サイババの御言葉

日付:1963年5月・場所:インド

サッティヤム、シヴァム、スンダラム


神の恩寵を得るにためは、御名と御姿をもった化身の力に祈らなければなりません。神がどのような姿で顕れるかを決めるのは、あなたの切なる想いです。あなたが呼び、神が応えるのです。もし、あなたが真剣でなく、無頓着で、

「神様が意志した時に、神様の好きな名前の付いた、神様が好きな姿をとって、神様に来てもらおう」

などと言おうものなら、神は決してやって来ないでしょう。苦しいほどに想って神を呼びなさい。そうすれば、神は応えるでしょう。

ラージャスターンに、ウダイプルの宮廷直属の寺に祀られたバーラクリシュナ〔幼子クリシュナ〕の像に礼拝をしていた僧侶がいました。その僧侶はデーヴェーシャという名前でした。この僧侶の物語はどこにも載っていませんが、彼は私と密接に結び付いていたので、私は彼のことをよく知っているのです。デーヴェーシャは、毎夜、きちんと儀式を行い、寺の戸を閉めてバーラクリシュナを寝かせていました。そして、寺を出るときには、自分で夕刻にバーラクリシュナの像の首に掛けたマッリカー(ジャスミン)の花輪を取り外して自分の首に掛け、家路へと就いたのでした。もちろん、藩王(マハーラーナー)が寺に来たときには、その花輪を献上して身につけてもらわなければなりませんでした。

ある日のこと、デーヴェーシャが自分の頭に花輪をくぐらせた後に、藩王がやって来ました。藩王が花輪を要求すると、デーヴェーシャは寺の中に入って、ずる賢くも自分の首から花輪を外してきて、それをうやうやしく藩王に手渡しました。藩王は、その贈り物を受け損なわずに済んでよかったと喜びました。ところが、花輪に一本の白髪が付いているのに気がついて、藩王は憤慨しました! まんまと謀(はか)られたと思った藩王は、腹を立てて怒鳴りました。

「何と! 我らのバーラクリシュナは、お年を召して白髪になったのか?」

「はい、そうです」と、デーヴェーシャは、その場を何とか無事に逃れようとして言いました。藩王は言いました。

「ふむ、今日はここまでだ。明朝に来て、バーラクリシュナの頭が本当に白髪になったかどうかを見るとしよう」

その晩、デーヴェーシャは食べ物も喉を通らず、一睡もできませんでした。デーヴェーシャは泣いて苦しみました。というのは、永遠に幼い神に、老齢と白髪を押し付けてしまったことを恐れたからです。朝が来ると、藩王は本堂を開けようと急いで寺にやって来ました。二人が中を見ると、何と、クリシュナ像の髪は白髪になっていました。藩王は、その白髪は偽物で、デーヴェーシャが植え付けたものだろうと疑いました。そこで藩王は、白髪をつかむと、ぐいと引っ張りました。白髪の根元には血が付いていました。神は、苦悩に満ちた叫びに、苦しみの呼び声に、応えたのです。

姿なき者は、どんな姿でもまとい、信心深い求道者の切望を満たすためには、どのようにも身を変ずるのです。最も優先される目的は、すべての人を行為の人(カルマジーヴィ)、神の人(ブラフマジーヴィ)にすることです。

人は神を見ることを渇望しなければなりません。そうあるときにのみ、人間という地位に就いている資格があるのです。マーナヴァ人間(マーナヴァ)は神(マーダヴァ)に到達しなければなりません。人間は心を征服しなければなりません。人間は心(マナス)の支配者であって、心(マナス)の奴隷ではありません。

あなたの人生が始まったときから、教育者としての役割を担ってくれたのは誰ですか? お母さんではありませんか? 自然界(プラクリティ)は母であり、女性原理であり、マーヤー(幻力)です。自然界(プラクリティ)は偉大な教師です。もしあなたがその教師の教えをよく学ばないなら、自然界(プラクリティ)はあなたを罰し、あなたの頬を叩き、あなたの頭を殴ります。自然界(プラクリティ)は、厳しく、無慈悲な女性教官です。しかし、もしあなたが教えをよく学ぶなら、自然界(プラクリティ)はあなたを自慢げにプルショーッタマ(神、最高の人間)の御前に連れて行きます。自然界(プラクリティ)に従い、よく教育してもらいなさい。そうすれば、あなたはプルショーッタマの栄光を相続することができます。もしあなたが自然という母の教えをないがしろにするなら、母はあなたにうんざりし、父もあなたの懇願をないがしろにするでしょう。あなたのためになされた自然界(プラクリティ)の命令は、ダルマと呼ばれています。ダルマをあなたの思考と言葉と行動すべての目撃者として据えなさい。あらゆる瞬間をダルマの指示どおりに動きなさい。そうすれば成功はあなたのものです。

小さな子どもには、黒板や石版に大きな字を書いて教えます。霊性の道を進む子どもたちにとっては、お寺や、神の像や、シャーリグラム〔黒い石の御神体〕が石版であり黒板です。けれども、おもちゃの象で遊んでいても、あなたは生きた動物の象と接する体験は得られませんね? 無形の至高神を理解することができるのは、あなたが自分を無形の状態にしたときのみです! あなたが属性(グナ)の世界にいるときには、属性を有した(サグナ)神にしか愛着を持つことはできないのです。

泥棒でさえ、自分が泥棒と呼ばれるのを嫌います。泥棒は、泥棒と呼ばれると、恥ずかしく思うか、怒るかします。なぜでしょう? それは、その泥棒の本性と本質が、そう呼ばれることを受け付けないからです。アートマは常にシヴァム(吉祥、神聖)です。それゆえ、アートマは、自分が乗っている乗り物が不吉だとか(アマンガラム)、死人(シャヴァム)呼ばわりされると、激しく抗議するのです。オームは、至高我(パラマートマ)のアハンカーラ(自我意識)です。それには醜さ(ヴィカーラ)はありません。それゆえ、それは常にスンダラム(美しいもの、魅力的なもの、愛らしいもの)です。だからこそ、それは、醜いだとか、不恰好だとか、実に嫌なもの等々と言われると、うなだれて恥じ入るのです。というのは、自らの本質に反するものを負わされたからです。サッティヤム(真理、真実)、シヴァム、スンダラムは、あなた自身です。迷妄と、無知と、誤った推論のせいで、あなたはそのことを自覚していません。それらを取り除き、本当の自分に融合しなさい。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.3 C14

<< SSOJ Topページへ << サイババの御言葉メニューへ