サイババの御言葉:演技者と演技

日付:1964年12月5日
場所:アーンドラ・プラデーシュ州カルヌール県のズィッラ・パリシャド・ホール
カルヌールにおける御講話より

演技者と演技


私が劇を主宰することはめったにありませんが、私が今夜ここに来たのは、皆さんがシュリー シャイラム〔カルヌール県にあるマッリカールジュナ寺院を中心とする巡礼地。マッリカールジュナはシヴァ神の別名で白いジャスミンの意〕の話と、神によってその寺院に引き寄せられた偉大な信者の話を上演することになっており、さらに、その戯曲の作者が長年の帰依者であるからです。

厳密には劇とは何でしょうか? 劇は夢の中の夢です。劇は、あなたが目覚めているときにあなたの目の前で展開するもう一つの夢です。劇は、人生と呼ばれる夢に、光、喜び、勇気、信仰、希望、意味を注ごうとします。生来、人は人生の意味を見出すためのあらゆる方法を探し求めなければなりません。なぜなら、それを知らなければ、人は道に迷い、生から生へとさまよい、次から次へと打撃を受け、それら一切の体験をして良かったなどということは、めったにないからです。

人への奉仕は神への奉仕

人はまず、自分は体や物、そして、五感で体験する世界を実在のものだと思うよう幻惑させられているということを知らなければなりません。それから、本当の基盤を知ろうとしなければなりません。人は何か別のものがその基盤であると取り違えています。これらの幻惑〔マーヤー〕は根強いものであり、人の目を覆い、人を間違った道に置きます。劇は、人が誤った価値観によって幻惑されているということ、虚しいものを追いかけて真実を放置しているということを、人に示すことを目的としていなければなりません。劇は、人に虚しい追求から退かせることができるほどに強い信仰心を植え付け、自分の大きな錯覚に気づくという栄光を獲得させるべきです。

人生の悲哀は、憎しみと不正〔ダルマに反すること〕によらずに終わらせることができます。憎しみと不正は生き物の種をさらに生み出すだけです。憎しみと不正は、主なる神が住まう清らかなハートから芽生える、もっと気高く高尚な思考と経験に座を譲らなければなりません。この劇はヘマレッディ・マッランマ〔12世紀のシュリーシャイラムに存在した偉大なシヴァ神の女性信者。シヴァ神の恩寵によって生を受け、幼いころから貧しい人に施しをする習慣があったが、それを嫌った嫁ぎ先の家族にいじめられ、殺されそうになったところをマッリカールジュナ神に助けられて出家し、悟りを得た〕に関するもので、真摯な信者のハートから生まれたそうした体験を扱ったものであり、私が先ほど述べたように、そのために私はこのカルヌール県のカラー・パリシャド〔光輝の会〕の二周年祭を主宰することを承諾したのです。

何であれ人が持っている才能は、他の人々への奉仕のために、いやそれどころか、あらゆる生物への奉仕ために、捧げられるべきです。成就はその中にあります。すべての人は親戚であり、誰もが同じ構造、同じ材質で作られた似た者同志であり、同じ神の神髄を備えています。人への奉仕はあなたの神性の開花を助けます。というのも、人への奉仕はあなたのハートを喜ばせ、生きてきた甲斐があったことを感じさせるものだからです。人への奉仕は神への奉仕です。なぜなら、神はどの人の中にも、どの生き物の中にも、どの石ころの中にも、どの木の株の中にもいるからです。あなたの才能を神の御足に捧げなさい。一つひとつの行為を、妬みやエゴという虫の付いていない、愛と犠牲の芳香に満ちた花になさい。もしあなたに劇の役を演じる才能があるなら、その才能を神の栄光を称えるため、人を向上させるために使いなさい。

人々が演劇や映画について語るとき、よくあがる質問があります。それは、

「劇や映画に群がる人々が、それらエンターテイメントのレベルを落としているか? それとも、それらを低下させている責任はアーティストにあるのか?」

というものです。私は、あなた方アーティストや作家の責任のほうがずっと重いと言わなければなりません。お金はもっと儲かるだろうけれども、劇場に群がる人たちの心に悪や邪の種を植えることになる手法や手口を使うまでに落ちぶれてはなりません。劇や映画を観に来た人は、より善い人間、より強い人間、より勇敢な人間になって劇場を出て行かなければなりません。より哀れな人間、より弱い人間、この世の誘惑に対してより抵抗できない人間になって劇場を出て行くようではいけません。舞台で演じる芝居を選ぶとき、あるいは、脚本を書くためにペンを取るとき、そのことを思い出しなさい。そうすれば、あなた方は正しい道の上にいるでしょう。

俳優たちに対しても、私は一言話しておかなければなりません。あなた方は気高い魂を持つ人々や聖者の衣装と小道具を身に着けます。神に扮することさえあります。高尚な目的や気高い理想を含んだ台詞を述べ、深く感動的な経験を表現します。あなた方はその一切をまるで現実であるかのように演じます。それがあなた方の芸の印であり、地道な稽古の印です。あなた方は人生をより善いものにするよう人々を感化し、人々はあなた方から内なる平安と信愛の道を学びます。なぜなら、あなた方は人々の目の前で、偉大な聖人たちの生涯を再現して見せるからです。

「自我を消す」という霊性修行を深めなさい

これらはすべて、とても善いことです。けれどもさらに、神を信じる道は最も良く最も安全で、おそらく最も滑らかな道でさえあるということを、舞台の外で、あなた自身の生活の中で示しなさいとあなた方に求めるのは、過度な要求ですか? 善き道案内人としての俳優という役を、あなた自身をもっと善くするために演じなさい。これは一つの霊性修行であり、あなたに平安をもたらします。

ラーマクリシュナ・パラマハンサは、実際にラーダーやハヌマーンといった神話の登場人物の役になりきって、その体験を通じてクリシュナやラーマを悟りました。

あなたが演じる神聖な登場人物になりきりなさい。そして、そこからインスピレーションと歓喜を引き出しなさい。なりきることで、あなたの演技もはるかに良くなります。そして、何千人という人たちから感謝を得るでしょう。ラーマクリシュナが自分をラーダーだと思い込んでクリシュナの御姿の顕現を切望したとき、ラーマクリシュナの肉体に女性としての特徴が表れました。自分をハヌマーンと見なして何ヶ月も木の上で過ごし、『ラーマーヤナ』だけを口にしていたときには、ラーマクリシュナの肉体も変化して尻尾の先が生えてきました。ラーマクリシュナの想念(バーヴァ)の強さ、そして、どれだけ自我を消し去っていたかの度合いは、それほどのものだったのです。劇を演じることと、それが与えてくれる「自我を消し去る」という霊性修行を深める機会を利用しなさい。というのも、それは真我を顕現させる最も速い方法だからです。

劇場を神聖で聖化されたものにしなさい

私はもう一つ大切なことを言っておかなければなりません。この劇の作者もここに来ていますが、今日という日を、彼があなた方のパリシャド(会)に奉仕してくれたこと、そして、劇の原因であるものに奉仕してくれたことに対して、彼に敬意を示す日にしなさい。劇を書くときはいつも、低次で世俗的なものをすべて、高次で世俗的でないものへと変容させなさい。低俗なものを低俗なものとして扱ってはなりません。低俗なものは、避けるべき過失、間違い、失敗、不完全な試み、誤りとして扱いなさい。あらゆる人間関係において、世俗的でない面を増やしなさい。人間は、食欲や空腹、喉の渇き、情欲や嫌悪感を催す、ただの肉体ではないのです。これらは障害物であり過失です。それらの代わりに、一体性と普遍性という大きな志、理想、夢を考えなさい。真理、慈悲、恩寵、思いやりの心、解脱を得るために努力しなさい。そして、あなた方が書く劇でそれらを描きなさい。それは劇場の雰囲気を変え、劇場を神聖で聖化されたものにするでしょう。そうすることで、あなた方は人がさらに強くなること、国がさらに長く存続することを助けることになるのです。今、人々はその進行を阻み、悪と虚栄という坂道をスルスルと滑り落ちています。人々の目を開き、坂の下で大きく口を開けている深い穴に気づかせなさい。

あなた方が行動と振る舞いの水準、道徳とマナーの水準、社会と個人の規律の水準を高め、人々に内なる神を発見したいという強い願望を浸透させることに成功するよう、私はあなた方を祝福します。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.4 C43

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