サイババの御言葉

日付:1968年7月4日・場所:東アフリカのケニヤの首都ナイロビ
ババのアフリカでの御講話@より

私が携えてきたメッセージ




あなたの実体はアートマであり、パラマートマ(至高我)の一つの波です。人間として存在する一つの目的は、その実体、そのアートマ、波と海との関係を見ることです。他の行為はすべて取るに足りないことです。それらは鳥や獣も行っていることです。一方、自らの実体を見ることは人間にしかない特権です。人はこの崇高な運命を引き継ぐために、進化の階梯におけるすべての段階、すべての動物性のレベルを、よじ登ってきました。もし生まれてから死ぬまでのすべての年月が、動物と同じように食べ物や住処、快楽や快適を求めて無駄に費やされるのであれば、人はさらなる刑期を自ら宣告していることになります。

人は2つの特別な贈り物を賦与されています。それはヴィヴェーカ(論理的に考える能力)とヴィグニャーナ(分析しまとめる能力)です。これらの贈り物を、あなたの真実を発見するために使いなさい。あなたの真実は、すべての人、すべてのものの真実でもあります。すべての国がこの地球で生まれ、地球に支えられています。すべてが同じ太陽に暖められています。すべての「体」が同じ神性原理に息を吹き込まれています。すべてが同じ内なる促し手に促されています。

ヴェーダは、人が自分自身に勝利するため、すべての創造物の根底に横たわる単一性を発見するため、そして、すべてを一つにする真理との接触に打ち震えるための、原初の経典です。ヴェーダは次のように明言しています。

サルヴァブーターンタラートマ
(神はすべての生き物の内なる実存である)

イーシャーヴァースヤム イダム サルヴァム
(このすべてが神で覆われている)

ヴァースデーヴァハ サルヴァミダム
(このすべては神である)

人は解脱への欲望だけを持つべし

すべての人の内にある神性原理は、私の前にあるこれらの電球を、さまざまな色、さまざまな明るさで灯す、電流のようなものです。教義、肌の色、種族、地域に関わらず、同一の神が一人ひとりの内におり、一人ひとりを通じて輝いています。電流は、すべての電球に活力を与え、活性化させます。神は、すべての人に活力を与え、活性化させます。違いを見る人は惑わされます。そして、偏見、利己心、憎しみ、敵意で覆われてしまいます。愛はすべての人を一つの神の家族と見ます。

このアートマの原理は、人の内ではどのように自らを表すのでしょうか? プレーマ(愛)としてです! 愛は根本的な性質であり、人々を支え、前進しようという人の決意を強めます。愛なしでは人は盲目です。その人にとって、世界は真っ暗な恐ろしいジャングルとなるでしょう。愛は荒野で人の歩行を導く光です。ヴェーダは人の前途に4つの目標を定めています。それは2組あります。1組はダルマとアルタ(正義と富)、つまり道徳的な手段によって生活に必要な富を得ることです。もう1組はカーマとモークシャ(欲望と解脱)、これは苦楽という対を成す経験からの解放に到ること、その解脱だけを欲し、その至高の宝よりも劣るものは何も欲しないことです。

これらの目標の一切は、愛を実践することによって達成することができます。その愛はサティヤ(真実/真理)、ダルマ(正義/本分)、シャーンティ(平安)によって律せられている愛です。人はダルマの道を踏み外すことなく富を得なければならない、とヴェーダは説いていますが、人々はハートにダルマを取り入れることなく、手段を選ばず富を集めています! 人はただモークシャ(解脱)への欲望という一つのカーマ(欲望)だけを持つべし、とヴェーダは説いていますが、これも尊重されていません。人々は自らを欲望の渦に引き込んでいます。一つの欲が満たされても、それより激しい渇きは癒されません。どうして囚人が釈放以外の欲望など持てるのでしょうか? 世界中に心配、恐怖、不安が広がっているのは、人々がそのように道を誤っている結果です。

もっと高潔な目標を追い求め、もっと壮大な理想を持ちなさい

あらゆる技能を備え、大冒険に耐え得るようにできている人間の体は、あなた方への神からの贈り物です。その体を、生と死、囚われと釈放の間にある、このサムサーラ(変化)という決して静まることのない海を渡る船として使わなければなりません。肉体と精神の機能が鋭敏な時でも、この主要な義務を自覚していなければいけません。たとえ識別力が鋭くても、自覚しなさい。それはたちまち使い物にならなくなるかもしれないのですから、船の出航を延期してはなりません。それは病気になることもあるでしょうから、健康を維持するためのあらゆる注意を怠ってはなりません。解脱の岸辺に辿り着いた時にあなたの内に溢れてくる、無類の歓喜のことを思いなさい!

サムサーラ(世俗の生活)の荒波を安全に渡りなさい。照覧者となり、行為の果実を望まず、行為の結果をすべて神の意志に任せなさい。神が行為者です。あなたは道具にすぎません。もっと高潔な目標を追い求め、もっと壮大な理想を持ちなさい。五感の喜びは、ちっぽけな、つまらないものです。賢人たちは、失敗と成功、損失と利益に影響されずにいるための、修養法を発見しました。それらを学び、実践しなさい。波立つことのない平安の状態に落ち着きなさい。

親と教師は、これらの方針に沿って真剣に家と学校で若者たちの心を訓練しなければいけません。当然、この仕事のためには、親と教師は瞑想とナーマスマラナ(神の御名を繰り返し唱えること)を堅実に実践することを身につけなければなりません。各家庭で、毎朝毎晩、一定の時間を、霊的な書物を読むこと、ナーマスマラナをすることにあてなければいけません。

プレーマを分かち合うことが最高の交わり

親子で神の栄光を歌うことに参加しなければいけません。実に、自分の時間のすべてを神に捧げなければなりません。その第一段階として、神の栄光を礼拝することや、その栄光の深みを推量することに、何分かをあてることができるでしょう。徐々にその習慣の甘さがあなたを元気にしていくと、あなたはますますそれに時間をあてるようになり、ますます満足を得るようになるでしょう。「生きていくこと」の目的は、「神の中で生きていくこと」を達成することです。どの人も、その奉献とその成就を果たす資格を持っています。あなた方は真理です。信仰を失ってはなりません。自分たちを過小評価してはなりません。あなた方は神なのです。それなのに、あなた方はしばしば人間から動物に、あるいは動物以下にさえ滑り落ちています。

愛を育み、その愛をすべての人に分け与えなさい。どの人もあなたと同じなのに、どうしてあなたは、誰かには少なく、誰かには多く与えることができるのでしょう? 神性という基礎を忘れると、憎しみが芽を出し、妬みが鎌首をもたげます。すべての人の中に存在するアートマを見なさい。そうすると、愛が芽を出し、平安が露のように伝ってきます。あなた方はプレーマ スワルーパ(愛の化身)です。あなた方は、この屋外で、不快感に耐えながら数時間も座り、私を見ること、私の声を聞くことを切望して、私を待っていました。私は今まさに、その熱意を満足させるために、この演壇からあなた方に話をしています。私は、あなたのプレーマを感じ取ると、それを分かち合わなければと思い、あなたが私のプレーマを分け与えることを許します。これこそが、最高のコミュニケーションであり、交わりです。その時、言葉を介する必要はありません。

私は、あなた方のハートに愛の光を灯し、その光の輝きが日ごとに増していくのを見届けるために来ました。私は、ヒンドゥー教のダルマといったような、特定のダルマを話すために来たのではありません。私はいかなる宗派、信条、主義を広める目的のために来たのでもなければ、いかなる教義の信奉者を集めに来たのでもありません。私は、信奉者や帰依者を自分の信者として引きつけようとはまったく思いません。私は、普遍的な唯一の信仰、アートマの原理、愛の道、愛のダルマ、愛の義務、愛の責務を、あなた方に教えるためにやって来たのです。

どの宗教もただ一つの神の栄光を称えている

どの宗教も、心からエゴという汚れ、ちっぽけな喜びを追い求めることを取り除くという、一つの根本的な修養を教えています。どの宗教も、人に自らの存在を神の栄光で満たすよう、つまらない自惚れを払いのけるよう、教えています。高みを目指して解脱を得ることができるよう、どの宗教も、無執着と識別力という方法で人を訓練します。どの人のハートもただ一つの神によって突き動かされているということを信じなさい。どの教義もただ一つの神の栄光を称えているということを信じなさい。どの言語のどの御名も、人が想い描くことのできるどの御姿も、ただ一つの神を指し示しているということを信じなさい。そして、ただ一つの神を礼拝する最高の方法は愛であるということを信じなさい。このエーカ バーヴァ(一つであるという姿勢)を、すべての宗派の人々、すべての国の人々、すべての大陸の人々の間に育みなさい。これが、私が携えてきた愛のメッセージです。これが、あなた方がハートに取り入れることを私が望むメッセージです。

愛を育み、愛の中に生き、愛を広げること――これが最大の利益をもたらす霊性修行です。神の御名を、神の壮麗さ、神の慈悲、神の栄光、神の光輝、神の存在を憶念しながら唱えている時、あなたの中で愛が成長し、その根はどんどん深く伸び、その枝は友にも敵にも、同国人にも外国人にも木陰を与えるほど、どんどん広がっていきます。神は無数の名前を持っています。聖人賢者は無数の姿をとった神を見ました。彼らは目を閉じても目を開いても神を見ました。彼らは、あらゆる言語、あらゆる方言で神を説明しました。しかし、それでも神の栄光は語り尽くせません。

あなたの実体を探求し続けなさい

どんな御名でも、あなたに訴えかける御名を選び、その御姿を選びなさい。毎日、東の空が明るくなってあなたを起こしてくれる時、神の御名を唱え、その御姿を瞑想しなさい。起きて労働している間中、その御名と御姿を、あなたの同伴者、導き手、守護者として携えていなさい。夜、床に就く時、一日中ずっとあなたと共に、あなたのそばに、あなたの横に、あなたの前に、あなたの後ろにいた、その御姿をとったその御名の神に、感謝の敬意を捧げなさい。もしこれらの規律をきちんと守っていれば、あなたがくじけたり失敗したりすることはあり得ません。

私はもう一つ、あなた方にアドバイスしなければなりません。この大陸の国々の同胞たちの喜びと幸せを促進するよう、常に努力しなさい。彼らの喜びと幸せの分配者になりなさい。バーラタ〔インド〕がバーラタと呼ばれているのは、国民が「バー」(バガヴァンすなわち神)への「ラティ」(大きな愛着)を持っているからです。彼らは神に身を捧げています。ですから、神の子供たちすべてに身を捧げているのです。彼らは罪を恐れています。彼らはグニャーナ(霊性の知識)を得ることを熱望しています。

自分の実体を探求し続けることを決意しなさい。絶えざる神の憶念に鼓舞されて生きていくことを決意しなさい。愛を育み、愛を分け与えなさい。あなた方がこの努力に成功し、そこから偉大なる歓喜を得ることを、私は祝福します。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8 C22

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