サイババの御言葉:翼の痕跡

日付:1967年1月22日
瞑想に関する御講話より

翼の痕跡


インドラ・デーヴィー〔リトアニア出身のヨーガの第一人者。インドに来て女優として活躍した後にヨーガ教師となった。1899年〜2002年〕が言ったことは、この国では、そして、私たちにとっては、何も新しいことではありません。実際、彼女はこの国でヨーガの基本を学び、西洋でヨーガを通じて多くの人を幸せに、平安にしています。彼女の「闇の中の光」というキャンペーンは、「タマソー マー ジョーティルガマヤ」――暗闇から光へと導きたまえ、というサナータナ ダルマ〔古来永遠の法〕の理想であるのみです。誰かが人々に集中する訓練を施すべきだというのは、実に驚くべき発想です。なぜなら、集中しなければ、人はどんな作業も果たせないのですから。車の運転、ろくろで壺を形作ること、織物を織ること、雑草を抜くこと――どの仕事にも一意専心の注意力が必要です。いたる所に窪みや土塁のある人生という道を歩くにも、多種多様な気性を持った同胞たちに話をするにも、集中は必要です。五感によって気をそらされたり、邪魔されたりしないよう、手綱を引いて五感を制御しなければいけません。頭脳がとりとめのない空想をしたり、感情が自分の追い求める目標に色をつけたり、色をとったりすることがあってはなりません。それが集中に成功する方法です。

ヨーガとは、「チッタ ヴリッティ ニローダハー」〔心の気まぐれを抑えること〕、すなわち、内なる意識の湖水の揺れを取り去ることです。意識の穏やかな表面、あるいは、深い静かなところに、何かによって感情や興奮の波を立てられないようにしなくてはいけません。落ち着いた状態はグニャーナ(霊的英知)の印です。霊性修行(サーダナ)は人のあらゆる気まぐれや動揺を癒す薬であり、探求(ヴィチャーラ)はその養生法です。

あなたは光であることに気づきなさい

インドラ・デーヴィーが皆さんに話した、ランプの光を瞑想するプロセスは、次のように理解しなければいけません。まず、自分は光の中にいると感じ、それから、光は自分の中にあるという悟りへと進み、その後、自分は光であり、それ以上でも、それ以下でもないということに気づくというプロセスです。しかし、最初に光が自分の中にあるのを思い浮かべて、その光で外の世界を照らすほうが容易であり、より良いのです。光は外の世界でさらに輝きを増し、自分の中に存在しているのと同じ神の栄光の中にすべてのものが浸されるのを思い浮かべます。自分は光だと感じるとき、あなたは何の重荷もなくなり、すべてが輝くでしょう。それゆえ、プラシャーンティの旗〔サルヴァダルマ マークの原型。蓮の花が先端に付いた塔の周囲に五大宗教のマークがあしらわれているシンボル マーク。蓮の花の中央からは英知の炎が生じている。〕には、グニャーナ〔英知〕、すなわち太陽光線が、初めて蓮に触れたときに花が開いてハートの蓮の花(フリダヤ カマラ)から生じるものとして、アートマ ジョーティ〔真我の光〕が描かれているのです。

闇に打ち勝つためには、光以外のものを用いることもできます。普遍なる存在の意識、すなわち、永遠なるもの、内在するもの、超越するもの、すべてにみなぎっているもの、広大なもの、ブラフマン――を呼び覚ますものはすべて有益です。クリシュナといったような、普遍なる存在の御姿を用いることもできます。クリシュナの青い肌の色は、広大で高い空や深い海を思わせます。その御姿を黙想して心〔マインド、マナス〕に思い浮かべ、ゆっくりと時間をかけて聖なる描画に完全に集中します。――孔雀の羽、じゃ香の点々、眉毛、目、鼻、真珠の鼻ピアス、口、唇、歯、横笛――ああ、あなたは自分のハートのキャンバスに何時間でもクリシュナを描いていられます。(初期の段階では注意が散漫になるでしょうが、やる気をなくしてはなりません。)これはあなたの思考と感情を昇華させるのに大変有益な作業です。この瞑想に費やした一分一分が、あなたを解脱へと、神の都、輪廻からの解放の都(モークシャープリ)へと、一歩ずつ近づけてくれるでしょう。

すべてを神の意志と取りなさい

あなた方は実の母を見捨てて、自分を育てた乳母に執着しています。あなた方の本当の母は、サイです。その母はエゴに触れられていない愛情の持ち主です。それゆえ、ラーマクリシュナはその母を求めて、その母の恩寵を求めて、泣きました。川が「流れる」という強い衝動によって海へと連れて行かれるように、誰の内にも自分の実体と融合するために前進するよう駆り立てる促しがあります。振り子は、ねじを巻いたときにだけ右左に揺れます。ねじを巻かなければ止まります。それと同じように、心は、あなたが心を促し、けしかけたときにだけ、正から邪、上機嫌から不機嫌へと揺れ動きます。心のねじを巻くのをやめなさい。そうすれば、心はその悪ふざけをやめるでしょう。

苦しみの涙を数えてはいけません。自分の悲しみを凝視してはいけません。それらが心を擦り抜けていくようにさせなさい。鳥が空を横切って飛び、背後には何の痕跡も残さないのと同じように、あるいは、映画館のスクリーンに映る炎や洪水が、スクリーンを燃やすことも水浸しにすることもないのと同じように。

失望しても、やる気をなくしてはなりません。おそらく、あなたの望み自体が悪かったか、その望みがかなったらあなたの状況を悪くすることになったのでしょう。いずれにせよ、それは神の意志であり、神は最善を知っています。失望と苦悩はバナナの皮のようなものであり、風味を守り、果実を甘みで満たすためにあります。ひどい苦境の中にいても、心をアートマの光輝と荘厳さに浸らせていなさい。そうすれば、それはあなたをいつも油断なく勇敢でいさせてくれるでしょう。五感と心の悪ふざけは、真我の英知(アートマグニャーナ)の鞭で止めることができます。

祈りは毎日捧げるべし

こうしてあなたの実体に集中することを、毎日、瞑想の中で行いなさい。時間、場所、長さ、方法、姿勢を変えることなく、毎日同じように、きっちり決めて守りなさい。そうれば、心を乱す要因を容易におとなしくさせて、手なずけることができます。ラーマクリシュナが語ったように、たくさんの場所を何十センチか掘って、水に当たらないと不満を言ってはなりません。一つの場所を、信念を持って、しっかりと掘りなさい。穴を掘るドリルは地下深くの水源まで掘り進みます。「ラーム、ラーム、ラーム」〔ラーマの呼び名〕と唱えながら、しっかりと掘り続けなさい。そうすれば、あなたも悟りという果報を得ることができます。「ラーム」は薬の名前です。ただ薬の名前を繰り返すだけでは薬効は得られません。薬を飲んで初めて、病気は驚いて、荷物をまとめて出て行きます。肉体に対する重量挙げのように、心に対してはジャパ〔唱名〕です。重量挙げは体を鍛えますが、ジャパは心を鍛えて体から悪いウイルスを追い出します。ハートは器であり、知性は攪拌棒、霊性修行は攪拌する作業であり、それによって得られる悟りはバターです。

自分にはジャパや瞑想に割くことのできる時間はないと言い訳をするのであれば、そう言わせているのはあなたの怠け心ですと、私は言います。どうして、それより下等な作業が、人間が生まれた目的である作業の正当な権利である時間を奪うことなどできますか?

毎朝、今、死から目覚めたかのように起き上がりなさい。そして、こう言いなさい。

「かくして私は生まれました。私に穏やかで優しい言葉を話させてください。私にすべての人に対して、冷静に、そして慰めとなるように振る舞わせてください。私にすべての人に幸せを降り注ぐ行いをさせてください。私の心にすべての人にとって有益な考えを生じさせてください。この日があなたへの奉仕によって価値あるものとなりますように」

一日のスケジュールを始める前に、ベッドに座って以上のように祈りなさい。そして、一日中その誓いを覚えていなさい。

夜は、上半身を起こしたまま、寝床で横になる前に、その日体験したことをすべて素早く吟味して、自分の言葉、あるいは行動によって誰かに痛みを与えなかったか、誰かを不快にさせなかったかを確かめなさい。それから、こう祈りなさい。

「私は今、死んで、あなたの膝の上に倒れます。私が犯したあらゆる過ちをお許しください。私を愛にあふれるあなたの避難所に置いてください」

そもそも、眠りは短い死であり、死は長い眠りです。

ブラフマ ムフールタ〔神の刻〕が始まる時間、すなわち午前3時に起きるよう自分を鍛えなさい。それをするには、最初は目覚まし時計が必要でしょうが、まもなく、瞑想をしたいという衝動があなたを眠りから目覚めさせてくれるでしょう。瞑想に座る前に入浴するのはやめなさい。なぜなら、沐浴は五感を起こし、あなたは瞑想の作業を成功させるのとは反対の様々な方向に引っ張られてしまうでしょう。規則正しさ、誠実さ、堅実さ――これらはあなたに成功の報いをもたらしてくれるでしょう。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.7 C4

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