サイババの御言葉

日付:1962年11月23日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
御降誕祭(37歳)午前の御講話より

目を開きなさい


ウッパルッリ ガナパティ シャーストリは、ほんのわずかな学者しか持っていない称号を持っています。ガナパティ シャーストリは、「アームナーヤールタ ヴァーチャスパティ」、すなわち、「ヴェーダの意味の解説の大家」と呼ばれています。私は彼に、好きなだけ長く話をしてよいと許可しました。実際、私は彼に長いスピーチをしなさいと促しました。なぜなら、スピーチの直後に、彼が「ヴェーダシャーストラ パータシャーラ」(ヴェーダ経典学校)を発足させることになっていたからです。どこでこの機関が設立されても、彼のハートはそれを愛しく思うでしょうが、ここ、プラシャーンティ ニラヤムに設立されたのですから、愛しさはさらに深いものとなりました。

実際、ガナパティ シャーストリは、その中に「ヴェーダの復興」という私の計画の重要な一歩を見ています。ところが、彼は、あまりの至福(アーナンダ)に圧倒されてしまい、何分もスピーチを進めることができませんでした。彼が言ったように、その短い言葉も、彼自らがヴェーダに負っている恩義を表すためのものでした。それは彼の恩義のみならず、全人類の恩義です。ヴェーダはインドを形作っていますが、インドはインド以外の世界を形作りました。そして、今も、形作っており、これからも形作っていくのです。

ヴェーダには始まりも終わりもありません。ヴェーダは、発達した意識が瞑想の静けさの中でとらえた永遠のメッセージです。過去においても、しばしばヴェーダへの忠誠が薄れたことはありましたが、ガナパティ シャーストリが嘆いていた現在の「衰退」も、一時的な局面にすぎません。

ドゥルヴァーサ(怒りっぽいことで有名な聖者)は名高いヴェーダ学者でした。ドゥルヴァーサは、サーマヴェーダの美しい調べを舌に乗せ、怒りの燃えかすを目の中に抱いていました。実に奇妙な組み合わせです。その滑稽なさまを見て、学問と解脱の女神であるサラスワティーが、嘲って笑いました。それは骨の髄までドゥルヴァーサに突き刺さりました。ドルヴァーサはサラスワティー女神に呪いの言葉を吐き、その結果、サラスワティー女神はアートレーヤ(アトリ仙を祖とするバラモンの家系)の娘として地上に生まれてきました。娘には弟が一人いましたが、頭が弱く、知能を欠いていたため、いくら優秀なグル(師)たちが努力を傾けても、ヴェーダをきちんと発音することもできませんでした。棒で打たれても、弟はただ、どうしようもなく泣くだけでした。サラスワティーはそれをたいへん不憫に思い、両者の間に入って弟を体罰から救いました。サラスワティーは弟に4つのヴェーダと6つのシャーストラを教え、弟はそれらの大家となりました。

ヴェーダは再び復興する必要がある

その一方で、ヴェーダは人間の記憶の中から消えてゆき、その結果、この国を飢饉が覆い始めました。聖仙たちは骸骨のように痩せ細りました。聖仙たちはヴェーダを切望しました。というのは、ヴェーダは聖仙たちの命をつなぐ支えだったからです。サラスワティーの弟、サーラスワタは、月の女神チャンドラに祈り、チャンドラは食べられる植物(シャークハー)を地上に芽吹かせました。聖仙たちはそれを頼りに生きることにしました。サーラスワタは聖仙たちにヴェーダの60の部門を教えましたが、ヴェーダに垂れ込めていた霧があまりにも濃かったために、サーラスワタからヴェーダを習った聖仙たちは、皮肉屋の批評家たちから反論を浴びました。ナーラダ仙は、聖仙たちが習ったのは正真正銘のヴェーダであることを批評家たちに保証しましたが、ナーラダでさえ、染みついた疑念を取り除くことはできませんでした。彼らは連れ立ってブラフマー神のもとを訪れました。ブラフマー神は言いました。

「そなたらが揃って私の姿を見ることができたのは、ヴェーダを学んだゆえのこと。自らが学んだことを実践すれば、そなたら自身がブラフマーとなることもできる」

このようにして、過去に一度、サーラスワタ大聖仙(マハリシ)がヴェーダを復興させたのです。

現在の悲しみと苦しみの原因

今、ヴェーダは再び復興を必要としています。振興を必要としています。その根に斧が届くのを、その芽を山羊が食べてしまうのを、誰かが防がなければなりません。思い上がって、アヴァター(神の化身)は特別に自分のために降臨してくれたのだ、などと思ってはなりません。私はダルマのために来たのです。では、アヴァターはどうやってダルマを守るのでしょうか?

ヴェードーキロー ダルマ モーラム
(ヴェーダはダルマの根なり)


ヴェーダが傷害を受けずにいるなら、言い換えれば、ヴェーダ学者が傷害を受けずにいるなら、ヴェーダは人のハートの中で、ずっと緑豊かに茂っているでしょう。これが本当の「ダルマ スターパナ」、すなわち「ダルマの復興」です。

皆さんは尋ねるかもしれません。

「主が化身したのに、なぜ世界は対立によって分裂し、悲しみに打ちひしがれているのですか?」と。

主クリシュナが地上にいたときも、戦争、悪、対立、悲しみは存在しました。外側の殻は取り除かれなければなりません。純粋なものは、常に、純粋さを失うことから救わねばなりません。現在の苦しみは、主に専門にヴェーダの道に従う者たちの間で規律が失われたこと、彼らがシャーストラの定めている道徳をなおざりにしていること、古代の聖典への信仰を欠いていることにあります。どれほど明るいランプがあろうとも、目の見えない人にそれを役立てることができますか?

皆さんは尋ねるかもしれません。

「なぜパンディト(学僧)とシャーストリ(ヴェーダ学者)たちは、今、困難な時期を経ているのか?」と。

彼らのほとんどは、空腹で、ボロを着ていて、家もありません。誰もヴェーダの学校に入ろうとしないのはそれが理由ですか? ヴェーダの学校は消滅しつつあります。しかし、私が皆さんに言いたいのは、パンディト(学僧)とシャーストリ(学者)たちはこれを通らなければならないということです。なぜなら、彼ら自身がヴェーダへの信仰を失っているからです。彼らは、諺に出てくる、2つの家に忠実で、どちらの家からも餌と安楽を拒む猫のようです。パンディト(学僧)たちは、片方の目を世俗の事柄、世俗の学問に向け、もう片方の目を霊性に向けています。パンディト(学僧)たちが信仰に目を向けるようにさせなさい。ヴェーダを信じるようにさせなさい。そうすれば、ヴェーダはパンディト(学僧)たちの幸せを保ち続けてくれるでしょう。なぜなら、もしヴェーダが人を幸せにできないなら、他の何が人を幸せにできますか? 頭が痛くなると薬屋へ薬を買いに行くホテルの支配人と、頭が痛くなるとホテルにコーヒーを飲みに行く薬屋のように、西洋人は心の安らぎを求めて東洋にやって来て、東洋人は心の安らぎに必要だと考えられているものを求めて西洋に夢中になっています!

ある帰依者の揺るぎない信仰心の話

シルディで以前の体にいたときに起こった、ある出来事の話をしましょう。パハルガーオン(カシミールの山にある町)出身の、文盲で純朴な女性の帰依者がいました。彼女は、ピカピカに磨いた3つの清潔な真鍮の水がめに、別の3つの井戸から汲んできた水を入れて台所に蓄え、それぞれガンガー(ガンジス)、ヤムナー、サラスワティー(三女神の化身とされるインドの三聖河)と名づけていました。彼女はいつもその名前で水がめを呼んでいました。喉の渇いた旅人が家の戸口に来ると、いつも彼女は3つの水がめの水を混ぜ、三聖河の水(トリヴェーニー ティールタ)として旅人に恵んでいました。近所の人たちは彼女の信心を笑っていましたが、3つの井戸は、プラヤーガ(ガンジス川上流の巡礼地)で合流する3つの聖河と地下でつながっている、という彼女の信念は揺るぎないものでした。

そんな彼女の夫がカーシー(ガンジス川の聖地)へ巡礼に行くことになり、義理の母は旅立ちを祝福する際、息子の指に自分の金の指輪をはめ、お守りとして大事に持っているようにと言いました。夫がマニカルニカー ガート(死者をガンジス川に浸した後に火葬する場所)で沐浴の儀式をしていたとき、指輪が指から抜け落ちて、見つからなくなってしまいました。巡礼から戻ってこの話をしていたとき、夫は母親をなぐさめようとして言いました。

「ガンガーはあの指輪が欲しかったんだ。だから取っていったんだよ」

それを聞くと、妻は言いました。

「いいえ、違います! 母なるガンガーが年老いた貧しい女性の財産を欲しがるわけがありません。ガンガーは愛で捧げたものだけをお受け取りになるのです。ガンガーは必ず私たちに指輪を返してくださいます。私がガンガーにお願いしてきます。ガンガーはうちの台所にいらっしゃいますから」

そう言うと、彼女は台所に行って手を合わせ、ガンガーと名づけた水がめの前で祈りました。そして、水がめの中に手を入れて底を探ると、思ったとおり指輪は返されていたのでした! 彼女は夫と姑といっしょにドワーラカマーイー(シルディ ババのモスク)に来たことがありました。要は信心なのです。付けた名前や姿形は問題ではありません。なぜなら、すべての名前は神のものであり、すべての姿形は神のものだからです。

4つの要素から成るサイの使命

信仰心は、下層にヴェーダという肥沃な土が横たわる、ダルマという土壌の上でのみ育ちます。だからこそ、このパータシャーラ(ヴェーダ学校)は、今日ここで始まったのです。私がこのことを公言したのは10月で、パータシャーラが始まったのは11月です。私の場合、決意と実現は同時に起こります。時間差はありません。皆さんは、今は20人の青年しかいないじゃないかと言うかもしれません。巨大な国が12人の閣僚で統治されているのですから、私が思い描いている仕事には、この数の学生で十分です。私の務めは、あなた方の目をヴェーダの栄光へと開かせることであり、ヴェーダが命じていることを実践すれば、約束されている果報がもたらされるということを、あなた方に確信させることです。私の務めは、あなた方に自分の過ちと、自分が招いている損失を自覚させることです。あなた方というのは、今ここにいる人だけでなく、インド中の人、さらには世界中の人のことです。

このパータシャーラは大学へと成長し、どこであれ他の種類の大学が今あるところには、その分校を置くことでしょう。それは万人に緑の茂る涼しい日陰を提供するでしょう。ヴェーダに傾けている私の愛(プレーマ)は、実に、人類に傾けている私の愛(プレーマ)と同等です。覚えておきなさい、私の使命は、ちょうど4つの要素から成っています。それは、「ヴェーダ ポーシャナ(ヴェーダの復興)」、「ヴィッドワト ポーシャナ(ヴェーダ学者の復興)」、「ダルマ ラクシャナ(ダルマの守護)」、「バクタ ラクシャナ(帰依者の守護)」です。私の恩寵と私の力をこれら4つの方向に沿って拡げながら、私はその中心に我が身を置いています。

この青年たちは、「サナータナ ダルマ」、すなわち「古代の英知」、「永遠の道」の、強い真っ直ぐな柱へと成長するでしょう。この青年たちは、今後、この国のリーダーと案内人になるでしょう。青年たちをこのパータシャーラに送った両親たちには、喜ぶべきあらゆる理由があります。なぜなら、この青年たちは宝石となって、あらゆる所にヴェーダの輝きをまき散らし、あらゆる所にシャーストラの学習を普及させることになるからです。

私はこの青年たちを、どんな母親よりも、自分の瞳のごとく、大切にします。彼らには、いつも私の祝福があるでしょう。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.2 C48
初出:サイ ラム ニュース153号(2013年11・12月号)p.8〜13

<<SSOJ Topページへ <<サイババの御言葉メニューへ