サイババの御言葉

日付:1965年3月2日・場所:プラシャーンティニラヤム
マハーシヴァラートリの御講話(下)より

木の根かロープか?


皆さんは今の講演で、シャーストラが述べている、人が自分の負債を神と聖仙と先祖たちに返す方法を聞きました。そして、人が神へと進歩できるよう、サナータナ ダルマ〔古来永遠の法〕が「茨のない道」を敷いている、ということを聞きました。茨のない道であれ、茨だらけの道であれ、誰もが十分な自信を持って、一人で道を歩まねばなりません。

アルジュナはクリシュナの義理の弟でした。二人は親友でもありました。戦場には、複雑な問答に費やして失うべき時間など明らかにありませんでした。さらには、クリシュナは当然ながら、一瞬にして自分の親族であるアルジュナの揺れ動く心を断固たる行動のとれる悟った道具へと変える力を持っていました。けれども、クリシュナはその力を使いませんでした! クリシュナは薬と養生法を処方しただけでした。アルジュナが救われるには、自分でその薬を飲み、自分でその養生法を守らなければなりませんでした。クリシュナは言いました。

「君は私の友だちだ。君は私の親族だ。さらに私は今、君の御者であり、君は今、これほど私の近くにいる。ところが、君は大きな苦悩を抱いている。幻(マーヤー)が君を圧倒している。確かにそれはすぐにでも取り払うべきではあるが、君の無知(アグニャーナ)は、私が起こす奇跡によってではなく、君自身の努力によって滅ぼさなければならないのだ。」

自分自身で非真と格闘することによって勝ち得る真理は、永遠の宝となります。自ら格闘することで、人は強くなり、その宝を保つことができるようになるのです。その財産の革命的な果報は、誰もが得られるようなものではありません。

定まらない心も手なずけることはできる

アルジュナは、心はつねに騒々しく落ち着きがないということを認め、自分は心を落ち着けることに失敗しているとクリシュナに言いました。心は自分が行きたい所に吹いていく風のようなものだと、アルジュナは言いました。これにまつわるカルナの話があるので、皆さんにお話ししましょう。

ある時、カルナは入浴の前に宝石の付いた器に入った油を頭に塗っていました。ちょうど右手に油を取って髪に塗りつけた時、クリシュナがその場に現れ、カルナは敬意を示すために立ち上がりました。クリシュナは、自分はカルナにその器を寄進してもらうためにやって来たのだと言いました!

「全世界の主であられるあなたがこのような取るに足らないものをお望みになるとは驚きです。しかし、私のような者があなたに異を唱えることなどできましょうか? 器はここにあります。あなたに寄進いたします」

とカルナは言いました。そしてカルナは、その器を左手でクリシュナの右手に載せました。クリシュナは、寄進するのに左手を使うのはダルマに反するといってカルナを叱責しました。するとカルナは言いました。

「お許しください、おお、主よ! 私の右手には油が付いており、もし器をお渡しするために右手を洗う時間を取ったなら、気まぐれな心は、その時は寄進することに同意していても、私が手を洗っている間、何かあなたのご要望に応じないほうがいい理由を探し出してくるかもしれないと、私は案じたのです。私を悩ませる移り気な心に、類稀なこの幸運を奪われてしまうかもしれない、と。それゆえ私は、無礼とは知りながら、即座に器をお渡ししたのです。どうかご理解くださり、御容赦ください。」

そうカルナは懇願しました。心は変わりやすいものであるということを、カルナは知っていたのです。しかし、クリシュナはアルジュナに、心は無執着と規律によって手なずけられる、と助言しました。

心は、五感の召し使いになるのではなく、知性の召し使いにならなければなりません。心は自ら識別し、体から離れなければなりません。タマリンドが熟すと、鞘にくっついていた果肉が鞘から自然と離れるように、心は心を覆う鞘である肉体から離れなければいけません。まだ緑色のタマリンドに石を投げつければ中の果肉を痛める原因になりますが、熟して茶色くなったタマリンドに石を投げつけるとどうなるか見てごらんなさい。乾いた鞘が木の下に落ちてきます。しかし、果肉や種は何の影響もこうむりません。成熟した霊性修行者(サーダカ)は、不運や幸運の打撃をこうむっても何も感じません。あらゆる打撃を受けるたびに傷つくのは、成熟していない人です。

解脱の秘訣

昔、ある王様が森に猟に出かけて雄鹿を追っていた時、荒れ果てた深い井戸に落ちてしまいました。王様のお供は誰もその窮状を知りませんでした。というのも、雄鹿は王様を森の奥深くへと連れて行ってしまったので、お供は王様の足跡を見つけることができずにいたのです。幸運なことに、井戸に落ちた時、王様は井戸の内側を這うように垂れていた木の根をぐっとつかんで、井戸の底で大きな口を開けて待ち構えていた死から逃れました。困難な状況のまま数時間が過ぎたころ、井戸の上から大きな声で主の御名を唱える声が聞こえてきました。それは聖者の声でした。哀れな王様は呼び声を上げ、聖者はその響きを聞いて井戸にロープを垂らし、無事に王様を引き上げることができるよう、しっかりとそれにつかまるようにと言いました。さて、王様は「木の根かロープか?」という問題に直面することとなりました。

もちろん、木の根は王様が生き残る助けとなりましたが、木の根に価値があったのはロープが下ろされるまでのことでした。ロープが救出の手を差し伸べた後も木の根にしがみついているのは、愚行です。木の根には感謝しなければなりませんが、感謝の念が異常に大きくなって、執着へと変わってしまうのはいけません。この世すなわち輪廻の世界(サムサーラ)にあるものは、この木の根のようなものです。ロープは解脱の秘訣です。そうした大格言(マハーヴァーキャ/神聖な真理の言葉)によって、瞬時に真理があらわになるのです。

解脱とは、まさに真理の目覚めであり、目から迷妄のうろこが落ちることです。解脱は、選ばれた人たちの特別な宅地でも、卓越した霊性修行者の独占品でもありません。海に流れ込んだゴーダーヴァリー川が自らの姿と名前と淡水の味を失うように、解脱は帰融によって自らの名と姿、特性と姿勢を消失します。あなたは、もはや個ではなくなります。個人ではなくなります。雨のしずくは自分が生じたところである海へと帰融します。もちろん、いかなる時にも境界はなく、牢獄はありません。あるのはただ、心の中の偏った執着のみです。人はそれに縛られているのです。人はそれに投獄されているのです。人はそれに制限され、限定されているのです!

食べ物に関する戒めを守るべし

真理を正しく映し出すことができるよう、心と知性を清めるために、まず注意しなくてはならないのは食べ物です。実際、霊性修行者にとって、これは極めて深刻なことなのです。

マイソール州のマルールに、信心深い立派な学僧であるブラフミンがいました。彼には同じように敬虔な妻がいました。彼はつねにプージャー〔供養礼拝〕やジャパ〔神の御名やマントラを繰り返し唱えること〕やディヤーナ〔瞑想や座禅〕にいそしみ、その徳高い人柄で広く遠方まで知られていました。ある日、ニッティヤーナンダという托鉢僧(サンニャースィン)が戸口にやって来て、手を伸ばしてきました。ブラフミンはそれをたいそう喜んで、その托鉢僧に十分なもてなしをして敬意を表することができるよう、翌日の夕食に招くことにしました。ブラフミンは戸口に青々とした葉綱を掛けて、入念に歓迎の準備をしました。ところが、午前11時になった時、妻が身体の不浄〔月経〕によって、賓客の食事も、誰の食事も、こしらえるには適さなくなってしまいました。そのため近所の女性が代わりに料理を作りましょうと申し出たので、その女性を連れてきて台所に入ってもらうことにしました。

万事順調に運び、一同は事の次第に満足していました。ただ托鉢僧だけは苦しんでいました。食事の最中、自分の皿の近くに置かれた銀のコップを盗みたいという衝動を強く感じたのです。それを振り払おうとしてどんなに頑張っても、悪い考えのほうが勝ってしまい、托鉢僧は衣のひだの間に銀のコップを隠し持ち、急ぎ帰りました。彼はその晩、眠れませんでした。良心がうずいて一睡もできませんでした。自分はグルの面汚しだ、マントラを唱えて衆生に呼びかける聖仙たちの面汚しだと思いました。彼の心は、ブラフミンの家に走っていって足元にひれ伏してコップを返すまで、休まることはありませんでした。後悔の涙が頬を伝いました。

それほどの聖人がかくも品位を落とすようなことをしたことを、誰もが不思議に思いました。誰かが、それはもしかしたら、托鉢僧が口にした食事に、それを作った人の過ちが伝わったのではないか、と言いました。そして、食事を作った隣人の過去を調べてみると、何と彼女は手に負えない盗人だったのです! その盗み癖が、触れることによってひそかに彼女の作った食事に入り込んでいたのです。こうしたことがあるために、霊性修行者は一定の霊的段階に達したら果実や塊茎(かいけい)を食べて生きていくように、と勧められているのです。

人間の欲は尽きない

霊性修行者は障害物を歓迎しなければなりません。なぜならば、障害はチャレンジであり、自分の気概を試す機会、肉体への執着を克服する機会だからです。シヴァム(シヴァ神)には何の恐れもありません。恐れるのはシャヴァム(死体)だけです。今日はシヴァラートリ、シヴァの夜、すなわち、恐れのない者の夜、吉兆なる者の夜、幸福なる者の夜です。あなた方はここに巡礼に来ることができて喜んでいます。しかし、一つ言っておきますが、心から湧いてくる欲の流れを制しない限り、今日は無駄な機会になるだけです。あなた方は自分の望みが叶うと私を崇めますが、望みが叶わないと私を罵ります。これは、いかにして欲が人を低下させるかということです。

一つ望みが叶うと、十の望みが頭をもたげてきます。欲がなくならないからです。私のところに同じ人が来て、試験の合格を求め、次は就職を求め、次は義理の父を求め〔結婚すること〕、次は子供を求め、次は昇給を求め、次はもっと物価が安い所に移ることを求め、次は息子が医大に合格することを求めます。終わりのない欲の連続です。これは、最終的に、この世の追求の終わりと霊的な解放〔解脱〕の道への手ほどきという私の恩寵を求めてやって来くるまで、ずっと続きます! チンタ(心配)は、そうした人々が浸るものです。「チンタ」には、テルグ語で「タマリンドの木」という意味もあります。人々は、タマリンドの木、つまり、「心配の木」から離れません。一方、私の木はサントーシャの木、すなわち「歓喜の木」です。

人は犬にも劣ります。なぜなら、人は恩を忘れ、自分の主人を否定するからです。耳で聞いたことは誤りだと目が暴いても、人は耳を信用します。人は二枚舌です。今日は褒めて持ち上げたかと思うと、次の日には、けなし、疑います。王様の役であれ、召し使いの役であれ、道化の役であれ、主人がどんな役に扮しても、犬は自分の主人がわかります。犬はあなたがお皿に残したものにさえ感謝します。夕食が済んだらそれを舐めることが許されているからです。ところが人間は、たとえアムリタ〔神聖甘露〕をもらっても感謝しません。

執着を手放して自由になりなさい

誰もあなたを解脱させることはできません。なぜなら、誰もあなたを輪廻の中に置いたわけではないからです。あなたは世俗の楽しみにしがみつき、苦しい苦しいと涙を流します。トビは、くちばしに魚をくわえている限り、カラスに追いかけられます。トビは魚を奪おうとするカラスから身を交わそうと、空中で体をひねって方向転換をします。そして最後には疲れ果て、魚を落としてしまいます。その瞬間にトビは自由になります。このように、五感への執着を手放しなさい。そうすれば、もう悲しみと心配があなたを悩ますことはできなくなります。トビは木に止まり、身づくろいをし、幸福感を味わいます。あなたも、くちばしにくわえている魚を落としてしまえば、とても幸せになれるのです。

隣の家に泥棒が入ったということを知れば、あなたは前より注意を払うようになり、毎晩寝る前に家の戸締まりを確認し、どこの鍵も全部きちんとかかっているかを調べます。それなのに、隣の家から死が一人の犠牲者を連れ去ったと知った時、なぜあなたは、今自分に死が訪れたらそれに向かい合う準備ができているかを確かめようとしないのですか? なぜあなたは、家を建てたり、預金を積み立てたり、ピクニックに行って浮かれ騒いだり、選挙について議論を交わしたり、といった楽しみに夢中になっているのですか? そんなことより、あなたを不死にしてくれることに従事すること、世の中に奉仕することによって、自分に最高の利をもたらしなさい。あなたの実体を見出すことこそ、賢い人がすべきことなのです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.5 C10

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