サイババの御言葉:神は最小のものより小さく最大のものより大きい

日付:1979年・場所:夏期講習
第7回夏期講習における御講話より

神は最小のものより小さく最大のものより大きい


最も小さなものより小さく、最も大きなものより大きく、
一切に遍満するブラフマンは、一切の照覧者としてとどまる
ブラフマンはアートマなり
アートマはブラフマンなり


愛の化身たちよ!

宇宙に始まりはなく、宇宙の中には無限の数のジーヴァ(生き物)が住んでいます。その中で最も地位の高い生き物は人間です。はるか昔より、人間は神を知るための努力を重ねてきました。神は存在すると断言する者もいれば、神の存在を否定する者もいました。けれども、有神論者も無神論者も自分の主張の証拠をあげられずにいます。

インド人のなかには、「神はシヴァ、すなわち、ナンディ〔シヴァ神の乗り物である聖なる雄牛〕にまたがる者である」と言う者もいれば、「神はヴィシュヌ、すなわち自らの乗り物であるガルーダ(聖なる鷲)と共にいる者である」と言う者もいます。さらには、「それらは間違った話であり、聖典にかけて誓うが、神は軽いので天界に住んでいる」と主張する者もいます。

場所と時間と各自の体験をもとに、人々は至高神の概念を多種多様に発展させてきました。その困った状況を見て懸念したクリシュナは、『バガヴァッドギーター』の中で、

アノーラニーヤーン マハトー マヒーヤーン
〔最も小さなものより小さく、最も大きなものより大きい〕

という、たいへん的確な神の描写を授けました。これは言い換えるなら、神はあらゆる場所に存在し、極小と無限大の両方の姿をとって顕現するということです。

最も小さな原子の粒子よりも小さなものである神を見ること、あるいは、全宇宙を包み、さらには全宇宙よりも大きく広がる計り知れない神性を知覚することが、人間に可能なのでしょうか? その答えは、不可能と言わざるを得ません。なぜなら、自分の周囲に存在する空気さえ見ることのできない人間が、空気より微細な神性を知覚する術を得ることなど、なおさら無理なことです。また、広大な宇宙には太陽よりも巨大で互いに遠く離れて存在する星が無数にありますが、それほどの宇宙の拡張を上回ってすべてに遍満するブラフマンの無限大の大きさを正確に計ることなど、人間にはできないからです。

「アノーラニーヤーン マハトー マヒーヤーン」〔最も小さなものより小さく、最も大きなものより大きい〕という、人間の一般的な理智の理解を越えたところにある神性の2つの様相を人間に真理を教えるために、神はアヴァター〔化身〕となって地上に現われます。クリシュナ アヴァターにおいて、神はアルジュナを全人類の代表としてとどめ置き、『バガヴァッドギーター』を通じて、そういった永遠の真理を説きました。クリシュナは、「宇宙を上回る完全なる闇が存在し、その闇を上回る真理が存在する」と述べました。その闇は激性と鈍性の領域から成っています。その闇を越えたところに、真理と光の領域である、浄性の領域があります。

「真理は神なり」と言われています。しかし、真理を認識するためには、激性と鈍性の領域を越えなければなりません。瞑想はその超越を達成するための方法です。

瞑想について、クリシュナは2つの重要な指示を与えました。それは、食事を控えめにすることと、規則正しい生活です。

ユクターハーラ ヴィハーラッスヤ
(食事と楽しみに節度を設けよ)

〔バガヴァッドギーター6章17節より〕

とクリシュナは述べました。ここでのユクターハーラとは、食物をまったく口にしないということを言っているのではありません。なぜなら、断食は肉体の衰弱と精神の疲弊につながるからです。仏陀の体験はこのことを大変よく示しています。苦行の最中、仏陀は最初、何日か食を断ちました。それは肉体と精神のエネルギーの消失という結果を招きました。苦行が功を奏するには健康な体と健全な心が必要不可欠な条件であるとわかった仏陀は、近くの村を訪れ、カード〔凝乳〕を食べて飢えを満たしました。その日以来、仏陀は毎日少量の食事を口にしました。それによって、仏陀は楽に瞑想をすることができるようになり、真理を悟りました。

このように、効果的に瞑想をしようとするなら、適量の食事、正しい種類の食事が必要です。食べすぎは眠気へとつながるので避けるようにしなさい。胃を4等分したと考えて、4分の2を固形物で満たし、4分の1を液体で満たし、残りの4分の1は空にしておくというのが正しい食べ方です。胃を固形の食物だけで満たしてしまうと鈍性が増し、瞑想の大きな妨げとなります。

睡眠不足も瞑想の妨げとなります。寝不足は激性を強め、人を健全でない考えや感情でいっぱいにさせます。

最近人が食べている食べ物は本質的に激性と鈍性です。人々の心に残酷さと不安があるのはそのためです。人々の体も健康ではありません。現代では、60歳の人がかかるような体の症状を、16歳の少年がこうむっています。これが若者たちの嘆かわしい状態です。それでどうやって瞑想の至福を体験することができるでしょうか?

ですから、誰もが内省して、自分はどのくらいの時間を束の間の物質的快楽を追い求める狂った競走に費やしているか、どれくらいの時間を神を想うことに充てているかを知ることが不可避です。現代の快楽主義者は、神性を黙想するための時間をとっておくことができません。天国の門は、折々に神を想うことができた場合に限り開かれます。しかしながら、どの人も、自分の子供、友人、身内、お金、物質的な所有物のことで頭がいっぱいです。このように、人は霊的な体験の至福を拒み、世俗の一時の快楽を追い求めることに没頭しています。ですから、人は自分の目を、束の間の喜びの世界から、内なるアートマの至福へと向け直さなければいけません。

パタンジャリが自著の『ヨーガ スートラ』の中で勧めているヨーガの8部門〔八支ヨーガ、アシュターンガ ヨーガ〕の階梯の最後の3つの段階は、ダーラナ〔集中〕、ディヤーナ〔瞑想〕、サマーディ〔三昧〕です。このように、瞑想の前に集中が来ます。これは、瞑想の目的地に心を定め、瞑想に必要な準備を事前に整えるということです。

瞑想には楽な姿勢をとるようにします。一般的には、手をチンムドラーの印〔親指と人差し指の先を付けて他の三本の指から離す印〕に結び、足を組んで、柔らかい革か布を敷いた木の板の上に座ります。これだけですが、これらは瞑想に不可欠な要素です。瞑想は神と自分を徐々に一体化していく作業で始まり、サマーディへ〔三昧〕と導きます。

サマーディ〔三昧〕は瞑想が成就に到った状態です。サマーディの状態において、人は、相対関係という物質世界、主幹的な自己観念、さらには、自分がしている行為そのもの(瞑想)さえも越えて上昇します。サマーディというのは、意識を失った状態のことでも、感情的に高ぶって体を震わせることでもありません。サマーディという言葉自体に、その意味が示されています。「サマ」は「平衡」、「ディ」は「知性」です。サマーディは知性の平衡状態であり、そこで人は二元の世界を越えて、神と交わる至福を体験します。

神は人間を見て、一見して人が理解できていないことをよく理解できるよう助けるために、そして、達成できていないことを達成できるようにさせるために、人として化身します。しかし、無限で不変なる内在の神が、化身することによって減少をこうむることはありませんし、人間の枠の中に入って化身しても、人間が普通こうむる汚れや傷を負うこともありません。

海は広大で計り知れませんが、海水の味を知るのに海の水を全部飲む必要はありません。数滴あれば十分です。それと同様に、人の姿をとった神を理解吸収して体験した人は、不変不滅の無形なるブラフマンも理解吸収して体験しているのです。

神が化身する意味をつかむには、激性と鈍性の上に昇ることが不可避です。浄性だけが、真の信愛の道を通じて人を神の蓮華の御足へと導きます。激性と鈍性を取り除いて浄性を高めるには、好ましい環境と、善人との交わり(サットサンガ)が不可欠です。

人の精神構造は、すぐ身の回りの様子で判断することができます。たとえば、自分の部屋にところせましと家族や友人や政治家の写真が飾ってある人は、激性に支配されていることが一目瞭然です。そういう人は、人間関係を過度に重視して、この世の権力とお金を崇め、神は二の次です。同様に、部屋がいやらしい卑猥な写真でいっぱいであれば、その人は鈍性です。どちらの部類の人も、神聖な瞑想の道を歩むには適していません。第3の部類の、神や聖人の写真や絵を部屋の壁に飾って自分の部屋を寺社に変えている人は、言わば浄性の人であり、当然ながら瞑想に取り組む資格がある人です。

絵や写真や映像、そして、人物は、人の心に消えることのない印象を強く残し、相当な影響を及ぼします。あるとき、モーハンダース・カラムチャンド・ガンディーは母親といっしょにハリシュチャンドラ王の生涯を描いた劇を観にいきました。比類なき真実の実践者としてのハリシュチャンドラの肖像は、若きガンディーに多大なる影響を与え、ガンディーはその帰途に自分は一生真実を守ると決心したほどでした。その理想はその後、生涯を通じてガンディーにとってのかがり火としてあり続けました。そして、断固として真実を守ったことによって、ガンディーはマハートマ〔偉人、人格者、偉大な魂の持ち主〕と認められるようになりました。

同様に、ラマナ・マハルシも実体験によって自分の心を決めました。ラマナ・マハルシは毎晩、長い時間、一心に、ある星を見つめました。これはラマナ・マハルシの集中力を高め、瞑想に取り組むための素地を作りました。

瞑想をする上で心の純粋さは必要条件ですが、落ち着きもそれと同じくらい不可欠です。落ち着きのない心は、集中と瞑想のどちらの作業にも妨げとなります。心は睡眠によって休息を与えられる必要があります。シャンカラーチャールヤは、睡眠をサマーディにたとえました。もっとも、サマーディはずっと大きな歓喜と内的融和をもたらしますが。心を油断のない状態にさせて、いつでも瞑想できるようにするためには、十分な睡眠が必要です。

至高神へと到る一本道は3つあります。1つ目は、すべての行為を神に喜んでもらうための捧げものにするという精神で行うことにあります。2つ目は、行為の果報を求める気持ちを捨てることです。3つ目は瞑想の作業を通じて自分と神を一体化させることです。すべての行為を神に捧げることは英知を授けます。行為の果報への欲を捨てることは心の静寂を授けます。瞑想も内なる平安を確実にします。

瞑想は、歳をとっている人も、若い人も、無知無学な人も、賢い人も、健康な人も、虚弱な人も、誰もが行うことができます。瞑想をするために必要な体力と精神力を持っていない人には、普遍的な愛を培うことが瞑想と同じ効果を生みます。3つの道はどれも、同じ目的地につながっています。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1979 C16

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