サイババの御言葉

日付:1972年8月31日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
クリシュナ神御降誕祭の御講話より

最も簡単な治療法


人は低次の衝動と欲望の奴隷になってしまいました。人は、情欲の低次の衝動と、人を高める愛の衝動とを見分けることができていません。愛は神の恩寵へと続く道の最初の一歩です。しかし人は、肉体的な快適さと、快楽を求める情欲に溺れています。そして、情欲の邪悪な伴侶である怒りに絶えず付きまとわれています。情欲が満たされないと、人は怒りに支配されて動物的になり、さらには悪魔的にすらなります。情欲が人のハートを包み込むと、ハートから真実、正義、慈悲、平安が逃げていきます。世界は蛇の穴に成り下がり、人類を破滅から救うために神がやって来ます。

アヴァター(神の化身)は、人に人の真の自己(アートマ)を明かすため、そして、生まれながらの権利である真の自己の至福を人に取り戻させるために、やって来ます。アヴァターは、新しい宗教を築いたり、新しい宗派を生み出したり、新しい神を教え込んだりするためにやって来るのではありません。もしそういうことが起こったとしたら、それは人間の中の悪の結果です。アヴァターは、人は神であるということを身をもって示すため、そして、人の手が届くところにいるために、人間となってやって来ます。人の心は、絶対なるもの、すなわち、属性を持たない原理を把握することができません。それは抽象的なものであり、言葉と心と理性を超越しているものです。

火はマッチ棒に内在していますが、マッチを擦って炎が出た時に、私たちは初めてその恩恵をこうむることができます。属性のないもの(ニルグナ)が、属性を持ったもの(サグナ)として顕現する必要があるのです。姿を持たないもの(ニラーカーラ)が、姿を持って顕現する必要があるのです。そうした時にのみ、人間は耳を傾け、学び、理解し、従うことができ、その経験という至福を通して救われることができます。アヴァターは各人に真我顕現の炎を灯します。そして、かくも長く続いた無知が一瞬で滅ぼされるのです。

アヴァターがまとったクリシュナという御名の意味深さ

正しきパーンダヴァ兄弟が邪悪なカウラヴァ兄弟に悩まされていた時、美しきクリシュナ神が現れて彼らを救いました。神が暴力や流血を画策することは決してありません。愛が神の道具であり、非暴力が神のメッセージです。神は、教育と手本によって邪悪な心の持ち主たちの矯正を成し遂げます。しかし、「どうしてクルクシェートラの戦いは起こったのですか?」と尋ねる人がいるかもしれません。あれは外科手術であり、したがって、暴力行為であると言うことはできません。外科医はメスを有益に使うことで人の命を救います。

アヴァターがまとったクリシュナという御名を考えてみると、なんと意味深い御名であることでしょう! 「クリシュナ」は「クリシ」を語根としています。「クリシ」の意味は、(1)引き付ける、(2)耕して養う、(3)時間と空間と因果を越えた神の法則、というものです。クリシュナは、すべてのアヴァターと同じく、求道者や聖人賢者ばかりでなく、素朴な人、純真無垢な人、善良な人たちも引き付けます。また、好奇心の強い人、批評家、疑い深い人、無神論を患っている人も引き付けます。クリシュナは、そうした人々を、拒み難い容姿の魅力、無敵の美貌、声、横笛、助言、恐れを知らぬ英雄的行為によって、引き付けます。クリシュナはいつも至福の状態にあり、周囲にハーモニーとメロディーと美をもたらしていました。ブリンダーヴァンの平和な牧草地や土地でも、血に染められたクルクシェートラの戦場でも、クリシュナ神はどこででも歌います。ある場所では手に横笛を持ち、ある場所では鞭を振るいます。しかし、そこで生じるものは、ヴェーヌガーナ〔竹笛の音楽〕、あるいは、バガヴァッドギーターという、意味深い、心を動かす音楽です! 「ガーナ」も「ギーター」も「歌」を意味します!

なぜクリシュナは万人を自分の御前に引き付けるのでしょう? それは、ハートを耕して恩寵のシャワーを受ける準備を整えさせるためであり、愛の種を育てて、喜びという作物の生長を妨げる悪い思考という雑草を根こそぎするためであり、英知という収穫を集めることができるようにするためです。その英知はクリシュナ自身の中に成就を見出します。というのは、クリシュナとは、純粋な本質、至高の原理である、サット・チット・アーアンダ〔絶対実在・純粋意識・至福〕も意味しているからです。

ブリンダーヴァンのゴーピーたちをあなたのガイドとしなさい

ブリンダーヴァンのゴーピー(乳しぼりの女)たちは、クリシュナ アヴァターに密接にかかわっていました。ゴーピーたちはクリシュナを自分のハートに刻んでいました。クリシュナだけが唯一の実在であり、クリシュナ以外もクリシュナでした。ゴーピーたちの中でも最も熱烈だったラーダーがクリシュナとの分離に泣いた時、ラーダーの心をそらそうと周りに集まってきたゴーピーたちは、「ゴーヴィンダ!」〔牛を守る者という意味のクリシュナ神の別名〕、「ダモーダラ!」〔腹に縄を巻かれた者という意味のクリシュナ神の別名〕「マーダヴァ!」〔迷妄の支配者という意味のクリシュナ神の別名〕」と言うよりほかに、すばらしい慰めの言葉、安堵の言葉を使うことができませんでした! これらの御名はラーダーのハートを貫いてクリシュナ神を失った痛みを伝えました! ゴーピーたちは、牛乳やカード〔凝乳〕やバターを持っていって道端で売る時、それら売り物の名前を叫ぶものですが、彼女たちの口から出た名前は、「ゴーヴィンダ!」、「ダモーダラ!」、「マーダヴァ!」でした。それは彼女たちが崇めたクリシュナの愛しい御名であり、それがほかの一切に取って代わりました! クリシュナの邪悪な叔父〔カムサ〕の使者アクルーラがクリシュナをブリンダーヴァンから連れ去った時、ゴーピーたちは二人を止めようとして急いで道を遮りましたが、その破れかぶれの抗議においても、ゴーピーたちは、「ゴーヴィンダ!」、「ダモーダラ!」、「マーダヴァ!」という以外、ほかの言葉を口にすることはできませんでした。

神は、味が付いていない人生という飲み物を甘いものにすることのできる砂糖です。砂糖をよく混ぜなさい。そうすれば、どの水の分子も砂糖の味で満たすことができます。ゴーピーたちは、このサーダナ〔霊性修行〕におけるあなた方のガイドです。ゴーピーたちは、あなた方もそうしているように、アヴァターを自分たちの真ん中に有していました。それゆえ、ゴーピーたちが純粋さを達成し、信仰を得た時、救いは保証されたのです。

カリの時代のアヴァターには三重の任務がある

神の化身は、クリタ ユガ〔正法(ダルマ)の時代/黄金時代〕ではヴェーダの伝統を守るために出現し、トレーター ユガ〔正法の4分の1が欠ける時代〕ではダルマを守るために出現し、ドワーパラ ユガ〔正法の2分の1が欠ける時代〕では財産を分配するために出現しました。神の化身は、クリタ ユガでは無関心からヴェーダを救い、トレーター ユガでは侮蔑から女性を救い、ドワーパラ ユガでは不正から財産を救いました。

今、この第四の時代、カリ ユガ〔正法の4分の3が欠ける時代〕においては、これらすべてが危機的状況にあります。ヴェーダは嘲笑され、女性は女性らしくない生活に引き込まれ、財産は盗品として没収されています! ですから、このアヴァターには三重の任務があるのです。〔カリ ユガの〕人間は、ハートに清らかさがなく、感情に神聖さがなく、行いに愛がなく、祈りに神がありません。

このカリ ユガでは悪が最も濃厚ですが、その治療法は最も簡単です。 クリタ ユガでは、荒廃から脱出するためのサーダナは難しいものでした。長年の苦行と禁欲が身を結ばないこともしばしばでした。6歳のドルヴァは、野生の森林の奥深くで何年も苦行をして、やっと神に恩寵を授けられました。一方、少年プラフラーダは、執拗な拷問を受けても痛みに気づかず、自分の中の神だけを意識していました。自分を不安や恐怖から救うために今日必要とされているものは、今もこれからも、専心、すなわち、心を神に向けることです。心を神に向ければ、身体の痛みや五感の苦しみは心に影響を及ぼさなくなるのです。

ディヤーナ(瞑想や坐禅)は、その内に向かう旅であり、物質世界とその後を追いかける五感から離れることです。ウパニシャッドは、「ナーヤム アートマ バラ ヒーネーナ ラビャフ」、すなわち、「アートマは強さに欠けている者には到達できないものである」と明言しています。強さ(バラ)とは、肉体的、気的、道徳的、知的、霊的にタフであることを意味します。なぜなら、五感の支配を確立するにはこれらすべてが不可欠だからです。あなたはディヤーナ(瞑想や坐禅)をするかもしれませんが、あなたの五感は覚めていてあまりにも活動的なので、小さな蚊があなたの感情を刺激すると、あなたは蚊を虐殺するために腕を振ります!

良心の呵責は浄化し、悔悟は洗い流す

ずっと昔、クリシュナー川のほとりに非常に敬虔な家族がいました。一家は広大な土地を所有していました。一家の両親には、経典に精通していて、従順で、良い振る舞いをする一人息子がいました。ところが、父親が死んで財産が手に入ると、その息子は道楽者の放蕩息子となり、周りにはいつも邪悪な男たちの一団がいるようになりました。彼は娼婦と親密な関係になり、その女性に手玉に取られ、たいそう夢中になっていたために、妻は絶望して自害しました。そして、彼は洪水の時、その遺体にしがみついて川を泳いで渡るはめに陥りました。彼は妻の遺体を上流から流れてきた木だと思っていたのです。しかし、自分の窮状にハッと気づいて、自分に道を誤らせて罪へと陥れた己の目〔妻以外の女性に目を向けたこと〕を責めました。彼は罰として自分の目をつぶし、クリシュナとしての神の顕現にまつわる聖地をクリシュナの御名を歌いながら徘徊しました。その盲目の歌い手はスーラダーサでした。唇で神の御名を唱え、心に主の栄光を思い浮かべている時、悪があなたを引き付けることはできません。良心の呵責は浄化し、悔悟は洗い流します。クリシュナは盲目のスーラダーサの前に現れて、視力を取り戻してあげようと提案しました。しかし、スーラダーサは内なる目を求めて嘆願し、外に縛られている視力を捨てたのでした。

神は石のような心を持つ暴君などではありません。神は慈悲です。神は恩寵の権化です。あなたがひとたび涙であなた自身を清めれば、神はあなたを近くに引き寄せ、慰めと勇気を与えます。洗われたハートがなければ、神我顕現は不可能です。英知は浄化された心にしか入ることはできません。ゆっくりとした着実なサーダナは、心の浄化を成功させることができます。

誰もがアルジュナとなって勝利を収めることができる

あなた方がアルジュナとアルジュナの熱意を見習えば、勝利はあなたのものです。今、ギーターの最後の詩節がバーガヴァタム氏によって引用されました。


ヤトラ ヨーゲーシワラハ クルシノー ヤトラ パールトー ダヌルダラハ
タトラ シリール ヴィジャヨー ブーティル ドゥルヴァー ニーティル マティル ママ

最高のヨーギであるクリシュナがいて、アルジュナが弓を携えている所には、
真実と正義の勝利が保証されている


この詩節が保証しているのは、マハーバーラタでアルジュナがクリシュナの御前で弓を振るった時のことだけではありません。あなた方の誰もが、アルジュナとなって弓を振るい、勝利することができます。なぜなら、弓は勇気と信心の象徴、高潔な決意とくじけることのない度量の象徴だからです。では、アルジュナになるにはどうすればいいのでしょう? 「アルジュナ」とは、白、清らかさ、穢れのないこと、傷がないことを意味します。あなたがそうなって弓をつかむやいなや、クリシュナは喜んでその場に現れます(ウパニシャッドは、プラナヴァすなわちオームが矢であり、神が標的であると明言している)。招待する必要も、据える必要もありません。クリシュナはあなたのハートの中から答えるでしょう。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.11 C45

<<SSOJ Topページへ <<サイババの御言葉メニューへ