サイババの御言葉:求道者へのアドバイス

日付:1975年3月28日・場所:ブリンダーヴァン
キリスト教の聖金曜日に西洋人のグループになされた御講話より

求道者へのアドバイス


もし誰かが自分はサイ ババのパワーを与えられたなどと言うと、人々はその人のもとへ走ります。サイ ババの力はそのように誰か他の人に与えられるものではありません。サイ ババから力を受け取ることのできる能力のある人など誰もいませんし、サイ ババの力を与えることのできる能力のある人もいません。サイ ババの力はそのようにして与えられるものではないのですから、そのようなことを聞いても、のこのこ出かけていってはなりません。人の力は各人の内にあります。自分の力を他の人に与えることは不可能です。そんなふうに弱い心に自分を支配させることを許して、あの人のところ、この人のところと走りはじめるなら、いつあなたは心の強さを手に入れて、自分の心を制御することができるでしょう? 一つの思い、一つの道に従うことができなければいけません。世界を歩き回り、たくさんのお金を使って霊的な力を探し求める必要はありません。自分の家にいて、自分の中で力を発達させなさい。霊的な力はあなたの中にあります! 霊的な力を求めてあちこち走り回る必要はありません。神は外にいるものではありません。神はあなたの外にいるのではありません。神はあなたの中にいます。

あなたは人ではなく、あなた自身が神なのです。あなたは一人ではなく、三人います。あなたが自分だと思っているあなた(肉体)、他人があなただと思っているあなた(心)、そして、本当のあなたです。本当のあなたは霊的な存在であり、それは神です。神はどこかにいるのだから神を探さなければならない、という妄想にとらわれていてはなりません。神はあなたの中にいます。あなたがそれに気づくことができたとき、そして、あなたが自分の中にある霊的な力を発達させることができたとき、あなたは神を見るでしょう。あなた方は現世意識の道を進んでいます。超意識の道を進めば、あなたは悟りを得て、真理を見ることができるでしょう。

肉体を絶えずふらつかせることをやめなさい

あなたが最初にしなければいけないのは、自信を持つことです。自分の自己〔真我〕を信頼していない人は、あちこち歩き回って、揺れ動き、さまざまな別の道を転々とします。あなたが自分の体をさまざまな場所に置くとき、目的もなく歩き回るとき、心もさまざまな場所に行きます。まず、あなたの肉体を固定することです。体がいつも動いていれば、心も動いています。水の入った器があり、その器をずっと動かしていれば、中に入っている水もずっと動いています。ですから、目的もなくいつも体や手足を動かしていないようにしなさい。これは、瞑想を実践する上で大変重要なことです。静寂を保って座り、体を固定させるようにしなさい。

瞑想するとき、なぜ、背筋を伸ばして座りなさい、静寂に座っていなさいと言われるのでしょう? なぜなら、体が真っ直ぐで静寂を保っているときには、内側の心も真っ直ぐで静寂な状態にあるからです。もし自分の体を制御できないというのであれば、どうして自分の心を制御することができますか? まずやるべきことは、手足と体の器官を固定することによって、体を制御することです。心がふらつく理由は、あなたの肉体もいつもふらついているからです。ですから、あなたがしなければならない最初のことは、肉体を絶えずふらつかせることをやめることです。

集中と瞑想の違い

多くの人が集中は瞑想と同じものだと考えていますが、集中と瞑想にはそのような関係はありません。集中は五感の下のものであり、瞑想は五感の上のものです。けれども、多くの人は集中は瞑想と同じものだという間違った印象を持って、間違った道に行ってしまいます。集中力は毎日普通に日常で無意識に使っているものです。次のことを考えてみなさい。私が新聞を読んでいるとします。私の目は文字を見ています。私の手は新聞を持っています。そのとき、私の知性は考えています。頭(心、マインド)も考えています。このように、目は目の仕事をし、手は手の仕事をし、知性は知性の仕事をし、心も心の仕事をしているときに、私は新聞の内容を把握することができます。これは、私が新聞の内容を理解したいとき、今述べたすべての感覚器官を集中させ、協力させて、新聞というものに取り組んでいるということを意味しています。

それだけではありません。車を運転したいときも、集中力がなければ道で車を運転することはできません。歩くこと、話すこと、読むこと、書くこと、食べることといった、あらゆる日常的なことを、私たちはもっぱら集中の結果として行っています。集中が日常生活の一部であるならば、集中を得るために何か訓練する必要がありますか? 訓練しなければならないことは、そうした通常の感覚を超えたものです。感覚の下(集中の段階)から感覚へと上がり(黙想と呼ばれる中間の位置)、そこから感覚を超えたところへと上がっていかなければいけません。それが瞑想と呼ばれるものです。

集中と瞑想の間には境となる領域があります。そこは両方にまたがっている黙想の領域です。黙想の領域に入るためには、世俗の執着から抜け出さなければいけません。世俗的な執着の一切、この世の日常の執着の一切を断つと、あなたは黙想の領域に入ります。あらゆる執着を完全に断って、黙想の領域を通過したとき、あなたは瞑想の領域に入ります。

まず自分の自己への信頼を強めなさい

これらの歩みは、自己信頼〔真我への信頼〕から始め、それから自己満足〔真我への満足〕を得て、次に自己犠牲〔真我への犠牲〕、そして、その最後の段階は自己実現〔真我顕現〕である、と表現することもできます。自己実現という最後の一歩は、自信という土台に左右されます。ですから、まず第一歩として、自己への信頼を持たなければいけません。自分の自己への信頼を持つこと、強めることをせずに、いつも誰かとパワーを持った人のことを話し、また別の誰かと別のパワーを持った人のことを話していて、そうした話をしながら、いつも誰かの力に頼って転々としていたら、あなたはいつ自分の自己の力と自己への信頼を得ることができますか? 平安と至福はあなたの中にあります。平安と至福はあなたの外にあるものではありません。あなたは平安を得るためにヒマラヤに行こうと考えるかもしれません。けれども、あなたの心は都会に置いていかれるかもしれません。それでどうやって平安を得るのですか? あなた方は自分の体をインドに運んできました。けれども、もしアメリカにいるときと同じ習慣を持ったままであれば、わざわざインドに体を運んできたことが何になりますか? 体は重要なものではありません。心に変容が起きるべきです。心に変化が起きるべきです。

大勢の人が多くの情報(インフォメーション)を集めています。しかし、多くの情報を得ても、自分の自己に変容(トランスフォーメーション)をもたらすために情報を使っていません。情報は役に立たないものであり、大切なのはあなたの中の変容です。あなたはたくさんの食べ物の名前を言い続けることができます。それで空腹が和らぎますか? 一方、実際に一つでも食べ物を食べれば、空腹は和らぎます。ですから、話やスピーチでたくさんのこと(単なる机上の知識)を言う代わりに、自分が言っていることを一つでも実行に移すことができるなら、それは有益なものとなるでしょう。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.13 C6

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