サイババの御言葉

日付:1969年11月21日・場所:プラシャーンティ・ニラヤム
第3回サティヤ・サイ・オーガニゼーション全インド大会 連続講話A

百番目とその次


インドの全州から帰依者たちが集まったこの大会は、アイデアを出し合い、活動プログラムを計画するための良い機会です。皆さんはここで問題と疑問を提出し、強められた信仰心と、ためらいが取り除かれた心を持って帰途に就くことができます。 皆さんは各組織から政治的なことを遠ざけておかなければなりません。というのは、この組織はもっぱら霊的成長のためにあるからです。粗野で騒々しい政治と派閥争いが優勢な場所には、どんな霊性修行も花開くことはあり得ません。皆さんは一体性と愛と平安を求めるべきであり、相違や議論や論争を求めるべきではありません。それらは政治に属するものであり、言い換えれば、このオーガニゼーションにおいてさえ、ユニット内での権威ある地位を求める競争が、いくつかの組織を腐蝕しつつあるということです。それは、個々人が自分のエゴ〔自我意識、アハンカーラ〕を制することを身につけておらず、心の中の激性(ラジャス)の傾向が取り除かれていないからです。「ダヤー」と「ダマ」と「ダーナ」――これらは人間が培うべき三つの特質です。「ダヤー」とは、悪魔的な性質に轡(くつわ)をかけるための「慈悲」です。「ダマ」とは、神的な性質を育てるための「自制」です。「ダーナ」とは、人間にありがちな貪欲を抑えるための「布施」です。

世間の名声を得たいという野望、同胞に権力を振るうことのできる地位を手に入れたいという野望、贅沢な生活を送りたいという野望は、決して心の平安(シャーンティ)を約束するものではありません。心の平安は、これらとはまったく別のことを達成した結果として生じるものです。富は心の平安を命じることはできませんし、権威も心の平安を奪い取ります! 心の平安は、瞑想や唱名(ナーマスマラナ)、あるいは、全能の神の御前に至るための九つの段階を経て、努力の末に勝ち取らなければならないものです。心の平安は、人間が大胆にも航行しようとしていいるかもしれない他のどんな天体においてでもなく、人間が正当に属しているこの地上において勝ち取らなくてはならないものです。

タットとトワムは同一であることを知れ

皆さんは、過去を回想し、恐ろしい未来を思い描くことによって、悲しみを倍増させています。皆さんは、過去を思い返し、これからの出来事をあれこれ考えることで、今この瞬間を大きな恐怖で満たしています! 蓄音機の針はレコード盤の上を走って音楽を奏でます。レコードは動かない物体です。心(蓄音機の針)が自然界と関わりを持ち、自然界と接触すると、喜びと悲しみの歌が聞こえてきます。過ちは、自然界にあるのでも、心にあるのでもなく、接触することにあります! 離れていなさい、無関心でいなさい。そうすれば、何の反応も生じません。これが、心の平安を手に入れる方法です。

子どもには自分の舌があり、母親にも自分の舌があります。子どもに話をすることを覚えさせるために、母親は子どもを膝の上に抱いて言葉を言って聞かせます。母親の舌がどれほどよく回ろうとも、子どもは自分の舌で話さなければなりません。母親が代わりに話をして子どもの手間を省いてやることはできません! グル〔師〕もそれと同じようなものです。グルにできるのは、繰り返すこと、思い出させること、鼓舞すること、教えること、説得すること、説きつけることだけです。行動は、弟子が自分で起こさなければなりません。弟子は自分で柵を飛び越えなければなりません。誰にも弟子を持ち上げて柵を越えさせることはできません!

「タット」(あれ)は、遠くにあるものを指す言葉です。これはあなたが指差すものが遠くにあることを意味します。「トワム」(汝)は、あなた自身です。これはあなたに最も近いもの、つまり、あなた自身のことです。あなたは、あなた自身のことを一番よく知っていますね。今、知るべきことはそれだけです。すなわち、「あなた」と「あれ」〔神〕は同一であるということです! 存在するものは一つであり、二つではありません。それは、「ブッディ グラーヒャム、アティーンドリヤム」すなわち、知性によって理解できるものと、触覚、聴覚、味覚、嗅覚〔および視覚〕の理解を超越しているもの、と言われています!

ヴェーンカテーシュワラ神は、七つの峰の神として讃えられています。ヴェーンカテーシュワラ神の寺院は七つ目の峰の上にあり、人がこの神に到達するには六つの峰を越えて行かねばなりません。これは、色欲(カーマ)、怒り(クローダ)、貪欲(ローバ)、執着(モーハ)、高慢(マーダ)、嫉妬(マーッツァルヤ)という六つの障害物の象徴です。人は神と顔を合わせる前に、これらの激情を乗り越え、捨てて行かねばなりません。

肉体と呼ばれる石化した地層においては、心(マナス)という土壌を、知性と呼ばれるつるはしを使って、英知(グニャーナ)というダイヤモンドを発掘するまで掘りなさい。ひとたびその貴重な宝石を手に入れたなら、それを自然界(プラクリティ)という金で飾って身につけても問題はありません。英知を輝かせるため、あるいは引き立てるために、自然界(プラクリティ)を使いなさい! それは無害な遊びです。しかし、だからといって自然界の餌食(えじき)になってはいけません。自然界は、神の衣としてのみ敬いなさい。

役員は免除や特権を主張できない

初めに一歩登ることさえ、ためらうなら、どうやって六つの峰を登って越えて七つ目の峰に到達することなどできるでしょう? 私はすでに昨年、ボンベイでの世界大会において、霊性修行としてナガラサンキールタン(通りを歩いて集団でバジャンを歌うこと)を行うことを定めました。しかし、私は今日この大会で、小委員会が役員たちに「少なくとも年六回はナガラサンキールタンに参加するように」と提言しているのを見ました! それを霊性修行(サーダナ)と呼ぶことなどできますか? 役員は何の特権も免除も主張することはできません。役員は自らの信愛と信仰によってリーダーシップをはっきりと示し、迷いがちな人々を奮起させなければなりません。それが役員の役目です。

ところが、今、役員たちは譲歩を求めています! 映画に押し寄せ、社交クラブへと急ぎ、一緒にトランプをして日々を過ごしていながら、神の栄光を歌って自分自身と環境を清めるようにと求められると、やかましく譲歩を要求するのです! 怒りで互いの頭がぶつかり合っているとき、足は何の影響も受けずに落ち着いていられますか? 足も同様に、できる限り意地悪く、踏みつけたり蹴ったりするでしょう。頭が引き下がりたいと望めば、足もやる気を失っておとなしくなります。

「バガヴァッドギーター」が述べているように、悟りを得た魂たちは、世界が救われるようにと行動します。そうであれば、悟りを得たいと切望する者たちは、行動しなければなりません。そうすれば、進歩は妨げられないでしょう。

私は、「ナガラサンキールタンに出かける時間が見つからない」という言い訳を受け入れることはできません。今、使える時間の中で100のことができるなら、スケジュールに101番目のことを入れることも必ずできるはずです。その100はやめてしまってもかまいませんが、この追加の一つは命を維持する呼吸のごときものです。周りにカメラマンがいる時にだけナガラサンキールタンの列に加わるようなことをしてはなりません。皆と共に歩き、その感動を味わいなさい。役員はユニットのあらゆる活動において、他の人々と一体であらねばなりません。今、「命令を聞いて、その命令を実行する」という幸運なチャンスを得たことを喜びなさい! 人間にこれほどのチャンスが訪れることは滅多にありません。

サイの組織では心が一致していなければならない

自分が追随者たちに命じた仕事をリーダー自らが怠れば、最も強力な組織でさえ崩壊します。二本の木が擦り合えば、山火事が起こります。二人の重鎮が権力争いをすれば、その機関は大火事に巻き込まれます!

思いやりのある配慮をせずに無慈悲に規則を押し付けてはなりません。もし会議の六割を欠席している者がいたら、規則ではその人物を役職から外すようにとあります。その人には、まず改心するチャンス、一団に留まるチャンスを与えなさい。そうすれば改心するかもしれません。それでもその人が改めなければ、躊躇することなく除名しなさい。

自らの習慣ゆえに、あるいは宗教的事柄への無関心、とりわけ私が与えた指示への無関心ゆえに、「サイの帰依者の一団の外にいた方がずっといい」と思う人は、誰も中に入れてはいけません。というのは、私の名誉は皆さんの名誉であり、皆さんの名誉は私の名誉だからです。これはあなた方のユニット、あなた方のオーガニゼーションではありません。これは私のものです。私の組織においては、お互いの心が一致していなければなりません。すべての人のハートは、規律によって耕され、愛という種が蒔かれなくてはなりません。そうすれば、その種は献身という木に成長し、英知(グニャーナ)という果実を実らせます。

サティヤ・サイの組織の役員と会員は、サハナ(自分自身とは違う意見を受け入れる寛容)、サティヤ(真理)、ダヤー(慈悲)、そして、プレーマ(万人への愛)がなくてはなりません。そして、両親を敬わなくてはなりません。さらに、自分が実践していないことを人に説教するという罪に陥ってはなりません。

自分は高い水準の生活を楽しんでいながら、両親をおろそかにし、両親が弱って苦しんでいるのを放置している者は、誰であれ会員には値しません。なぜなら、私はいつも、「母を神と見なしなさい(マートゥル デーヴォー バヴァ)、父を神と見なしなさい(ピトゥル デーヴォー バヴァ)」というヴェーダの指示を力説しているからです。これに反する悪しき行為に身に覚えのある者は、心してこの指示に従って、自らを矯正しなさい。サティヤ・サイ・ファミリーは、両親を養い介護するという家族の責任を果たす男女だけを有していなければなりません。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.9 C33

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