サイババの御言葉:無敵の勝利

日付:1960年・場所:アナンタプル市
アナンタプル女子ハイスクール創立記念日の御講話より

無敵の勝利


バーラタマータ(母国インド)の息子と娘たちは、自由を勝ち取り、この地を豊かな国に築きあげることに従事しています。けれども、豊かさの中にいても平安を感じていない国民もいます。彼らは自分で稼いだ大層な富のことを考えて、恐れと不安に取りつかれているのです。個人や社会の平安を保証してくれる唯一のものは、霊性の向上と霊性の修養です。哀しいことに、インドでも他国と同様にこの二つの目的が無視されています。衣食住の提供は肉体的な幸福(スカ)を与え、技能を得るための教育の提供、世界に関する情報の提供は生計を立てる手段を与えます。

しかし、古代の格言にはこうあります。

ナ スカート ラバテー スカム
永続する真の幸福は肉体的な幸福からは得られない

永続する幸福、幸運と不運に振り回されることも、減少することも、変化することもない幸福は、心(マインド)の鍛錬によって、そして、人間の行いと言葉と想念のすべてを導くより高次な力への信心によってのみ、やって来ます。人間がその道を歩み、足に傷を負うことなく進んでいけるように、霊的な気づきというランプを灯して、そのランプに油を足していかなければなりません。

ヴェーダとシャーストラは明言しています。人間がそうした幸福の段階に到ることができるのは、義務として行う行為、帰依として行う礼拝、そして、その義務と帰依によって疑いと妄想の埃をきれいに取り去った知性の中で得られる宇宙の唯一性の啓示によってである、と。

サルヴァム ヴィシュヌマヤム ジャガト
宇宙は神性で満たされている

イーシャーヴァースヤム イダム サルヴァム
神でないものは何もない

神は基盤であり、上部構造であり、材料であり、方法であり、内なる動議付けであり、外的な動きです。体は主なる神の寺院であり、その寺院の空気は、まさにその本質によって、万物への愛で満たされています。ところが、人間はエゴイズム〔アハンカーラ、自我意識〕に圧倒されて妬みと貪欲で体を汚し、そのために体を病気と苦痛でただれさせています。

人間の二つの大敵

欲望(カーマ)と怒り(クローダ)は、人間本来の神聖な性質の土台を崩し、窮地に引きずり込んでいく2つの大敵です。『ラーマーヤナ』の物語は、マンタラー〔カイケーイー妃の侍女〕の怒りとシュールパナカー〔女羅刹〕の欲望を取り巻く物語として作り上げられています。人間一人ひとりの『ラーマーヤナ』も、同様に、この2つの原始的な情念によって作り上げられています。この2つの悪い影響の最初の徴候があなたの心(マインド)を侵略するぞと脅してきたら、立ち止まって冷静にその衝動について調べてみなさい。その誘発の方法はいかなるものか? あなたと他人にとってそれはどういう類の結果となるか? と。静かに、一人になって、その答えを出しなさい。

スカム〔永続する幸福〕と平安を獲得するための基本的な修練はインドの最も貴重な財産ですが、今、学校の子供たちにも、大学の子供たちにも、その修練が施されていません。これは悲しむべき事実です。その代わりに、不安と恐れ、不満と苦痛が、映画、本、雑誌、ドラマ、絵画、新聞、さらには、煽動家や公人の演説を含む他のあらゆるコミュニケーションの手段を通じて、強められています。自分の生活、名声、富、権威は一寸先にはどうなるのかわからないという不安が、すべての人に付きまとっています。国土に不安が蔓延し、嫌悪と貪欲によって国が切り裂かれています。人々は自己信頼という安心感を失い、自分の力を信頼することも、他人を信用することもなくなっています。

人は小さな快楽のために自分の時間を少しずつ浪費している

人間は、今日、最も本来の価値が減じられている存在です。その一方で、人間以外ものはすべて、価値を上昇させています。人間は安っぽいものとなり、無罪放免になり得ています。人間は自分の偉大さと価値をわかっていません。人間は、どうすれば自分の最もささいな行為を主なる神の恩寵を認識する手段へと昇華できるかを知らずにいます。人間は、どんな失敗や失望も、真我への帰依全託、そして、バクティ〔信愛〕という防波堤を築き上げる黄金のチャンスへと変容させることができる錬金術を知らずにいます。人間は、くだらない活動や小さな快楽のために自分の貴重な時間を少しずつ浪費し、そのせいで、自尊心を減少させ、自らの肉体的、精神的な能力を損なっています。人間は、祖先の偉大な伝統と母国の偉大な人々に恥じない生き方をするよう努めなければいけません。

新聞にはこの務めに対する大きな役割があります。ところが、新聞は通俗的な嗜好に合ったものを提供することに満足しているだけで、すぐにゴミの紙になってしまいます。私は先月マハーラーシュトラ州にいましたが、ボンベイ〔ムンバイ〕では何万人という人々がダルシャン(謁見)〔神や聖人を見ること〕への渇きを癒しました。その地で私は何千人もの人々に向けてヴェーダとシャーストラの基本的な事柄に関する講話をしました。それから、プラシャーンティ ヴィドワン マハーサバー〔ヴェーダを復興するためのヴェーダ学者の会〕の会員(マハーラーシュトラ支部の会員)に、私たちの国の輝かしい文化を復興させる道を教えました。さらに、ダルマスターパナ(ダルマの確立)のプログラムについて、マハーラーシュトラとサウラーシュトラとデリーの大臣、裁判官、大実業家、医師、弁護士、編集者と議論しました。

私の真実は決して完全には理解され得ない

ところが、ここ〔アーンドラプラデーシュ州〕で、インドのこの地域で、あるいくつかの新聞が、私に関するでっち上げの記事を書き、嘘を広めています。彼らは、恥もなく、見下げ果てたでっち上げを刷って、最低次元の悪意と妬みを表現しています。もちろん、そのような誹謗中傷は、著名な人々が昔から経験していることであり、私が以前のユガの時代に経験したことでもあります。シシュパーラの後継者たち〔神を敵対する者たち〕がずっと怠惰ではいられないとはいえ、人間の邪悪さがどれ程低いレベルにまで堕ちてしまったか考えてごらんなさい。私は、称賛されようが、非難されようが気になりません。私は、貧しい人たちからわずかな新聞代を稼ごうとしてお金目当ての策略を用いている人たちを、ただ哀れに思うだけです。そのような人間以下の愚考に心を痛めている人たちのために、私は宣言します。たとえ14の世界が束になっても、私が成し遂げるためにここにやって来た仕事は、わずかたりとも影響を被ることはありません。たとえ天と地が手を組んだとしても、私の真実は決して完全には理解され得ません。

私は、あなた方が悪意と貪欲さから生じた巧妙な嘘の数々に耳を貸すことなく、サットサンガ〔善き仲間との交わりの会〕を作るよう助言します。そこでは、真実と高潔な話を聞くことや取り交わすこと、神の栄光についての神聖な本や講話を学ぶことができます。なぜ、他人の醜聞や他人の振る舞いを批評して貴重な時間を無駄にするのですか? 他人への妬み、悪意、嫌悪、怒りを募らせることは悪趣味であり、それはあなた自身にはね返ってきます。誰の中にも同一の神の火花が宿っているのです。ですから、隣人のあら探しをすることは、神のあら探しをすることと同じです。

人生というゲームは、制限や制御をするための限度と規則がある場合にだけ、行う価値があるものであり、また、楽しくなるものです。サッカー場でのルールも制限もないサッカーの試合を想像してごらんなさい。その試合はまったくの混乱状態になるでしょう。自由な戦いになって、暴動と化してしまうでしょう。誰が勝ったのか、どのようにして勝ったのか言える人もいません。ダルマ マールガ〔ダルマの道〕とブラフマ マールガ〔ブラフマンの道〕は、場の境界線です。徳のある人は邪悪な性向と戦います。「ファウル」と「アウト」という警告に注意しながらゲームをしなさい。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C13

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