サイババの御言葉

日付:1968年5月18日午前・場所:ボンベイ
サティヤ サイ オーガニゼーション第一回世界大会の御講話その3

現代版『マハーバーラタ』


ヒンドゥー教で提起されているサナータナ ダルマ〔古よりの永遠の法〕は、ヒマラヤ山のように、この上ないもの、最高位のもの、富裕、慰めとなるもの、平穏、保護してくれるものです。では、なぜ、人々は火や煙を噴出している火山を切に求めて、人の内にある悪い激情を火箸で掻き出さなければならないのでしょうか? それは、毒性のバクテリアが生息できない清らかなガンジス川の水と同じくらいに浄化するということです。では、なぜ人は、渇きを癒すどころか激しくさせることしかできない海の水を捜し求めるのでしょうか? 外国の文化はこの国〔インド〕の人々には適合しません。なぜなら、人々は何世紀もこの環境で育ってきたからです。どの地域の人にとっても、人生のどの段階にある人にとっても、最適なのはこの国の文化です。この国の文化は普遍的であり、いつの時代にも当てはまります。

気候、穀物、地形、歴史の地域的な違いのゆえに、ある美徳が他の美徳以上に強調されるかもしれません。ある規定が、他の規定の定め以上に指導されるかもしれません。しかし、すべての土地の賢人や聖者に共通する目的は、人を神へと導いて、獣のレベルへと滑り落ちるのを防ぐことです。人は平静を得なければなりません。真理と愛に堅く立脚しなければなりません。それは心に内なる神を映し出させるでしょう。人の向上のために敷かれた道が、棘だらけの雑草で覆いつくされて見えなくなったとき、神は人の姿をとって、再び道を示します。

心はひとすじの瞑想によって制御することができる

正義の復興を意味するダルマ スターパナには、二つの働きがあります。それは、悪の一掃と正義の確立です。現代においてその両方を獲得しうる手段は、ナーマスマラナ(神の御名を唱えること)です。ダルマには、今も将来も、人が望むものすべてを授ける能力があります。カーマデーヌ(聖なる雌牛)はすべての願いを叶えます。あなた方はナーマ(神の御名)という縄で、舌という柱にカーマデーヌを繋いでおくことができます。そうすれば、あなたが切望している良いことすべてを、カーマデーヌから得ることができます。カーマデーヌはあなたの心の中の牛小屋に安座するでしょう。最初、ナーマスマラナは仲間と始めるのが最善です。というのも、一人ですれば、散漫な思いによって情熱が損なわれてしまうでしょうから。一本の草はあまり強くありませんが、たくさんの草を捻り合わせて縄にすれば、群れを離れた凶暴な象も木にくくり付けることができます! 手に負えない心も、信心深い仲間と共にいることで強められる信仰によって、縛ることができます。

アルジュナはクリシュナに、心の手に負えなさを訴えました。アルジュナは言いました。心は、チャンチャラー(常に的を変えている)、プラマーディ(人を感覚の奴隷にさせるため危険な可能性に満ちている)、バラヴァット(制御できないほど強力)、ドルダム(滅するのが困難)である、と。しかし、心は、内なる神をひとすじに瞑想することによって制御可能であり、さらには、滅することさえできます。その段階に達すると、怒りや心配や妬みは、あなたを悩ませることをやめ、「私」と「私のもの」という足かせは外れ、シャーンティ(乱されない平安)が訪れるでしょう。あなたの努力は、あなたが心に描く報酬の大きさに見合ったものでなければならないのではありませんか? あなた方は、至福を求めていながら、小さな喜びにしがみつき、至福を勝ち得るために必要な掛け金を払うことを拒絶しているのです。

目的を達成するためにあらゆる労苦をする覚悟をしなさい

昔、あるスルタン〔イスラム教の国の君主〕が、『マハーバーラタ』はヒンドゥー教徒から第五のヴェーダとして敬われているという噂を聞きました。スルタンは、自分の王国にいたヒンドゥー教徒の詩人に、国を取り戻す英雄として自分を主人公にした『マハーバーラタ』を書くようにと命じました。そして、定められた期限に完成しなかったら恐ろしい罰を科すと言い、詩人を脅しました。詩人は無理だとわかっていても同意しなければなりませんでした。詩人は、スルタンをパーンダヴァ兄弟の長男とし、高官たちを四人の兄弟として描くと話しました。そして、自分が書いている『マハーバーラタ』では、スルタンの敵たちをカウラヴァ兄弟とすると言いました。これを聞くとスルタンはとても喜び、叙事詩が書き上がったらすぐに読もうと思って、今か今かと落ち着きなくしていました。しかしながら、詩人はかなり遅れていました。

ある日、詩人はその理由を尋ねられ、スルタンにこう話しました。

「国王陛下! 私はあるちょっとした事柄について、陛下の確認をお待ちしているのです。その件はだいぶ私を悩ませております。私の叙事詩の中で、女王様はパーンダヴァ兄弟の長兄の王妃様に相当します。陛下は五人の英雄たちの長男でありますから、それはそうあるべきです。しかし、原作の『マハーバーラタ』では、王妃は兄弟共通の妃でございます。私の叙事詩においては、陛下の高官たちが弟です。この新版では、高官たちが弟の役割を担っているのです。さて、そこで、女王様を高官たちの妃として描き進めましょうか、それとも・・・」

スルタンは続きを聞くまでもなく、計画のすべてをあきらめて、詩人を解放しました。

目的を達成しようと切望するならば、あらゆる苦悩とあらゆる障害を覚悟しなければなりません。それができないなら、望みを抱くべきではありません。五人の兄弟は、人の体内にある五つのプラーナ(生気)であり、五つで一つの存在物を構成しています。火から生まれたドラウパディ〔五兄弟の妻〕は、体を動かすエネルギーです。もし、このことを無視し、叙事詩を単なる王と女王と支配者たちの戦争物語と見なすなら、意味は失われます。

すべての人が等しい権利や義務を持っているわけではない

サティヤ サイ オーガニゼーションのメンバーは、誰もが、エゴイズムと貪欲、すなわち、ママーカーラとアビマーナ(私や私のものという感覚)を克服するための修行をしているサーダカ(霊性修行者)であらねばなりません。会長、副会長、事務局長は、他のメンバーより熱心にその努力を払い、他のメンバーの手本とならなければなりません。これらの役職を、権威ある地位と見なしたり、帰依心に対する「褒美」と見なすべきではありません。そうした役職は、謙虚さをもって引き受けて、メンバーや社会への愛をもって遂行しなければなりません。

すべての人を愛しなさい。すべての人を敬いなさい。すべての人に奉仕しなさい。しかし、すべての人が等しい権利や、義務や、任務を持っていると信じてはなりません。牛はどれも同等なのでダース単位で買おう、などと言うことはできません。よく喉が渇く牛もいれば、たくさん餌を食べる牛もいますし、ほとんど乳が出ない牛もいれば、若い牛もいれば、老いぼれの牛もいます。ですから、選別して決めなければなりません。すべての車が同等ではありません。同じように、すべての人が同等ではないのです。

各人のダルマ(行動規定)は、異なっていなければなりません。なぜなら、ダルマは、年齢、職業、地位、権威、学識といった変化する要因や、男か女か、教師か生徒か、主人か使用人か、子どもか若者か、父か息子か、扶養されているか独立しているかを考慮して、決められるからです。しかし、ダルマの根本的な本質は、サティヤ、プレーマ、サハナ、アヒムサー、つまり、真理、愛、堅忍不抜、非暴力です。さまざまな規則は、書かれていることや書かれていないことも、こうした根本的な本質の詳述にすぎません。

まず、サンスクリット語の学習から始めなければならない

近ごろ、ヴァルナ アーシュラマ ダルマ(過去に定められた四つのカーストと人生の四つの段階に関する行動規定)に対して、多くの批判がなされています。しかし、建設的な働きかけは何もありません。なぜなら、ヴァルナ アーシュラマ ダルマを不当に変更しようと試みた人々は、それが提起されているシャーストラ(聖典)の知識が無いか、日常生活においてそれらの規律を実践していないからです。サンスクリット語はシャーストラの言語であり、サナータナ ダルマ〔古よりの永遠の法〕の神聖な字句です。したがって、サティヤ サイ オーガニゼーションは、大人や子どもによるサンスクリット語の学習の場を提供しなければなりません。これは皆さんが最初に着手しなければならない事の一つです。

悲劇的なことに、サンスクリット語の知識の宝庫であるパンディット〔学僧〕たち本人は、自分の学識をもっと知ってもらおうと声高に叫びはしても、自分の子どもにサンスクリット語を教えていません。サンスクリット語の学習は、この自滅的な軽視の結果により、急速に消えつつあります。実は、環境汚染は偽善と不誠実のせいです。堂々と立ち、自分の信念を公言し、それに従って行動する人が誰もいません。パンディットたちは古代の聖典を賞賛しますが、それらが維持され学習されることを確実にするための第一歩さえ踏み出していません。

演壇で公然と英語を非難する指導者たちは、授業で英語しか使われていない学校に自分たちの子どもを通わせています! サイ オーガニゼーションのメンバーは、誰一人このような偽善を行ってはなりません。メンバーは自分が公言することを誠実に実践しなければなりません。それがダルマです。

人は四つのタイプに分けられます。最も上級のタイプは、本人がきわめて善良であるがゆえ、他人の欠点はまったく言う気にならない人です。このタイプの人は、それゆえに、すべての人を正しく徳がある人と見なします。中間のタイプは、善は善と見、悪は悪と見る人です。それより低級なタイプは、悪だけを認め、善は無視する人です。最後に、最低最悪のタイプは、悪を善と評価し、それを認めることを強要する人です。

最も高いタイプの人間へと向上するよう努力しなさい

皆さんは3番目と4番目のタイプにはならないようにし、1番目と2番目のタイプへと向上するよう努力しなければなりません。皆さんの活動のためにこの会議で規定された規則と修養法はすべて、今の霊性修行においてあなた方の助けとなります。それらはあなた方の利益のためのものであって、私の権威を高めるためのものではありません。私に関する限り、あなた方を私に繋ぐ一つの規則があるのみです。それは愛という規則です。その愛はあなた方を感化し、あなた方に指示を与え、あなた方に安静と慰安を与えるでしょう。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8 C20

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