サイババの御言葉:瞑想中の集中は神のヴィジョンへと導く

日付:1978年・場所:ブリンダーヴァン
第6回夏期講習における御講話より

瞑想中の集中は
神のヴィジョンへと導く


確信と信仰は両目のようなもの
もし持っていなければ盲人と見なされる
単に目に見えないからというだけで、神は存在しないのか?
神が見えない人にとっては、神は存在しないだろうが、
神が見える者にとっても、神は存在していないのか?

純粋なアートマの化身たちよ、

人が得て体験しなければいけない重要なものの中で、一番重要なものは神の恩寵です。神の恩寵によって、貴い英知を得ることができます。さらには、貴い英知を得ることによって、すこぶる平安に人生を送ることができます。生きとし生けるものは皆、自分が体験している神性の働きを認識する努力をしなければいけません。神の正しい側面を認識することも必要です。最初の段階では、顕現していない神の御姿に祈り、知ることは不可能です。ですから、1つの御姿を基盤にすることから礼拝を始めることが不可欠です。祈りの助けをもって、神の力を得ることへと進み、神の力をもって次の段階へと進むようにします。御名だけでなく、音(シャブダ)によっても神の存在を認識する努力をすべきです。

私たちはいつも「バガヴァン、バガヴァン」と言っていますが、「バガヴァン」(bhagavan)という言葉の意味を理解することも必要です。聖典は、「バガヴァン」の意味はパラマートマに由来すると教えています。ブラフマンとパラマートマに含まれているものは、「バガヴァン」という言葉にも含まれています。「バガヴァン」の1つの意味は「あらゆる繁栄に満ちている者」というものです。さらに、「礼拝することのできる者」、「礼拝すべき者」を意味するとも言われています。

「バ」(bha)という文字には他に2つの意味があります。それはサムバルタとバルタです。サムバルタという言葉は、「それを通して宇宙の起源を理解するよう努めるべし」という意味です。バルタという言葉は、「宇宙の重荷を背負っている者」という意味で、そのためにバルタと呼ばれるのです。

「ガ」(ga)という文字は、「バガヴァン」は「宇宙の始まりと維持と消滅を担う者」であるという事実を示しています。それゆえ、「ガ」の文字が含まれているのです。

「バ」(bha)には「光輝」や「明るさ」という3つ目の意味があります。

「ガ」(ga)は、それを背景として、その光輝や明るさを「広げること」を意味します。

「ヴァン」(van)という言葉は、「そうしたこと行う力量と能力を持っている者」という意味です。

それゆえ、「バガヴァン」は1つの相を指しており、その相によって「神は自らの光輝や明るさを広げるための能力を有する」ということを意味しています。神聖な言葉である「バガヴァン」には多くの内なる重要な意味がありますが、不幸なことに、人はそれを忘れて、単なる称号や儀礼として「バガヴァン」という言葉を使っています。神性の聖なる意味と聖なる相を理解するには、内観が必要です。内観をして、初めて自分の心(マナス、マインド)の性質を理解することができます。

心には、繰り返し幾度となく思考し続けるという特徴があります。心は、いつも、集まってくるもの、離れていくものについて考えているような存在です。これは心本来の性質です。思考を寄せ集めたり、分解したりしていないと、心は存在できないのです。思考が素早く連続してわき起こると、心はしばしば間違った道に進みます。そのような状態になると、心は大変混乱してしまい、定まりません。そうした混乱を克服したければ、いくらかの心の休息が必要です。心の平安が欲しいなら、心に休息を与えなければいけません。たまに心を休めることが必要なのは人間だけではありません。それは動物にも鳥にも、命の宿っていない機械にも必要です。心の休息を取らないと、生命が存続すること、人が生きていくことは、非常に難しいものとなります。この種の休息を得ることができれば、それがいくらかの平安と幸福をもたらしてくれるでしょう。

自らが持っている性質によって、心は風よりも速く動くことができます。スピードを出して走っている電車や車を止めたくなったら、ブレーキという装置を使います。同じように、自由気ままに動き回る心を止めたくなったら、集中や瞑想(ディヤーナ)という形をとったブレーキを使わなければいけません。もし心を制御しなければ、人は悪魔になります。もし心を制御しなければ、人は動物になります。ですから、心と感覚器官を制御することは不可欠です。制御を得ようとするとき、障害となって作用するかもしれない3つの状態があります。1つ目は「うつろな状態」です。2つ目は「雑念の状態」です。3つ目は「集中の状態」で、これは役に立ちます。まさにその性質上、心にはこれら3つの側面があります。

聖典を読みたくなると眠気に襲われ、ならば神聖な集まりに参加しに行こうとすると、心がそれを許さず、体は参加しに行っても、そこでも眠りの女神が邪魔をしてきます。これは「うつろな状態」を表現していると言ってよいでしょう。それに甘んじて寝て休もうとすると、今度はそれを邪魔する考えや思いが心を騒がせ続け、心を街路へと引っ張っていきます。これは「雑念の状態」と言われます。それより価値のある状態が「集中の状態」です。「集中の状態」になって物事に集中して他の2つの様相を忘れると、幸せになることができます。人が人として生きることを身に付けるには、これで十分です。人間らしく生きるには、神(マーダヴァ)になって神格のレベルに上がる必要はありません。集中という様相は学生にとって特に大切です。

集中力がないことが、世の中の多くの病気の原因です。そうした病気が学生の間で猛威をふるっています。ボンベイ大学で医者が学生たちを調べたところ、学生の89%が1つか、それ以上の病気にかかっていることがわかりました。ベンガル州では98%の学生が病気です。学生たちを見てみると、見た目は良くて、白鳥のようですが、健康は急速に悪化しつつあります。外見はとても健康そうに見えますが、実際にはまったく健康ではありません。学生たちは、様々なことで心を誤った道に行かせて、日に日に健康を害しています。学生の間で鈍性と雑念がますます日常のことになりつつあるのは、これが理由です。現代では、選択した1つの側面に集中することは、学生にとってとても必要なことです。

集中の価値を世の人々に示すには、すばらしい手本として牧女(ゴーピカー)たちをあげることができるでしょう。どんな仕事をしたときにも、どこへ行ったときも、牧女たちの心は完全にクリシュナに集中していました。牧女たちは心が別の方向に行くことを決して許しませんでした。牧女たちはいつも完全に心を制御していました。今、人の心は制御下になく、感覚器官も制御下になく、好き嫌いも制御下になく、空腹も制御下にありません。体はお寺の神様の前にいても、心はお寺の外に脱いできた靴のこと〔靴が盗まれていないか〕を考えていることはよくあります。このように、人はまったく価値のないことに集中を傾けています。

今、人々は瞑想に座りますが、ちょっと座ると蚊が飛んできて邪魔をして、心は蚊のほうを向いてしまいます。あるいは、背中に這い上がってきた蟻が心を攻撃することもあるでしょう。人の行動は状況に応じて変わります。瞑想したいと思ったときに座る部屋がキッチンの隣にあって、キッチンで奥さんが何かの野菜を料理していると、あなたの心は野菜に集中してしまい、野菜はよく揚げられているだろうかと考えます。外見は瞑想しているように見えても、思いは四方八方に向いて、取るに足りないことに惹きつけられます。

知識(ヴィッディヤー)と無知(アヴィッディヤー)はどうしてもたらされるのかを理解しなければ、物事を上手く行うことはできません。無知(アヴィッディヤー)が平安の欠如をもたらすように、知識(ヴィッディヤー)も、正確に理解しないなら、しばしば平安の欠如をもたらします。その一例があります。ナイフは、野菜を切ることや、善いことをするのに使うこともできれば、他人を害したり、困らせたりするのに使うこともできます。同じナイフが、人の考え次第で善くも悪くも使われるのです。それと同じように、身につけた教養を正しい道に沿って使えば、教養はあなたの友人となって、善い結果を与えてくれます。同じ教養も、正しくない使い方をされれば敵となります。ですから、学生は、自分が身につけた教育をどう使うことができるかを知るべきです。それゆえ、「ゆっくり着実に行えば必ず競争に勝つ」と言われているのです。学生は自分の本分をゆっくりと着実に行う努力をすべきです。

このように、牧女たちから学べることはたくさんあります。牧女たちが選んだ様々な道、牧女たちが使った言葉、牧女たちが行った仕事、これらすべてを学ぶべきです。牧女たちの有していた堪忍寛容を学ぶべきです。さらに、牧女同士の間に存在した姉妹のような関係を知るべきです。実際、大勢の牧女たちがクリシュナに手を伸ばそうとしていたなら、仲たがいや口論をするはずです。しかし、牧女たちの心には嫉妬のための場所はありませんでした。嫉妬心がなかったことは牧女たちの特徴です。現代では、ほんの小さなことについてさえ、かなりの嫉妬が見られます。誰かが1番を取ると、他の学生は妬ましく思います。自分が一所懸命勉強しなかったせいで1番を取れなかったにもかかわらず、自分以外の学生が1番を取ると妬ましく思うのです。それゆえ、『バガヴァッドギーター』の第8章で、クリシュナはアルジュナに「嫉妬深い人間になってはいけない」と言って戒めました。いつも人の欠点を見つけたいと思っているなら、それは嫉妬心に端を発しています。その病気は徐々に広がって、自分のグル(導師)や神の欠点さえ探そうとするようになるでしょう。嫉妬心は一度芽生えると限度も方向も見失います。嫉妬心はあらゆる方向に制限なく流れ込んでいきます。牧女たちにはまったく嫉妬心がありませんでした。1人の牧女がクリシュナとの別離に苦しんでいると、他の牧女は皆、その牧女を慰めにいきました。牧女たちは、

「私たちは皆、あなたの不安と別離を共にしていますよ」

と言って慰めました。そうやって慰めている間でさえ、牧女たちは、ゴーヴィンダ〔牛を守る者〕、ダーモーダラ〔腹に縄を巻かれた者〕、マーダヴァ〔マドゥの子孫、迷妄の支配者〕等々、クリシュナの御名を口にしていました。このように、牧女たちはいつもクリシュナ神のことを考えていました。普通の人が、どうやってそれほどの心の平静さ、堪忍寛容、嫉妬心のなさを身につけることなどできるでしょうか? 牧女たちは、前世で多大な善行をしていました。牧女たちの集中力は、実に模範的なものでした。牧女たちはクリシュナ以外のことは決して考えませんでした。恐ろしいものを見たときでさえ、まったくの平静を保っていました。ゴークラ村で牧女たちを非難しない人を見つけるのは困難でした。一般に、男性は女性を過小評価しています。女性の中に存在する神聖さを認識している男性はごくわずかです。

ある日、ゴークラ村に娘が嫁いできました。嫁の名前はスグナーといいました。スグナーを見るや、牧女たちはスグナーに、

「ゴークラ村に嫁いでくるとは、何と幸運なことでしょう。ここにいれば、クリシュナのそばにいて、クリシュナの栄光を歌うことができる機会が得られるのですから」

と言いました。貯水池でも市場でも、スグナーに会うといつも牧女たちはクリシュナのことを話して聞かせました。

ゴークラ村には、ある古くからの習慣がありました。今でもいくつかの村にはそうした習慣は残っています。毎晩、裕福な人の家のベランダに火が灯ると、村人たちが集まってきて、その火を自分の家のランプに移すという習慣です。ナンダは裕福であっただけでなく、自分の家に神がクリシュナの姿をとって生まれたのですから、村人たちはナンダの家でランプに火を灯せば、ナンダの幸運が分け与えられると信じていました。

嫁に来たスグナーも、家からランプを持ち出してナンダの家に火を灯しに行きました。その日の午後から、スグナーはクリシュナの住む場所に行くこと、クリシュナの住む場所を見ることができるその時間が来るのを心待ちにするようになりました。スグナーの心には神聖な想いしかありませんでした。スグナーの中でその想いが揺らぐことはありませんでした。

スグナーは神聖な想いを携えてナンダの家に着きました。スグナーはベランダに行ってランプを灯そうとしました。クリシュナを見ることができるかもしれないという希望を胸に、スグナーは家の中を見ていました。実に、スグナーの想いはすべてクリシュナに向けられていました。そのような想いに浸っていたとき、ランプの炎が大きくなってスグナーの手に触れました。スグナーはまったくそのことに気がつきませんでした。その時、スグナーはランプの炎の中にクリシュナの姿を見ました。クリシュナの姿を見て、スグナーはすっかり我を忘れてしまいました。スグナーは恍惚となって、ぼうっとしていました。その様子を家の中から見ていたクリシュナの母ヤショーダーが、あわててスグナーの手を炎から離し、そんなふうにぼうっとしていてはいけないと言って、スグナーを叱りました。叱られているときでさえ、スグナーの注意はランプとクリシュナの姿に向けられていました。

ヤショーダーがスグナーを引っ張ってランプから離しても、スグナーはランプに向かっていきました。ヤショーダーは状況を理解して、クリシュナがスグナーに神聖な御姿を見せているのだと察しました。ヤショーダーは急いで市場に行くと、何人かの牧女たちにスグナーがクリシュナのダルシャンを受けているのを見に来るようにと言いました。牧女たちは皆、走ってやって来てその場面を見ました。その瞬間に、牧女たちは我を忘れて、恍惚となって歌いました。

「私たちのスグナーに、クリシュナはダルシャンをお与えになり、スグナーはその御姿を見て我を忘れた。スグナーは手を火傷さえした」

スグナーがクリシュナ神のダルシャンを得られたのは、スグナーの集中によるものでした。何であれ何かに集中すると、それが心に刻まれます。牧女たちがそれほどの状況を体験したのは、集中していたからです。牧女たちはよく家の外で寝て自分の子供の面倒を見ることがありましたが、クリシュナ神の笛の音を聞くや、何もかも忘れて笛の音のするほうへ走っていきました。牧女たちは自分の行動に自信を持っていて、自分がすることは何であれ神聖なのだから、他人が何と言おうと気にしない、といった勇気がありました。並外れた自信があったために、牧女たちは神への想いに集中することができたのです。

人はいつも、世間は何と言うだろうかと恐れ、また、自分の考えが人と違うことを恐れています。善いことをするとき、世間を恐れなければならない理由などありません。あなたの想いはあなたのものであり、あなたの幸せはあなたのものであるべきです。多くの人は、寺院に行くとヴィブーティ(神聖灰)を付けますが、寺院から出るとすぐにそれをこすり取ってしまいます。友だちに笑われると思うからです。ヴィブーティを付ける勇気がないなら、どうして寺院に行くのですか? 「自分はお寺に行ってきた、自分には信仰心がある」と言うことをなぜ恐れるのですか? 「自分には信仰心がある、自分は他人の考えの奴隷ではない」と、どうして言えないのですか? 牧女たちの行動から学ぶことはたくさんあります。牧女たちの勇気と自信は、まさに手本です。ある程度の自信を持つことも必要です。悲しみであれ喜びであれ、負けであれ勝ちであれ、平静に向き合う勇気を持つべきです。

いくらか成功した人がいるとします。生きているうちは、この土地は自分のものだとその人は思っています。その人が死ぬと、息子がその土地を相続します。息子はこの土地は自分のものだと思います。もし経済的に困って土地を売れば、土地を買った人がこの土地は自分のものだと言います。さて、父親はこの土地は自分のものだと主張し、息子もこの土地は自分のものだと主張し、土地を買った人もこの土地は自分のものだと主張します。その土地は本当は誰のものなのでしょう? 土地は、それら一切を見て、自分は誰のものでもないと思います。人は来ては去ります。ですから、誰も土地を自分のものにすることはできません。牧女たちはいつも、自分の考えは自分のものなのだから、他人の考えである指図には従わないと思っていました。

女性について語るとき、人は女性は弱いものだと考えますが、それは違います。女性はシャクティ〔女神〕の化身です。『バガヴァッドギーター』には、神は7つの力となって女性の中に宿っているのに対して、男性の中には3つの力となって宿っているのみであると述べられています。そのように、女性には多大な神性が内在しています。このことを示す小さな例があります。この例を誤解したり、誤って解釈したりしてはいけませんよ。バーラタ(インド)全国には軍隊の指揮官がいて、大勢の兵士がその監督下にあります。指揮官が歩いてくると、兵士たちは文字通り震え上がります。指揮官は多くの人を恐れさせますが、自分の家に帰って、妻がいると震え上がります。

女性にはたくさんの力が内在しており、世界はその力のおかげで続いています。女性は大地で、男性は種のようなものです。大地がなければ種が芽吹くことはできません。地上の生命はすべて女性が招いたものです。偉大な人々、偉大な聖者、そして、偉大なアヴァター(神の化身)でさえ、女性が母親の役を担って助けを与えてくれたおかげで、この世に生まれることができたのです。このように、女性の力は本当にとても神聖です。牧女たちはまさに女性に栄光をもたらしました。忍耐力であれ、堪忍寛容であれ、友情であれ、牧女たちは模範となる行いを示しました。牧女たちが選んだ神聖な道を取るに足りないものと見なすことは間違っています。牧女たちによって、そして、ラーダーによって示された神聖な信愛は、いつの時代も理想の手本としてあり続けるべきです。ユガ〔時代〕は変わり、生活様式は変わったでしょうが、牧女たちの理想とクリシュナのリーラー〔神聖遊戯〕は時の試練に耐えて、ずっと新鮮なままです。

こうした牧女たちの行為はすべて、ブラフマン〔神〕に関するジーヴァ〔個々の生き物〕の行為です。その内的意味は、人の心はブリンダーヴァンであり、そこに浮かぶ考えは牧女たちであるということです。ジーヴァはラーダーであり、アートマはクリシュナです。このように、ハートというブリンダーヴァンで、ラーダーの姿をとったジーヴァが、牧女たちの姿をとった考えを持って、アートマといっしょにリーラー〔神聖遊戯〕をしているのです。ブリンダーヴァンはどこかにあって、クリシュナのリーラーはそこでなされたと考えてはいけません。自分のハートはブリンダーヴァンで、自分はラーダーだと思って、あなたを主クリシュナに全託しなさい。あなたの想いは牧女たちの想いのようでなければいけません。神聖でない不純な考えをあなたの心に入れてはなりません。もしこのようにして自らを作り上げるなら、学生たちはこの偉大な国の古代の栄光をよみがえらせることができるでしょう。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1978 C18

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