サイババの御言葉:弱き者ではなく、強き者

日付:1976年7月・場所:アナンタプル市
サティヤ サイ女子大学における御講話より

弱き者ではなく、強き者


死に神ヤマを説得して夫を生き返らせたのは
バーラタの敬虔な女性、サーヴィトリー!
自らの真理の力で森火事を消し止めることができたのは
バーラタの敬虔な女性、チャンドラマティー!
燃え盛る炎の中から無傷で現れて女性の神聖さを示したのは
バーラタの敬虔な女性、シーター!
悪名高い乱暴者を自らの怒りの火で焼き焦がしたのは、
バーラタの敬虔な女性、ダマヤンティー!


バーラタ〔インド、神を愛する者の意〕の国は理智の貯蔵庫であり、すべての国の教師でもあります。なぜなら、バーラタは真理と平安の体現である徳高い女性たちに恵まれているからです。

神聖なアートマの化身である皆さん、教師の皆さん!

あらゆる熱狂は、いつか必ず鎮められます。蓄えた富は、いつか必ずなくなる運命にあります。結びついたものは、いつか必ず分離せざるを得ません。善と悪、幸と不幸は、人生において避けられない不可分の過程です。砂丘に建てられた城は、予期せぬ無慈悲な強風によって、いつか必ず倒壊に直面します。可愛らしい蕾の開花は、予期せぬ風の攻撃によって台無しにされるかもしれません。人生は善悪の混合であることに、人は気づかなければいけません。人間の試練は、毎朝日の出と共に始まりますが、人は日が沈んだら休息し、夜はぐっすりと眠ります。このように、日の出と日の入りは人々に喜びをもたらしますが、実は、その度に人の寿命も日々短くなっています。人はこの事実に気づくことなく、取るに足りない喜びに耽っています。

幸と不幸を見つめること

今日幸福をもたらした、まさにそのものが、翌日は悲しみを引き起こすかもしれません。幸と不幸は別々のものではありません。神性はその一体性にあります。人は、自分が切望しているものとは別のものを刈り取っています。それは、問題や出来事に対して、誤った取り組みをしているせいです! 皆さんは、自分が始めたことに対して、粘り強くあらねばなりません。そして、望みの結果を手に入れるまで身を引いてはなりません。だからといって、不正な行為に頼るなら、マイナスの結果を得ます。人間の、邪悪で、卑怯で、罪深い、憎悪すべき行いの原因は、人間の狂った思考です。それゆえ、狂った思考から離れ、永遠なる真理の原理を認識し、教育によって、必要な技能に加えて理知と識別心を育てなさい。

人間は、財産やその他のものによってではなく、自らの美徳によって輝きます。その燦然たる輝きは、美徳と純粋な理智と結びついています。「善良な道」とは、人間らしい特質を正しく活用することを意味します。近ごろ、人々は他人を支配することを強く望みます。人々は、よい衣服とよい仕事を熱望しますが、よい性質やよい生まれ変わりを望むことをしません。人々は、よい未来に向けて、きちんとした基盤を据えることができていません。そして、無益で種々雑多な日常仕事のために、いつも悲しみに浸っています。人々は自分の真の能力に見合った識別心と決意に欠けています。

学生時代は、必要な安全対策を始めるのにふさわしい時期です。私たちは今、本校に家政学を導入しています。家政学の必要性は何ですか? その効果は何ですか? 家政学という学問は、日々の雑務に関する効率的な生活の仕方を教えています。既婚女性たちは、「家庭の女神」(グリハラクシュミー)、「ダルマを守る妻」(ダルマパトニー)、「家庭の女主人」(イッラール)といった呼称を得た後、依存状態に留まって絶望しています。それは、成長しよう、能率を向上させようという態度で前に進んでいないからです。誰もが自立した生活を送る能力を持っており、自らの力と才能に基づいて成功を収めなければいけません。隷属者の態度を育ててはなりません。皮肉なことに、人々は高い学位を取得しても些細な問題を解決することができません。

バーラタのヴィッディヤーとは何か?

バーラタの「ヴィッディヤー」(教育)は、真の意味でのアートマの至福、真の意味での自信、真の意味での自利について教えます。これがバーラタ文化です。この種の文化は政府の規則や規定で作られるものではありません。取るに足りない安楽を欲しがる人々は、無学な者と呼ばれてしかるべきです。

「ヴィッド」 + 「ヤー」 = 「ヴィッディヤー」

「ヴィッド」〔知る〕は「輝き」を意味します。「ヤー」は「〔〜する〕もの」を意味します。ですから、「輝きと技を授けるもの」が「ヴィッディヤー」(教育)と呼ばれるのです。学生を無知で満たし、エゴの暗闇に溺れさせる教えは、何であれ「ヴィッディヤー」とは呼べません。バーラタの「ヴィッディヤー」は、甘美な言葉、楽天的な思考、明るい気質、という安全な道を敷いています。それは至福へと到る道です。

ラーマがシーターに「森について来ないように」と言ったとき、シーターは道理と公平の甘美な言葉の数々を語り、最終的に、森へ同行してラーマの試練と苦難を分かち合うことをラーマに承諾させました。本校の女子学生は、シーターやサーヴィトリーのような高潔な女性を見習わなければいけません。ラーマがついて来ないよう求めたとき、シーターは言いました。

「ああ、ご主人様! 父、母、義理の父、義理の母、その他の人々は、自分に頼るべしとされています。けれども、バーラタ女性は夫に頼りきっています。夫は妻にとって唯一の支えです」

どこにいようとも、神聖な兄弟姉妹のように生きなければいけません。学ぶべき余地は死ぬまであります。人々はそれを制限してしまっています。人々は図書館にある大量の知識を自分の小さな頭の中に投げ込んでいます。それでも、頭は空っぽのままです。

頭が空っぽであれば、頭を満たすことができる
すでにぎっしり詰め込まれた頭を、どのようにして満たすことができようか?
詰め込んだものを取り出さずに、頭を美徳で満たすことができようか?


何であれ、蓄えられたものは活用するためにあります。私たちがマインド(心、頭)に蓄えたものは、価値ある行為という形で活用しなくてはいけません。壇上で無意味な演説をするために使うべきではありません。

多くの人々は際限なく語ります。しかし、実際には何一つ行っていません。話すことにかけては英雄(ヒーロー)ですが、実生活では無(ゼロ)です。本校の学生たちはこの傾向とは反対であることを証明しなければいけません。

私は、私たちの男子学生、女子学生たちがこの教育機関を卒業した後、家庭と社会の発展における立派な道具となるよう祝福します。仕立て、植字、手工芸といった職業訓練の重要性を忘れてはなりません。そうした技能や、他の起業のための技能は、自立を確かなものにしてくれるでしょう。

十分な教養があり、利己的でないにもかかわらず、概してインド人は軽んじられています。それは、インド人に、ある種の技能と方法が欠けているからです。自分は弱い、自分は役に立たない存在だと考えるべきではありません。人々は祈りの中でこう言います。

パーポーハム パーパカルマーハム パーパートマ パーパサムバ
(私は罪深く、悪事を働く者であり、罪の中から生まれた)

これは間違った考え方です。

アートモーハム
(私はアートマである)

この種の考え方を育まなければいけません。たとえ困難を伴ったとしても、そうしなければいけません。皆さんは、いかなる種類の犠牲を払うためにも名乗り出なくてはいけません。皆さんは驚くべきことをやってのけることができます。皆さんは将来、高潔な任務に着手するための力と勇気を持つでしょう。教育機関は海のようなものであり、そこでは、寄せては返す波のように、卒業生は外へ出ていき、新入生が続々と入ってきます。波が静まったら海で泳ぎたいと望むのは、現実的ではありません。新入生は歓迎しなければいけませんし、卒業生も十分知識を身に付けた教師となって戻ってくるべきです。

あなた方全員が、賞賛に値する国民、賞賛に値する教師となることを祝福して、私の講話を終わりにします。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women's Role C11

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