場所を探すのが大の苦手で、二分先の場所に父を連れて行っても道に迷ってしまうほどでした! ですから、父はスワミをブリンダーヴァンからカリアッパ大将の家にお連れして、そこからさらに自分の家にお連れすることに、神経をピリピリさせていました。ブリンダーヴァンから自宅までは問題ありません。これまで何万回も通って道を知っていましたから。ですが、その道から外れてカリアッパ大将の家に行くことは、本当に心配でした。そこで、父は言いました。

「試しに前の日に行ってみることにします。ブリンダーヴァンからカリアッパ大将の家に行き、そこから自宅に来てみます。そうすれば道がよくわかるでしょうから」

一方、スワミは父にこうおっしゃいました。

「時間通りに来るのですよ。ハイティーには、1分前でも、1分後でもダメないのですから」(笑)

父はさらに固まってしまいました!

私は幸運な8歳で、スワミが出かけるところにはいつも一緒でした。父が車を運転していましたし、私の兄は私より少し年上で16か17だったのですが、スワミの車は兄が運転していました。私はいつも付き添っていたのです。私は幸運にも、いつも車に乗って、13か14になるまで、スワミがお出かけになるところにはいつも一緒に行っていました。スワミはブリンダーヴァンでも私におっしゃいました。

「いつでも車に乗れる準備をしておいて、誰も待たせてはいけないよ」

そういうわけで、前日の夜、父と私はブリンダーヴァンに行き、カリアッパ大将の家まで車を走らせ、また戻ってきたのでした。万事時間どおりに進み、遅れることはありませんでした。翌日、私たちがブリンダーヴァンに着くと、スワミは車に乗るときに父にお尋ねになりました。

「パドマナーバン家までの道はわかりますか?」

なぜなら、スワミは父のことをよくご存知だったからです。(笑)

「ええ、スワミ、位置はつかめています。昨日試しに走ってみました。道はわかります」

「ベリーグッド!」とおっしゃって、スワミは車にお乗りになりました。父はバンガロールを出て運転を始めました。父はよく道がわかっていました。なにせ、10分前に着いてしまったのですから!(笑) そして、もちろんスワミは、一度も腕時計をなさったことはなかったのですが、こうおっしゃいました。

「パドマナーブ、10分早く来てしまいましたよ! 覚えていますか、大将は1分前でも1分後でもいけないと言っていたではありませんか?」(笑)

そして、続けておっしゃいました。

「何度かこの一画を回っていれば、5時きっかりになるでしょう」

ああ! 皆さんにもそのときの父の顔を見せたかった! 父はその一画を回り始めましたが、どうやって戻ったらいいかわからなかったのです!(笑) なぜなら、そのコースは試運転には入っていなかったからです!(笑) そうして父は回り始めたのですが、当然ながら、エゴが「スワミ、道に迷いました!」とは言わせませんでした。(笑) どうやってスワミにそのようなことが言えるでしょう? 父は私を見て、「注意して交差点を全部見てきたんだろう?」と言いました。当時のバンガロールには、道の標識も、道の名前も、何もありませんでした。そして、私は9歳にもなっていませんでした! 父は言いました。

「道の名前を全部見てきただろう? お父さんはどこで曲がった?」

父はそれらすべてを小声でささやきました。なぜなら、後ろの座席にはスワミが座っていらしたからです。けれども、私には父がどこを通ってきたかなど、わかりませんでした!(笑)

スワミは前に身を乗り出してきて、おっしゃいました。

「心配しないで。私が道を知っています」(笑)

そうして、スワミはとても甘くやさしく父に道を教えてくださいました。私たちはきっかり1分前に戻り、5時にカリアッパ大将の家の玄関の前に立ちました。

そうして私たちが玄関に入ると、カリアッパ大将はたいそう礼儀正しい人でしたから、「スワミ、お上がりください!」と言いました。すると、スワミは振り返り、小さな少女だった私を見て小声でささやきました。

「君は、お茶の席に着くお許しは得られないから、ベランダに座っていなさい」(笑)

なぜなら、私は招かざる客で、招待されていたのはスワミと父だけで、私は車での移動という日課の中に含まれていただけだったからです。

「君はベランダに座っていなさい。私が必ず君のところにビスケットを持っていかせるからね」

そうして、私は、小さな少女は、ベランダに座ってビスケットを食べていました。スワミは家の中に30分ほどお座りになってしました。それから、カリアッパ大将が外に出てきて、私たちは皆、車に乗り込みました。

私はこの会場に入ってくるときにこう思いました。

「スワミ、もうバジャンが始まっていて、私が三曲目のバジャンのときに入っていったら、スワミは何とおっしゃるでしょう!」と。

それほどスワミは時間に厳しいお方なのです! スワミはここにいらっしゃいます。もし、皆さんが8時半に始めますとスワミに言ったなら、私を信じてください、スワミは8時半ちょうどには、あの玉座にお座りになっています。今、10時10分前ですが、私は恐れ多くも再度時間をオーバーするようなことはしたくありません。私はこれからお話しする話の準備はしてきませんでしたが、それについてほんの少しお話ししてから、終えることにします。

話をするか引っ込む(リトリート)か

1996年に、私は思いがけなく、私の地区で開かれる米国のリトリートで話をするよう依頼されました。なぜなら、地区の副会長がワシントンDCのサウス・デフェスタにある私のセンター出身だったからです。彼は言いました。

「ギーターさん、お宅の夕食にうかがうと、いつもいろいろな話をしてくださいますが、あれをリトリートで話していただけませんか、そして、私たちの友人たちと分かち合うというのはいかがですか?」

私は言いました。

「だめです、スワミが許してくださるかどうかわかりませんし、スワミから話をする許可もいただいていませんから」

彼は言いました。

「そんな! どうしてそんなことをおっしゃるのですか? これはスワミの仕事です、なさるべきです!」

私は言いました。

「スワミの仕事にせよ、そうでないにせよ、私には、スワミが私のスワミとのやりとりについて話すことを望んでおられるかどうか、確かではありません!」

けれども、彼は言い続けました。

「だめですよ、あなたは話すべきです、話すべきです!」

私は神経がピリピリしてきました! 私はEHVトレーニング(人格形成教育の教師養成セミナー)の会合で話したことはありましたが、それは話すお題を与えられて、「これを話してくださいね」と言われていたので、とても容易でした。準備をして、サティヤ サイ スピークス(ババの年代別の講話集)から御言葉を読み上げればよかったのです。よくわかりませんが、きっと英国の皆さんはサティヤ サイ スピークスを熟読していらっしゃるに違いありません。けれども、私のセンターでは、ワシントンでは、サティヤ サイ スピークスだけは、この10年まったく手付かずの状態です。ページはとってもきれいなまま、本はとても良い状態です!(笑)

お題を与えられると、私はスピークスを調べますが、素晴らしいことに、ここ数年に出たものには索引が付いていて、非暴力について話をしたいと思ったら、スピークスの七巻の42ページを見れば非暴力について載っているというようなことが調べられるのです。そうしてスワミの御講話のその部分を読んで準備をすればよいのです。そういった話は容易です。私はそのような話は何度もしていました!

けれども、自分の個人的な体験に関しては、一度も話したことはありませんでした。なぜなら、個人的な流儀でスワミについて話をするとなると、自分の肩に大きな責任を背負わなければならなくなるからです。そういうわけで、私はやりませんと言ったのでした。すると彼は言いました。

「だめです、なさるべきです!」

私は言いました。

「では、わかりました。スワミはバンガロールにいらっしゃるので、スワミに聞いてもらえるか父に話してみます」

父は60年間スワミに仕えており、ずっと、父には一つのルールがありました。

「自分のことであれ、家族のことであれ、私はスワミに個人的なことを尋ねたことは一度もない!」

そう父は言っていました。それが、父のルールでした。私はどうやって父に話してよいものかわかりませんでした。「リトリートで私が話をしていいかどうか、スワミに聞いてもらえますか?」とでも言うべきかと、私はどうやって父にスワミに聞いてほしいとお願いしたらいいか、ずっと考えていました。なぜなら、父はいつもスワミと一緒にいるからです。ついに私は抜け穴を見つけ出しました。私たちは皆、抜け穴が好きですよね? 私は考えました。

「実際、これは個人的なことではなくて、サティヤ・サイ・オーガニゼーションのことだわ。オーガニゼーションが私にリトリートで話をしてくれないかと聞いているのよ。ああ! これだったらいいわ」(笑)

そこで私は木曜の午後に父に電話しました。私は、オーガニゼーションがしつこく言ってくるので、どうか私の代わりにスワミに聞いてみてください、と言うつもりでした。電話をかけると父はすぐに電話に出ました。一日スワミと過ごした後に、ちょうどブリンダーヴァンから自宅に戻ったところでした。父は言いました。

「電話をくれてとても嬉しいよ。おまえに言うことがある」

私は言いました。

「お父さんが私に言わなければならないことは忘れてちょうだい。私にはお父さんに言わなければならない大切な話があるの」

父は言いました。

「いや、いや、これはスワミがおっしゃったことだ」

私は言いました。

「え! スワミは何とおっしゃったの?」

すると父は言いました。

「今日の午後、スワミは私を車に乗せて連れ出して、"ギーターはどうしていますか?"とお尋ねになった。私は"元気にしております"と答えた。するとスワミはこうおっしゃった。"彼女に伝えなさい。誰かに頼まれたら、行って話をするようにと"」

父にはさっぱり意味がわかりませんでした。父が「何ですって、スワミ?」と尋ねると、スワミはこうおっしゃいました。

「スワミの仕事をするのは構わないと彼女に言いなさい。スワミの仕事をするのに何を戸惑うことがありますか。スワミの仕事に戸惑いなどあるべきではありません」

父はたいへん厳格な人でした。父は言いました。

「おまえはスワミの仕事をしていないのか?」

私は言いました。

「センターでは全部やってきました! そう、それが私が頼まれたことなの。リトリートで話をしてくれないかと頼まれているの。私がリトリートで話をしていいかどうか、お父さんからスワミに聞いてもらいたいの」

父は言いました。

「おまえは私に、おまえのことをスワミに聞けというのか? だめだ!」

私は父に言いました。

「どうか聞いてもらえませんか? これはオーガニゼーションのことなのだから」

そこで、私は父に私の抜け穴の策について話をしましたが、一向にわかってもらえませんでした。父は言いました。

「いいか、スワミはすでに、スワミの仕事に戸惑いはあるべきでないとおっしゃっている。ならば、行って、やりなさい。もし、そう頼まれているのなら!」

私は言いました。

「でも、お父さんはわかっていないわ! リトリートではヒスロップ博士やゴールドスティン博士のような本当に偉い人たちが話をしてきたのですと、スワミに言ってください。私には行って話をすることなんてできないわ! リトリートに行こうという人は1000人もいるのよ! 私たちの中部大西洋地域のリトリートには900人から1000人の人が参加するのよ! そんなリトリートで話なんかできないわ。物凄い数の人が来て、そういう偉い人たちが話しをしてきたの。そのリトリートは大規模なのですと、スワミに説明してもらえませんか?」

父は言いました。

「私は、"スワミ、リトリートは大規模なのです。スワミはおわかりになっていません"などと言いに行くようなことはしない」

私は言いました。

「じゃあ、お父さん、何かしてくれるの?」

父は言いました。

「何もするつもりはない。週末にまた電話してきなさい。もし、スワミが何かおっしゃりたければ、それまでにおっしゃってくださるだろう!」

私は二、三日待ち、その間、叔父のシンハが毎日私に、「決めたかい?」と電話してきて、私は「ノー! ノー! ノー!」と答えていました。ついに私が土曜の夜に電話をすると、父は私にこう言いました。

「スワミは、行って話しをするようにとおっしゃった」

私は尋ねました。

「え、スワミは何とおっしゃったの?」

父は答えました。

「スワミはまた私を車で連れ出して、お尋ねになった。"何? あなたの娘はまだ戸惑っているのですか? いったい何に戸惑っているのですか?"と」

私はいつも戸惑っています。スワミはそれをご存知なのです。父はスワミに言いました。

「娘は神経をピリピリさせています。というのも、そこには1000人もの人が来ることになっていて、これまでは偉い人たちが話をしてきたからです」

スワミはおっしゃいました。

「行って話をするよう、彼女に言いなさい」

そして、私はそうしました。96年に、初めて。その後、97年に私がインドに行くと、スワミはお尋ねになりました。

「リトリートで話をしましたか?」

私は答えました。

「はい、スワミ。私はリトリートで話をしました。もう終わりました。そうですよね? もう話はしなくてもよいのですよね?」

スワミは私を見ておっしゃいました。

「おや! 話をしたのはあなたでしたか?」

私は言いました。

「スワミ、私はもう話したくありません」

スワミはおっしゃいました。

「あなたは、話しているのは自分だと思っているのですか? 何を怖がっているのですか? あなたはただのテープレコーダーです。私がスイッチを入れたら、話し、私がスイッチを切ったら、黙る!」

これが、私が話を始めたいきさつです。そして、今、黙る時間になりました。

サイ ラム!

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Volume 4 - Issue 07 JULY 2006(英文)