サイババの御言葉:身をかがめて奉仕せよ

日付:1971年8月24日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
ガネーシャチャ トゥルティーの御講話より

身をかがめて奉仕せよ


ヴィナーヤカ チャトゥルティーというのは、今日、北はヒマラヤから南はコモリン岬までの国中至るところで、さらには、母国の文化を存続させようという忠誠心を持っているこの国の民がいるところならどこででも、祝われているお祭りの名前です。ヴィナーヤカ、あるいは、ガネーシャ、あるいは、ガナパティ、あるいは、ヴィグネーシュワラ――これらはすべて、その象の神を指しています。この神は、若い人にも年取った人にも親しまれており、どんな儀式を行うときでも、どこへ巡礼に行くときでも、どんなヤーガやヤグニャ〔供犠〕を行うときでも、必ず、事を始める前にまず礼拝される神です。この神は、人体の内と外における「神群」(ガナ)の「主」(パティ)であり、どれほど切迫したそびえ立つような「障害」(ヴィグナ)をも「征し破壊する者」(イーシュワラ)です。これは、ガナパティが、知性、ヴィッディヤー(学識)、ブッディ(理智)の神であるという事実ゆえの当然の結果です。

ガナパティは、タントラの教えの中で崇められ、また、さまざまなヴェーダのマントラによっても崇められている神です。諺にもあるように、象は哺乳類の中で最も利口です。その上、象は菜食です。これは象の本性は浄性であること(サットウィック、安定していること、純粋なこと)を示しています。ガナパティには象の頭が付いています。象の頭は知性の印であり、知性によって、世俗的なものであれ霊的なものであれ、物事を達成するための途上にある障害を乗り越えることができるからです。

ガナパティを勧請する際にたいてい用いられる、よく知られた詩節があります。そこにはガナパティのさまざまな属性が述べられています。

最初の属性は、「シュクラームバラダラム」(白い〔シュクラ〕衣〔アムバラ〕をまとっている者)です。これは清らかさの象徴です。というのは、アムバラにはハートの中の空(アーカーシャ)という意味もあるからです。ガナパティは清らかで、万物への愛と慈悲を持っています。

ガナパティのものとされる二番目の属性は「ヴィシュヌム」です。ヴィシュヌとは、いかなるときにも、いかなる場所にも存在する者を意味します。

第三に用いられている形容詞は「シャシヴァルナム」〔月の色、灰色〕というものであり、これは神聖灰ヴィブーティの色をしたガナパティの皮膚を指しています。言い換えるなら、ガナパティは霊性の光、霊的成就、霊的達成、霊的力で輝いているということです。これらはヴィブーティとも呼ばれています。なぜなら、ギーターの中で、クリシュナが「どこであれ、そなたが力、栄光、威厳(ヴィブーティ)を見るならば、それは私のものである!」と語っているからです。ガネーシャは神の栄光に浴しています。これが「シャシヴァルナム」という属性の意味です。

ガネーシャはオームの化身

次の名称は「チャトゥルブジャム」(四本の腕がある者)です。これは、ガネーシャには、目に見える二本の腕の他に、目に見えない腕が二本あるということを意味します。その二本の腕は、(1)信者を祝福すること、(2)信者を危険から守ること、という二つの神聖な用途に役立てられます。

最後の描写的な語は、「プラサンナヴァダナム」(上品な顔立ち)です。この顔立ちは、内面の穏やかさと幸福感と均衡、内面の品格と慈悲、そして、自らの強さと主権の自覚の表れです。

知的な識別力がなければ、技能と強さを有益に使うことはできません。たとえば、火や電流はどう使うべきか、自分たちの必要を満たす道具としてそれをどこまで使うべきかを、人は知らなければなりません。同様に、人の五感は火のようなものであり、常に注意して制御しておかなければいけません。

ハートの清らかさと五感の制御がなければ、どんな礼拝も報われることは不可能です。ガネーシャは障害を乗り越えることを助ける神ですが、悪い影響を与えるものが善い試みを妨害するときには、それに対抗する障害物を創り出します。ガネーシャは、真面目なサーダカ(霊性の求道者)のために道を明らかにします。ガネーシャは、あなたが善良な目的のために祈るときには「プラサンナヴァダナム」(ご利益のある顔立ち)ですが、極悪な策略のために助けを求められると、そうではなくなります! ガネーシャは「プラナヴァスワルーパ」、すなわちオームの化身であり、それゆえ吉祥そのものです。

神が崇められて人に害が与えられるなら、そのような行いに吉祥はあり得ません。人は、神が人間の姿形の中に収められている存在です。人は、人間という名のついた姿形の中に入れられた神です。部分(アヌ)を軽んじるなら、どうして全体(ガナ)を獲得できるでしょう? パイサ(100分の1ルピー)を捨てるなら、どうしてルピーが得られるでしょう? どんな額のお金も、始まりは1パイサです。それにもう1パイサ加えれば2パイサになります。そのようにして、そこに98パイサを加えるとひとまとまりに、すなわち1ルピーになります! 人がその「1」です。人を崇めることを始めなさい。そうすれば、目に見えない神の恩寵を得ることができます。目に見えるパイサを軽んじれば、目に見えないルピーを失うことになります!

人の根本的な欠点は、貪欲という野放しの欲望

人は、獣さえも恥とする行いによって人間の地位を失います。人は自分の中に隠れている神性を現し示すための努力を払っていません! 人は動物から昇格してきました。人間にとって、動物の姿へと後戻りすることよりも大きな失敗はありません! もし人が人間の属性と能力を持ち続けるなら、それは十分評価を得るに値します。人間の欠陥や欠点を列挙すると、ぞっとするような一覧ができますが、人間の根本的な欠点は、「貪欲」、すなわち「野放しの欲望」、つまり、いつも、もっともっと、とやかましく要求することです。これは五感が絶えず人を駆り立てている結果です!

ラーヴァナ〔『ラーマーヤナ』に登場する悪鬼〕は貪欲に打ち負かされて自滅しました。ラーヴァナは神々を侍従としていました。それは、ラーヴァナが苦行をして切願した恐ろしき神々であり、それがラーヴァナのサーダナに対する褒美だったのです! けれども、ラーヴァナは満足しませんでした。ラーヴァナの情欲は、油を注がれたかのように一気に燃え上がりました。カウラヴァ兄弟〔『マハーバーラタ』の主人公パーンダヴァ兄弟と敵対する従兄弟たち〕の父ドリタラーシュトラは、息子たちの欲深い計画に心を奪われ、その結果、戦場で息子たちをすべて失いました。百人も息子がいたにもかかわらず、生き残った息子は一人もいませんでした!

神のために心臓を鼓動させなさい

無知(アグニャーナ)の深く暗い闇の中、あなたが行くべき場所であり、かつ、あなたの実在であるものに向かって、あなたが元いた場所から「地上での生」という密林を移動している間、六人の盗賊があなたに襲い掛かってきます。それは、情欲、怒り、貪欲、執着、エゴ〔自我意識、アハムカーラ〕、憎しみという盗賊です。英知(グニャーナ)から発せられる光と、神への愛(バクティ)という武器を振るうことによってのみ、あなたはその盗賊たちを負かして、自分を救うことができます。

英知の光が明るく遠くまで照らすことができるのは、愛〔プレーマ〕、すなわち、純粋な愛、何の見返りも求めない愛が、ハートの中にしっかりと安定しているときだけです。何らかの見返りを求めて愛する人、お返しに自分が愛されたいから愛するという人は、目が日給に釘付けになっている日雇い労働者です。

実のところ、あなたが愛しているのはあなた自身なのです。なぜならば、存在しているのは、万人の中にいるあなただけだからです。

ソーハム(神は我なり)


あなたが誰を傷つけても、苦しむのはあなたです。あなたが誰を欺いても、欺かれるのはあなたです。もしあなたが自分の能力と知性の最善を尽くして、良心を充分に満足させるために自分の義務を行うことをしないなら、あなたは自分を欺いていることになります。大学の講師は一週間に一時間の授業を八つしか講義しなくてよいということを、私は知りました! さらに、彼らは残りの時間も、何ら役に立つことに使っていません!

奉仕、すなわち、社会を向上させるために時間と技能を役立てることは、神が恩寵を授けて報いる最高の礼拝の形態です。あなた方は、奉仕を通じてサット チット アーナンダ〔実在・純粋意識・至福〕の実体験を得ます。なぜならば、あなた方は奉仕を通じてエゴに打ち勝ち、万物の背後にある一体性を確信するからです。役員であろうとなかろうと、誰もが身を引き締め、働くために身をかがめなければいけません。行為(カルマ)を通じて体を神聖にし、瞑想によって心(マインド)を神聖にしなければなりません。国のどの地域でも、各ユニット〔サイの組織〕はこの理想を掲げ、その理想を実践しなければいけません。そうすれば、各ユニットは人々を感化する手本になることができます。

バジャンは感動的な体験でなければなりません。バジャンを歌いながら、一方で歌を聞いている人の反応を気にし、もう一方で神の反応を気にしているようではいけません。ハートから神を熱望しなさい。そうすれば、ラーガ〔メロディー〕とターラ〔リズム〕は自然と快く正しいものとなります。ひたむきさは、ラーガとターラのあらゆるミスを覆い隠します! たとえ一声でも、あなたのハートに自惚れた歌声といったようなものが入りこんで腰を落ち着かせることを許してはなりません。たとえ一匹でも、カエルの死骸が井戸に浮かんでいたら、その井戸の水は全部飲めなくなります。百匹の元気なカエルが井戸を使えなくすることはありませんが、たった一匹の死んだカエルは井戸を使えなくしてしまうのです!

人生は、激しく氾濫する水の流れを落ち着かせて有用な田畑に流れ込むよう方向づける水路を通って、生きていかなければなりません。

ナフ シュレーヨー ニヤマム ヴィナー
規則と制限〔ニヤマ、禁戒〕がなければ進歩はない


戒めに従う者は祝福されています。なぜなら、その人はその果報を得ることになるからです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.11 C32

<<SSOJ Topページへ <<サイババの御言葉メニューへ