サイババの御言葉:愛のメッセージ

日付:1975年11月23日・場所:プラシャーンティ・ニラヤム
ババ様の50歳の御降誕祭の御講話より

愛のメッセージ




ヴェーダとヴェーダーンタを習得した人は学僧として敬われます。散文も詩も両方とも素晴らしく書ける人は称賛されるかもしれません。しかし、そういった学者であっても、純粋な意識と高尚な理想を持っていないなら、その才能は役に立つどころか、むしろ害をもたらします。彼らは人々の幸せも社会の平和も向上させないでしょう。彼らはその神聖さにも高尚さにも気づかずに人生を終えるでしょう。

主なる神が少年ドゥルヴァを祝福したのは、ドゥルヴァの純真さと確固たる信仰心を評価したゆえのことでした。主なる神がプラフラーダを実の父親の謀略から救ったのは、プラフラーダ少年が神に全託し、神の慈悲に揺るぎない信頼を置いていたからです。貧困に苦しんでいたクチェーラに主なる神が恩寵を注いだのは、一度たりともクチェーラの信愛が揺らいだことがなかったからです。主なる神は、避けどころを求めるすべての者にとっての避けどころであり、救済されるべきすべての者にとっての救済者です。主なる神はサット・チット・アーナンダ(絶対実在・純粋意識・至福)の化身です。彼は今、真理と善と美の王国を治める光り輝く皇帝として、プッタパルティにいます。

今、人の振る舞いは本当にうわべだけのものである

食物に支えられている命は短く、アートマン〔真我、アートマ〕によって支えられている命は永遠です。長く生きること主張するのではなく、神聖に生きることを主張しなさい。もっと長く地上にいることを求めるのではなく、もっと多くの美徳が心にもたらされることを求めなさい。仏陀は真理を知り、世に真理を知らせました。一切は苦である、一切は空である、一切は儚いものである、一切は汚れている、と。それゆえ、賢い人は、自分に課せられた義務を、識別心をもって、勤勉に、執着することなく行わなければなりません。役割を果たしなさい。しかし、真のあなたはその影響を受けずにいなさい。あなたの頭は森のアシュラムに置いて、目的もなく急ぐだけの世の中に影響されずにいなさい。けれども、損失と獲得、失敗と成功、非難と称賛に関心を持つことなく、きちんと自分の仕事に従事することはあなたの義務であり、それは逃れることのできない義務です。『バガヴァッド ギーター』は、まさにこの教訓をあなた方に教えています。

「誰であれ私以外の思いを持たずにウパーサナ〔礼拝、近くに座ること〕を実践する者、その者を私は私と共にいさせよう。私は今、そして永遠に、その者の重荷を背負おう」

ギーターは述べています。

「常に私を憶念しつつ、人生という戦いに従事せよ」

ここでクリシュナが指している「私」とは、あなたの外の何か、あるいは、外から来た何かではありません。それは、あなた自身の瞑想の静寂の中で、あなたが五感と心(マインド)とエゴ〔自我意識、アハンカーラ〕という邪魔ものを意識から締め出したときに知ることのできる、あなた自身の神なる実体のことです。あなたは、神が御者となって自らの身を置く、穏やかなハートの涼しさの中に避けどころを得ることができます。あなたは聖化をもたらす態度をもって、浄化をもたらす仕事だけに従事しなければなりません。大半の人は、どうしたらこの最も有益な冒険に乗り出したらいいかを知りません。人々が悲しみのあまり人生を無駄にし、失望し落胆しながら苦労して人生を歩いているのは、何かを自分のものだとして執着し、それ以外のものを他人のものとして扱っているからです。人々はつかみ取っては深く悲しみ、得ては失うために苦労しています。欲望は欲望を倍増させ、人は不満と苦悩の深みへと沈みます。人々の振る舞いは本当にうわべだけです。それは神である自らのアートマンに促されたものではなく、人間の本性に適ったものではありません。すべてに及ぶ永遠の変化の海の中で、アートマンだけが変化を超越しています。

違いというものはすべて表面的なものであり、本当ではない

創造物、すなわち物質界には、一つとして同じものはありません。二人の人間がすべてにおいて同じということはありません。片方の人をもう片方の人から見分けることのできる特異性や性質があるのです。誰もがそれぞれ独自の経験をしています。限りない多様性が優勢です。時間の長さにかかわらず、一定の期間変わることなく同じでいられる人間もいません。赤ん坊は子供へと変わり、それから少年になり、青年になり、大人になり、それからまもなく中年になり、老人になり、よぼよぼになり、最終的に、もうろくします。

一人の人が、一日の間に目覚めている人から夢見る人に変わり、それから眠れる丸太となります! ですから、人は変わることのないもの、あらゆる多様性が生じる元であり融合する先である、パラマートマン(至高の実体)に避けどころを求めなければなりません。そうして初めて、平安と満足を確保することができるのです。過去は過ぎたことです。自分が歩いてきた道を振り返って見ることで、時間を失ってはなりません。前を見て、自信と勇気をもって歩いていく決意をしなさい。今、最初の一歩を踏み出しなさい。明日では遅すぎるかもしれません。

天国がそうであるのと同じように、この世も神であるという真理を、繰り返し自分に言い聞かせなさい。いわゆる物質的なものと霊的なものという、二つの異なる存在や範疇は存在しません。あらゆる違いは表面的なものであり、本当ではありません。サイは年寄りも若者も自らのもとに引き寄せてきましたが、その人たち全員のハートの中にサイがいます。聖書、コーラン(クルアーン)、ウパニシャッド、ゼンドアヴェスタ〔ゾロアスター教の経典〕といった異なる宗教聖典は、異なって見えても目的はどれも同じです。それは、人類の平和の基盤として、人間は皆兄弟であり神がその父であるという思いを据えることです。どの宗教も、時間と場所、言語、体験の程度という強制によって形作られたのですから、自らの優越を気取る必要はありません。あなた方は皆、サイ ファミリーの一員であり、愛の宗教という絆で結ばれています。表向きには、あなた方はそれぞれ異なる宗教に属していると言いますが、サイへの信心によってあなた方の心(マインド)のバリアは取り払われているのです。愛は神です。愛に生きなさい。

愛は奉仕として表現されねばならない

あなた方は自分のアートマン〔真我、アートマ〕を自分の体、自分の五感、自分の心、自分の理智、等々であると誤解していますが、アートマンには悲しみも喜びも持ち得ません。アートマンは死ぬことも生まれることもありません。アートマンは永遠にして不変です。あなたが喜びや悲しみだと判断しているものは、過ぎゆく雲のようなものでしかなく、太陽や月の輝きに影響を及ぼすことはできません。人生の車輪が刻々と回転しているとき、そうした感情は次から次へと生じてくることを知りなさい。海の水は渇きを癒せませんが、海には真珠やサンゴもあります。あなたは運命の浮き沈みに動じなくなるまで、喜びと悲しみという金槌で打たれることによって強くならなければならないのです。

今年、皆さんは私の誕生日をアヴァター(神の化身)の「50年祭」(ゴールデン・ジュビリー)と名づけ、世界のあらゆる所から大変大勢の人々が集まってきました。私はあなた方がこの善き仲間との親交(サットサンガ)から利徳を得ていることを確信しています。私は暦の特定の日を自分の誕生日とは呼びません。なぜなら、私はあなたのハートに神性が花開いた日が私の誕生日であると考えているからです。ですから、あなた方一人ひとりが個々にその日を私の誕生日として祝うべきです。あなたが私のアドバイスを実践しよう、私の指示に従おう、私のメッセージを奉仕の行為に変えて行おう、霊性修行をしようと決意する日――それがあなたにとっての私の誕生日です。あなた方が今、私が生まれた日として尊んでいる11月23日は、もしあなたがお決まりの行事として儀式的に祝うなら、他の日と変わりはありません。あなたが誰かを敬愛するなら、その敬愛は私に届きます。あなたが誰かを軽んじるなら、あなたは私を軽んじることになります。神を礼拝して、人間という神と等しい存在を抑圧することが、いったい何になるでしょう? 神への愛は人への愛として表されなければならず、愛は奉仕として表現されなければなりません。

愛、すなわち、霊性修行を通して得られた愛、霊性修行として万人と分かち合った愛を通してのみ、人も国家も平安を得ることができるのです。私の人生が私のメッセージであり、私のメッセージは愛です。これは、なぜ何十万という皆さんがここに集まったのかを明白に表しています。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.13 C19

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