サイババの御言葉

日付:1962年11月25日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
御降誕祭 連続講話D

信仰の芽


ヴィーラバッドラ・シャーストリは、クリシュナの子供時代の悪戯の数々をとても活き活きと描写して、それらの意味を説きました。私の見たところ、皆さんは話を聞いて元気になりましたね。それは、皆さんがそれらの悪戯に感動し、悪戯を体験〔疑似体験〕したからです。ラーマは真実とダルマの化身です。それゆえ、ラーマには厳格さがあります。一方、クリシュナは愛〔プレーマ〕です。クリシュナの物語は、誰にでもすぐに自然と至福をもたらします。人間のハートの中にある愛は、神の愛の呼びかけに反応し、どっとわき上がってあふれ出ます。

クリシュナは、ヨーガの力(ヨーガシャクティ)を兄(バララーマ)として、幻力(マーヤーシャクティ)を姉(マーヤー)として、同伴して来ました。至高の力(マハーシャクティ)は、そのようにして生まれました。母デーヴァーキー(クリシュナの産みの母)は、不可分なる栄光に満ちたその輝ける神の姿を胸に抱くことはできませんでした。赤子はヤショーダー〔クリシュナの育ての母〕のもとへ移されなければなりませんでした。しかし、それはクリシュナ神自らの要請によるものでした。ヤショーダーは、かつて、「神の育ての母となる恩恵に恵まれますように」と祈っていたからです! 神に触れるとカルマの足かせからの解放という恵みが授けられる、と言われています。それゆえ、幼子クリシュナがヴァスデーヴァ〔デーヴァキーの夫〕の手で抱き上げられた時、デーヴァキーとヴァスデーヴァが繋がれていた鎖は切れ、牢屋の扉のかんぬきは外れ落ち、鍵は自然と開き、ヴァスデーヴァがヤムナー川に向かいはじめた時、川は彼の目の前で二つに割れて道を作ったのでした。

ゴーピーの愛は肉体意識を超越していた

皆さんは、神の物語には特別な事実があることに気づくでしょう。それは、他のすべての出来事と結び付いていない出来事はなく、意味のない事件は起こらないということです。たとえば、パラシュラーマが、その時代のクシャトリヤ〔武士王侯階級〕の支配者一人ひとりを計画的に戦闘を仕掛けて皆殺しにした時、なぜ、そして、いかにして、ダシャラタ王〔ラーマの父〕とジャナカ王〔シーターの父〕は生き延びたのでしょうか? パラシュラーマは二つの特例を作り、その下では支配者たちは自らを救済して生き延びることができた、というのが真相です。その秘儀を知っていたのは、生き延びた二人の王だけでした。パラシュラーマは、「花婿」と「ヤーガ(供物を捧げる供犠)に従事している者」は殺さないと心に決めていました。それゆえ、パラシュラーマが自分の国の国境を越える地点に到達するたびに、ジャナカ王は自らヤーガの仕度を整え、ダシャラタ王はこれから新しい妃を迎える花婿の婚礼衣装をまといました。もちろん、これは神の計画によるものです。なぜなら、ダシャラタ王はダーシャラティ〔ラーマ〕を得るために、ジャナカ王はジャーネキー〔シーター〕を見つけるために、生きながらえなければならなかったからです。

ゴーピー〔牧女〕たちの愛については、哲学的な憶測が随分と飛び交っていますが、私に言わせれば、あれはサハジャプレーマ、すなわち、肉体意識を超越した純正な愛であり、賞賛にも非難にも影響されないものです。それは、水の上に落ちた一滴の油のように、触ると指に付着して水から離れてしまうようなものではありません。ゴーピーたちの愛は蓮と似ています。蓮は深い水底からいくつもの水の層をくぐって茎を上に伸ばしますが、葉は水面に浮かび、蓮にとって不可欠な環境である水の影響をこうむることがありません。人間も、蓮のように、人間にとって不可避なものである感覚の世界の上に上昇するために、懸命に努力すべきです。感覚の世界は、あなたがつまらないことのために奮闘するよう誘惑してきます。しかし、あなたはゴーピーたちのように渇望を捨て去り、自分の目を生気あふれる貴重な歓喜の泉に定めるべきです。ゴーピーたちには、他には何の目的も、理想も、願いもありませんでした。ゴーピーたちにあったのは、揺るぎない神我への全託でした。それは完全で、疑う余地のないものでした。

サイは帰依者同士の憎しみを容赦しない

前世紀にマハーラーシュトラ州の小さな村に住んでいた、一人の女性信者の話をしましょう。彼女は日常生活のどんな些細なことでも、それを奉納するという気持ちで行っていました。彼女にとって、歩くことは巡礼であり、話すことはジャパでした。彼女は、夫が土間で食事中に〔葉っぱの〕皿を置いていた場所に牛糞の塊を塗り〔家畜の牛糞を丸めたものを汚れた土の上に転がして汚れを吸収させるインド古来の掃除法〕、その後でその牛糞を外に投げ捨てるときでさえ、「クリシュナールパム!」(クリシュナへの礼拝〔アルパナ〕)と言い、「どうかこれがクリシュナ神への捧げ物となりますように」と思っていました。そうした彼女の苦行があまりにも誠実だったので、放り投げた牛糞の塊はクリシュナに届き、毎日、村の寺院のクリシュナ像にぴったりと貼り付きました!

その寺の僧侶は、その奇妙な汚れを見て仰天し、恐怖におののきました。そして、毎日お昼時に同じ大きさの牛糞がクリシュナ神の像に貼り付く、という神聖冒涜を見るために生きなければならない自分を呪いました。僧侶は、道を歩くときには恥ずかしさのあまり下を向き、その不穏な現象の一切を誰にも明かさずにいました。ある日、僧侶は、一人の女性が、大声で「クリシュナールパム」と言うのを耳にしました。その女性は、そう言いながら、他の主婦たちがするのと同じように牛糞の塊を投げ捨てていました。僧侶は、もしやと思い、その時間と、その牛糞の分量や内容物などを書きとめました。その結果、その女性こそが、クリシュナ神の像を汚し、クリシュナ神の美を穢した犯人だと確信すると、僧侶はその女性を非常に激しく叩きました。そのせいで、牛糞を投げ捨てていた女性の腕は折れてしまいました。

邪悪な女を懲らしめてやったことに対して、神は惜しみない祝福を与えてくれるだろうと期待しながら、僧侶は意気揚々と寺に戻ってきました。ところが驚いたことに、クリシュナ神の右腕が折れて血が流れていたのです! あの聖なる人〔牛糞を投げ捨てていた女性〕の腕と同じように。哀れな僧侶は苦悶の涙を流して言いました。

「私は、あなたへの愛ゆえに、あの女を叩いたのです。あの女は、あなたの美を穢しました。ああ、主よ。」

すると、クリシュナ神は答えました。

「あなたは私が愛する者すべてを愛さなければいけません。よく覚えておきなさい。」

私は、ここでも、皆さんにそのように振る舞ってほしいのです。あるいは、少なくとも、自分自身を愛しなさい。つまり、あなたの善いところと、あなたの中で一番人のためになっていることを、愛しなさい。私は、帰依者同士の妬みや悪意や憎悪を容赦しません。また、あなた方が自分自身を嫌うこと、自分を卑しい者、劣った者と考えることを許しません。

他人の信仰をかき乱すことは大罪

ここに集まっている男性諸君に、一言、話があります。諸君は、自分の内にある清らかさと強さの栄光にかなった生活をしなければいけません。諸君は、遠く離れた場所から、多額の費用をかけてここに来ました。しかし、この聖なる地にふさわしい人間になるために、自分の悪習や偏見、悪い癖や好き嫌いをなくして身を清める努力をすることなく、それらをいっしょにここに持ってきました。諸君は、ここでも、自分が慣れ親しんでいる仲間を探して、手に入れています。それは、派閥争い、妬み、世俗という仲間です。卑しい欲を持ったまま私のところに来れば、失望することになります! 諸君が二度とここにやって来なくても、私は構いません。諸君が他の人たちの信仰や信愛をかき乱すなら、それは忘恩であり、大罪です。それは山と積まれた花の上に熱い灰を振りかけるようなものです。

もし子が母との関係を断ったら、子はどうやって成長できますか? 神にしがみついていなさい。そうすれば、諸君は成長できるでしょう。諸君のハートの中にある、そして、他の人たちのハートの中にある、信仰の芽を摘んではなりません。信仰こそが、神への想いに一心不乱をもたらし、それが即座の返答を勝ち得るのです。ここにいるラーマムールティは、妻のサリーに火が燃え移った時、一心不乱に心の底から「スワミ」と呼びました。妻本人はあまりの恐怖に私を呼ぶことができませんでした。その呼び声が私をアウキリパッリの現場に来させ、サリーが燃えて三分の一しか残っていなかったにもかかわらず、妻は助かりました。

帰依者の信心に付け込む「いかさま師」

信仰といえば、私は一つの警告を発さなければなりません。多くの人が、歓迎会を開くとか、寺院を建立するとか、儀式を行うといった目的のために、私の名前を使っていろいろな場所でお金を集めています。それは正式に認められたものではなく、私の意向と指示に反するものです。私が禁止しているそのような要求に負けたり、そうしたやり方を奨励したりしてはなりません。

また、それとは別に、皆さんの信仰心に付け込んでいる連中がいます。彼らは、私が「乗り移って」、霊媒師やら、かまど(!)やら、何やらを介して「話している」と宣伝しています。そんな連中や、その手先や仲介人は、すべて、いかさま師に対するときのように扱いなさい。もしそのように扱わないなら、あなたも、いかさまの片棒を担ぐことになります。

また、私に従っている人や私を崇拝している人のグループを集めて、私から「与えられた」という像や写真を見せたり、何か別の私の恩寵の印を宣伝したりして、お金を集める者たちがいます。彼らのなかには、「ババが、あなたからお金を集めるようにと、私をあなたに遣わしました」と明言する者さえいます。あるいは「ババが私にこれをくださいました」とか、「ババは、これこれこのようにして私を特別に祝福してくださいました」などと言った上で、あなたの助けを求めたり、あなたの賞賛や、あなたの財布を求める者がいます! 私は皆さんに、相手が誰であっても、この種の人たちは、すべて、叱責して、追い返すよう求めます。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.2 C51

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