サイババの御言葉:もつれからの脱出

日付:1966年3月23日・場所:ムンバイのサルダル パテル スタジアム
マハーラーシュトラ正月の御講話より

もつれからの脱出


今日は、神聖な考えと行いをして過ごさなければならない神聖な日です。この日を、ごちそうを食べたり映画に出かけたりといった、安易で人を弱くする感覚的な喜びや娯楽に費やしてはなりません。当然ながら、無知な人々は歓喜を求める生来の避けられない衝動に駆り立てられて、しばしば中身のないそうした浮かれ騒ぎを、歓喜を得る手段として用います。心の歓喜は、純粋で穢れなき歓喜を捜し求めます。その歓喜を手に入れることができるのは、より高く、より崇高な欲望、たとえば、解放されること、自分自身を最高の限界まで拡大すること、輪廻から逃れること、究極なるものと普遍なるものを悟ることへの熱望を満たすこと、を通してのみです。

こういった祝祭はどれも、そのゴールへと向かう人間の前進の一歩として、聖者によって構想されたものです。にもかかわらず、人々はその重要性を気にとめることなく、いくつものお正月をやり過ごしています。毎年毎年、歓喜を手に入れようと方向違いの努力をして一年を無駄に過ごし、その結果、惨めさと絶望だけが残るのです。

しばし考えてごらんなさい! 1秒は基本的な時間の単位です。私たちはそれによって自分たちが一年と呼んでいるものを測ります。60秒は1分を形成し、60分は1時間を作ります。24時間は1日を形成します。30日ほどで1ヶ月が作られます。12ヶ月が過ぎると、私たちは1年が過ぎたと言います! 12ヶ月が終わると、一連の月の最初の月に戻り、それをお正月と呼んで、その時を特徴づけるために浮かれ騒ぎます。

祝福と平安を手に入れる方法を学びなさい

本当のところを言えば、今日は何も新しいことは起こっていません。新しいものは年ではありません。現在の瞬間の次に来る瞬間こそが、本当に新しいものです。分、時、日、月が年になるまでの時間の単位によって何か新しいものを祝うことを待っていてはいけません。永続する喜びを得るための誠実な努力をすることで、即刻、次の瞬間を祝いなさい。歓喜すなわちアーナンダを得ようという努力には、卑劣な行為はいささかもありません。卑劣な行為は努力を価値のない無益なものにする方法でしかありません。実際、人が、心(マインド)、知性、記憶力、言葉、勇気、意識を持ってこの世にやって来るのは、自分を歓喜で満たすためです。そのチャンスと能力を持っているのは、すべての生き物の中で人間だけです。ところが、人間はその使命を忘れて、ささいな喜びを名誉であり有益であると思い、それを後ろに引きずりながら荒野をさまよっています。

歓喜と平安(シャーンティ)を手に入れようという決意は、風が強く吹きつける出窓に置かれたランプの炎のように揺れるべきではありません。人は歓喜と平安を得る方法を、聖者によって編纂された経典や、歓喜と平安を獲得した賢者から学ばなければなりません。そして、どんなに痛烈な批判があっても、誰が冷淡に軽蔑して非難しようとも、その道を貫かねばなりません。軽蔑的な嘲笑が霊性修行者に危害を加えることはできません。嵐はヒマラヤの山々を揺るがすことができますか? 困難や試練、労役や労苦、悩みや絶望を前にして、目的地あるいは道に対するあなたの信心をビクビクと震えさせてはなりません。それらは流れゆく雲にすぎず、一時的に影を落として太陽や月の光をほんの少しの時間隠しているだけです。疑いや落胆に心を乱されてはなりません。ダルマ(本分、美徳)、アルタ(富)、カーマ(欲望)、モークシャ(解脱)という、古代の聖者が定めたプルシャールタ(人生の四つの目標)のしっかりとした4本の柱の上に、あなたの人生という家を建てなさい。それぞれの柱は、互いに強く安全に連結しています。今、多くの個人や共同体や国がしてしまっているように、それらの柱が傾くこと、崩壊することを許してはなりません。

真の帰依者の資質

ラーマを憶念しなさい。神が人間のために実践した理想を憶念しなさい。

ヴィグラバヴァーン ダルマハ
(ラーマはダルマの権化なり)


ラーマは、人間が主人として、夫として、息子として、兄弟として、友人として、あるいは敵対者としても生きていけるようになるために育まなければならない美徳(ダルマ)の、最高の模範です。ラーマの3人の弟は他の3つの理想の権化でした。バラタは真実(サティヤ)の権化、シャトルグナは平安(シャーンティ)の権化、ラクシュマナは愛(プレーマ)の権化です。幸せに生活すること、今生を価値あるものにするための理想をラーマーヤナから吸収すること、という目標を持ってラーマーヤナを学びなさい。そうすれば、あなたは十分な報酬を受け取るでしょう。そのとき、あなたは自分を正当に主の帰依者と呼ぶことができます。

今、「バクティ」(信愛)の地位と、それに付属する利益を要求する人がたくさんいます。あなた方は、そのような人々が聖河や聖地へと続く道をバスや鉄道の客車で運ばれているのを目にしているでしょう。また、彼らがあらゆるバクティの道具一式を身につけて、霊的な歌を歌っているのを目にしているでしょう。けれども、自分は主の帰依者だ、至高神の信者だという主張は、その人の情熱や強い感情が純粋で、性格に徳のある場合にだけ認められるのです。

舌は主の御名を唱えるかもしれません。耳は主の栄光が唱えられると開かれるかもしれません。手は神の像の上に花を撒くかもしれません。しかし、舌は味を知らないかもしれず、味を楽しんでいないかもしれません。耳は切望していないかもしれず、手は渇望していないかもしれません。これらが起こるのは、ハートが至高神に気付き、心が神の栄光を回想して打ち震える時のみです。そうでなければ、人は酸っぱいものも甘いものも同じ敏活さと鈍感さですくうスプーンと同じです。そのスプーンは、どんな味を拒絶することも味わうこともありません。そのような人が読むヴェーダーンタは、それが霊的なものであっても、ほんの数ページのものにすぎません。それは実践される文言ではなく、その人の毎日の行いと性格の一部となるものではありません。

ダルマの最初のステップは感謝

人々が本で読む、神の化身、聖賢、賢者の人生は、もし、心の健康を改善するための強壮剤であり、人生という紆余曲折の旅の道しるべであるとして受け取らないなら、想像力をくすぐる物語にすぎません。賢い人は、それらの話の中に暗闇の灯火を見つけ出します。たとえば、ビーシュマは、父親への忠誠に関する限り、ラーマよりも影響力のある人物、人を感化させる人物として崇敬され、受け入れられねばなりません。年老いた父親の肉欲、普通だったら当然非難しているであろう望みを満たすために、ビーシュマは異議を唱えることもせず、自ら進んで、喜んで生涯独身を貫き、王位も辞退しました。ヴェーダの訓示である「父を神と崇めよ」(マートゥル デーヴォー バヴァ)は、ビーシュマによって十分すぎるほど尊重されました。

今の世代の人々は、この道徳律、すなわち、私心を捨てて個人と社会の満足をかなえるという、何世紀にもわたって追及されてきたことを放り投げています。息子たちは父親の財産の分け前は要求しますが、父の愛の分け前は要求しません。息子たちは父親の必要や命令には耳をふさぎます。両親は肉体と呼ばれる物理的な器具を授けてくれました。それをもって、私たちは、絶対者に到達すること、あらゆる生き物の内にいる神に奉仕すること、美と真実の中で美と真実を通して神の栄光を称えることが、できるのです。肉体という器具は、最も恐ろしいものである輪廻から私たちを解放してくれるものです。ですから、親は当然、子から感謝と名誉を与えられるべきなのです。宝石を安全に保管するには鉄の金庫が不可欠です。それと同じく、美徳、信仰心、愛、識別力という貴重な贈りものを安全に保管するには、肉体が不可欠です。肉体は両親が与えてくれたものなのですから、両親は言葉と行動と態度によって尊敬されてしかるべきです。もしあなたが地上の父親の要求に応えていないなら、どうやって天の父にあなたの祈りに応えてもらうことを期待できるでしょうか? ダルマの最初のステップは感謝です。子供の最初の義務は両親を崇敬することです。最初のステップがなければ解脱は不可能です。

コツコツと霊性修行に励むことで神を見つけることができる

前進を害するもう一つの不敬は嘲笑です。若い世代は、神と宗教に関するあらゆる言及を歓迎するよう教えらると、「その神とは誰ですか?」、「神はどこで見つけられるのですか?」、「神はそこで何をしているのですか?」と嘲笑して尋ねます。村の悪漢たちが遊行中の僧侶にそのような言いがかりをつけた時、僧侶は彼らに「牛乳を一鉢持ってきてほしい」と、思いもよらないようなことを頼みました。僧侶はその鉢に入った牛乳を長いことじっと見つめ、指でかき回し、鉢からこぼれさせました。そして、その間中ずっと黙ったままでした。村の悪漢たちが、「なぜそのようなことをするのか?」と僧侶に尋ねると、僧侶は、「私は牛乳の中にあるというバターを見つけようとしているのです。この鉢の牛乳の中にはバターは少しも見当たりません」と答えました。悪漢たちは僧侶のとんでもない無知を笑いました。悪漢たちは言いました。「バターは牛乳の一滴一滴に存在しているが、目で見ることはできず、指で取り出すこともできない。凝乳にし、攪拌し、集めて取り出さなければだめだ」。すると僧侶は言いました。「それと同じように、神は全宇宙に内在しているのです。神は一番遠い星の中にも、あなたの足の下に生えている草の葉の中にも存在します。この宇宙を識別力(ヴィヴェーカ)で凝固させ、それを無執着(ヴァイラーギャ)で攪拌し、揺るぎない信仰(シラッダー)で集めれば、あなたは神を見ることができます」。コツコツと霊性修行に励むことで、砂粒の中にも、最大級の銀河の中にも、神を見出すことができます。バターが牛乳の一滴一滴に存在しているように、神はすべてのものの中核なのです。

神の恩寵はランプの火のようなもので、神に近づく者、神の近くにいることを愛するすべての者に当たります。けれども、もしあなたと光を遮るものを置くなら影ができ、恩寵の光に照らされていないことを責める相手は自分自身ということになります。あなたのハートの扉を開きなさい。そうすれば、その扉を通って太陽の光が射し、ハートの中の悪徳を消毒して、ハートの隅々まで明るくすることができるようになります。あなたは、少なくとも、その小さな努力を始めなければなりません。太陽が自分で扉を開いて中に入ってくることはありません。ラジオ番組をきちんときれいに聞くためには、スイッチを入れて受信機の周波数を合わせなければなりません。その努力は避けられません。

日常生活のガイドとして聖典を採用しなさい

「信じ、努力し、成功する」――これが聖典のメッセージです。しかし、聖典を扱う人々は聖典を活用していません。経典の文言は、論争という目的のため、難解な学位を物知り顔で見せびらかすために、読まれています。あるいは、一部の人たちがしているように、過去の聖なる遺物として礼拝されています。聖典が、日常生活のガイドとして、人生という危険な航海中の救命帯として使われることは、めったにありません。ラーマーヤナ、マハーバーラタ、バーガヴァタは、マスター(習得)されても、マスター(主)となることを許されていないのです。あなた方は聖典をめくりますが、聖典に自分をめくらせることをしていません! 聖典は絹糸で綴じられ、その前にはお香が焚かれ、人は畏敬の念を持って聖典にひれ伏します。しかし、聖典のページが述べていることには何の注意も払いません。聖典が示している核心よりも、装飾やふさ飾りに心が引き付けられているのです。

私は、ある年老いた未亡人のことを思い出しました。彼女はパンティト〔学僧〕がギーターを講釈するのを聞いている間、何時間もずっと涙を流していました。パンディトは、一連の講話の最後に締めくくりの供養礼拝(プージャー)を終えると、祭壇の近くにいたその年老いた未亡人を呼んで、神への道の真摯な求道者として皆の前で賞賛しました。というのも、その老女は主の御言葉が語られるたびに涙を流していたので、そこにいた何百人という聴衆の中で、老女が一番集中し、一番熱心で、一番信仰深いということが見て取れたからです。老女はびっくり仰天しました。老女いわく、自分は一言も理解しておらず、ギーターが何であるかも、そこに何が述べられているかも知らない。自分が涙を流していたのは、パンディトが手に持っていた、椰子の葉に書かれたギーターの文言を束ねている黒い紐を見て、他界してしまった自分の夫が腰に巻いていた帯を思い出して泣いていた、ということでした!

集中には信仰心が必要

何千人という人々参加しているがギーターの講演会で、しんと静まり返った中に座っていたら、皆、深く集中し、わき目もふらずに注意を傾けているという印象を受けるかもしれません。しかし、主のメッセージによって本当に変容している人はほとんどいないということを、誰が知っているでしょう? 目は見ていても耳はさまよい、耳は聞いても心はあちこち動き回っています。信仰心は成長の遅い植物です。集中には信仰心が必要とされます。あなた方は皆、シュリ ラーマクリシュナ パラマハムサの話を知っているでしょう。ダクシネーシュワル(ドッキネーショル)の寺院で、ラーニ ラーシュマニが手を合わせながら半分目を閉じて祭壇の前に立っていた時、それは誰の目にも母なる神に祈っているように見えましたが、ラーマクリシュナがそれに対してどのようにラーニに平手打ちをしたかという話です。実は彼女は祈っていたのではなく、法廷での民事訴訟の計画を練っていたということを、ラーマクリシュナは知っていました。そのため、ラーマクリシュナは、平手打ちをすることで、その場の神聖さと、より高尚な目的のために祈る必要をラーニに思い出させたのです。ラーニはその奉仕の行為を承認し、お付の者たちがパラマハムサを注意しないようにさせました。「ラーマクリシュナは自分のためになることをしてくれたのです」とラーニは言いました。

経典は生きたメッセージを伝え、神の像は生きた教訓を伝えます。それらは木や石ではありません。だからこそ、シュリ ラーマクリシュナは、壊れた像を処分するよう指示した人たちに賛成しなかったのです。ラーマクリシュナは、「あなたの義理の息子のマトゥル バブが足を折ったら、マトゥルを見捨てますか?」とラーニ ラーシュマニに尋ねました。像は修理を施して礼拝に用いるべきだと、ラーマクリシュナは進言しました。あなたの口上に従って行動をしなさい。自分に対して、そして、自分の理想に対して、不誠実であってはなりません。自分の発言を自分の行動で否定することは、臆病と、道徳上の自殺行為を意味します。あなた方は、「ババはすべての場所を知っていて、どこでも見ている」と言いながら、ババはどこか別の場所にいると思って正しくないことをします。あなた方は、カーリー女神は生きていると信じてカーリー女神の像に祈りますが、誰にもわからないだろうと思って像の後ろに何かを隠します。

カルマの法則は人間に希望を与える

これから言うことは、経典が伝えている最も重要なメッセージです。自分の正当な義務を実行しなさい。自分の責務を果たしなさい。自分の権利に見合った生活をしなさい。しかし、執着が増すことを許してはなりません。家族、富、名声、知識、技能に関する限り、管財人のようでありなさい。死のお呼びが来た時には、喜んでそれらを手放しなさい。

死は、何者かによって、水牛の怪物に乗って突然あなたに投げ輪を掛けて襲ってくる非常に恐ろしい神として描かれています。しかし、それは違います。投げ縄は、あなた自身が作ったものです。死神は突然襲いかかるようなことはしません。死神は、事前にあなたを捕らえに来ることをほのめかします。それは、白髪になったり、歯が抜け落ちたり、視力が落ちたり、耳が聞こえなくなったり、皮膚にしわができたり等々の、暗示という形をとって知らされます。死神は獣になど乗ってはいません。死神は「時間」のもう一つの名前にすぎません。時間こそが、着実にあなたに向かって忍び寄り、命の紐を切る存在です。ですから、時間の支配から自分を解放するために、あなたが生まれながらに持っているカルマ(行為)の力を活用しなさい。カルマの法則はあなたに希望を与えます。カルマのとおりに結果は生じます。カルマの結果を追い求めることで、さらに自分を縛り上げてはなりません。神の御足にカルマを捧げなさい。カルマに神の栄光を讃えさせなさい。カルマに神の荘厳さを増進するようにさせなさい。けれども、その尽力の成否を心配せずにいなさい。そうすれば、死はあなたを縛る投げ縄を持てなくなります。死は、投獄する者ではなく、解放する者としてやって来るでしょう。

人生の早いうちに信愛の種を蒔きなさい

こうした古代の経典の立派な教えは、人間社会のすばらしい財産です。それらは家や学校で、成長期の子供の世代に受け継がれねばなりません。国民も、国民が選んだ指導者や統治者も、この仕事に着手しなければなりません。私は、ここに列席している大臣、講演者、立法府議会の議長の方々に、この義務を思い出してほしいと思います。信愛、無執着、義務の種は、早い時期に蒔かなければいけません。そうすれば、平安、充足、協力、愛という収穫が、少しずつ集められるようになるでしょう。それこそが、私がそのためにやって来た仕事です。もしこの仕事を彼らが共に行えば、必ず成功するでしょう。

私は今日でボンベイ〔ムンバイ〕に10日間いますが、ここの人たちはずっと大変規律正しかったということ、そして、霊性の食事に餓えているということがわかった、と言わなければなりません。私は必ず、もっと頻繁にここに来るようにします。今日はマハーラーシュトラの元日(グディ パドワ)で、そのため、ここにこれほど多くの人数が、とても大勢の人たちが、やって来ました。セヴァ サミティのボランティアたちは、今日も、これまでも、期間中ずっと、とてもよい働きをしました。私は特別に彼らを祝福します。明日から、あなた方はバジャンやダルシャン(謁見)のためにグワーリヤル城まではるばる歩いて来る必要はなくなります。私はあなた方に、この10日間で手に入れた歓喜を自分のハートに大切に保管して、そのハートの静寂の中であなたの愛と私の愛を再現し、その霊性修行の果報である平安の内に喜んで暮らすようアドバイスします。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C10

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