サイババの御言葉:4つの意識状態

日付:1979年・場所:夏期講習
第7回夏期講習における御講話より

4つの意識状態


ブラフマーは、肯定的な同一視と描写を拒む者
否定と拒絶によってのみ示される者
永遠にして無限なる者
実在、純粋意識、至福なる絶対者

すべてに遍満する者であるブラフマンは、動くものと動かないものとで成る全宇宙に浸透しています。すべてを包み込んでいるブラフマンは、原初の言葉オームという形をとりました。至高のパラブラフマンの中には分離不可能な4つの要素が存在します。それは、ヴィシュワ〔目が覚めている状態での真我〕、タイジャサ〔夢を見ている状態での真我〕、プラグニャー〔熟睡状態での真我〕、トゥリーヤ〔熟睡状態を超越した状態での真我〕です。

ジャーグラタ アヴァスターという「目が覚めている状態」は、普通の意識状態で、粗雑な物質世界と関係しています。この意識状態は、感覚と知覚を通して得られる現象界の経験的知識をもたらします。この意識状態は、さまざまな知るための手段を有しています。それらは、5つの行動器官(カルメーンドリヤ)、5つの知覚器官(グニャーネーンドリヤ)、5つの生気(プラーナ)、心(マナス、マインド)、理智(ブッディ)、意識(チッタ)、エゴ(アハンカーラ、自我意識)から成り立っています。「目が覚めている状態」(ジャーグラタ アヴァスター)では、これら感覚的あるいは知覚的知識の19の側面が結びつけられています。物質世界の喜びを渇望するのは基本的にこの知識です。

スワプナ アヴァスターという「夢を見ている状態」の意識は、神聖さと神性の聖なる体験にうすうす気づいて認識する潜在意識の機能を有しています。この意識状態は、人の知識と体験の、より微細な側面に関係しています。この意識状態は、「目が覚めている状態」(ジャーグラタ アヴァスター)での体験よりも微妙な印象を伴います。

プラグニャーとトゥリーヤ アヴァスターは別の特性を帯びます。プラグニャー アヴァスターは「超越状態」の意識で、そこでは粗雑と微細という二分は超意識の中に消え去ります。この意識は、純粋なプラグニャー、すなわち神性意識です。「超越状態」(プラグニャー アヴァスター)では、心が持っている区別する機能、多様化する機能は働かなくなります。「プラグニャーはブラフマンなり」と言われているのはこのためです。人がこの神性の頂点に到達するのを助けるために、クリシュナ神は『バガヴァッドギーター』の中で、ディヤーナという霊性修行、すなわち、瞑想の道を詳説しました。「超越状態」(プラグニャー アヴァスター)では、あらゆる世俗的な欲、世俗的な夢を叶えたいという願望は、霊的な体験の至福へと昇華されます。プラグニャーの柔らかな光は、このより高い意識状態で安定して輝きます。

トゥリーヤ アヴァスターは「最高の意識状態」で、そこではアートマ〔真我〕の根本的な本質が体験されます。霊性修行者はここで、平安(シャーンタム)、善(シヴァム)、不二一元(アドワイタム)を体験します。「最高の意識状態」(トゥリーヤ アヴァスター)は、純粋で、静かで、安定した超意識の状態で、そこでは、識別するグナ(属性)、区別するグナの一切は、ブラフマンという永遠なる絶対実在の中へと超越させられ、溶かされます。

オームカーラ〔オーム〕は、3つの原初の音である「A」〔アカーラ〕「U」〔ウカーラ〕「M」〔マカーラ〕の融合です。この3文字はそれぞれ、ジャーグラタ〔目覚めている状態〕、スワプナ〔夢を見ている状態〕、スシュプティ〔熟睡状態〕の意識状態を表しており、さらに、ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラの象徴でもあります。この三位一体の神は、前述の3つの意識状態に符合する実在の権化を表しています。数珠には糸が1本通っていて、数珠球を1つにつなげています。それと同じように、すべてのジーヴァ〔生き物〕にはブラフマンが通っていて、ジーヴァたちに相互依存と相関をさせています。

サークシャートカーラ〔真我顕現、自己実現、悟り〕とは、ブラフマンの絶対で最高の完全なる実体についての、直接的で深い一元化をもたらす理解です。それは心と空間と時間を超越した神秘的な経験です。瞑想はサークシャートカーラの助けとなるものです。目は自らを見ることができません。同様に、アートマも自らを見ることができません。海の深さを測ろうとして、塩で作った人形を海に沈めれば、人形は海の水に溶けてしまい、もう元には戻りません。それと同じように、パラマートマを探し求めるジーヴァは、自らの個別性とジーヴァとしての自己認識を失います。ブラフマンは深さを測りきれない海です。ブラフマンを探し求めるジーヴァはブラフマンと1つになります。アートマとパラマートマは存在論的にまったく同一であり、不二一元です。アートマとパラマートマは最も高い意識状態の2つの相であるのみです。

瞑想において、心(マナス、マインド)、理智(ブッディ)、さまざまな感覚器官(インドリヤ)は、自制という方法によって超越されます。あらゆる二元性、二分、違い、相関性は、瞑想の超意識の状態の中で消え失せます。「瞑想」と「一元化をもたらす至高神についての知識」は、同義語です。瞑想は、ディヴィヤダルシャナ〔神聖なダルシャン〕であり、神のヴィジョンであり、神への道です。瞑想は、サット・チット・アーナンダ、すなわち、実在・意識・至福が統合された実体へと導きます。瞑想は、永遠に続く至福(ニッティヤーナンダ)をかなえ、真我の至福(アートマーナンダ)を授けます。瞑想は、人が至高の至福(パラマーナンダ)と不二一元の至福(アドワイターナンダ)に達することを助けます。

クリシュナは「アハムアートマー グダーケーシャ」〔私は真我である、アルジュナよ〕と言いました。フルシーケーシャ〔感覚器官の主〕であるクリシュナは、グダーケーシャ〔眠りを克服した者〕であるアルジュナに説きました。フルシーケーシャは、すべての感覚器官を司る者、クリシュナ神です。アルジュナは、感覚器官の制御を果たした者(グダーケーシャ)です。感覚器官の制御を果たした者(グダーケーシャ)は、感覚器官の主(フルシーケーシャ)の弟子です。感覚器官の主は至高のグル〔導師〕であり、感覚器官の制御を果たした者はその弟子(シシヤ)です。クリシュナは至高のグルであり、アルジュナはその誠実な弟子です。アルジュナは理想の人間(ナローッタマ)であり、クリシュナは至高のプルシャ(プルショーッタマ、神)です。現代には、善いグルはいるかもしれませんが、誠実な弟子はいません。これは人間へのカリの時代の影響です。人々はクリシュナ神の御名を憶念して繰り返しますが、クリシュナ神の教えを実践しません。

昔、一人の気高いグルがいました。そのグルには一人の弟子がいました。ある日の午後、グルはどこかに出かけ、熱い日射しが照りつける中、戻ってきました。その時ちょうど弟子はグルへの礼拝をしていました。グルは強烈な太陽の下に到着しました。グルの素足は熱い地面を歩いたために焼けていました。グルは弟子に、

「ドアを開けて、私を中に入れなさい」

と言いました。その時グルの108の御名を唱えていた弟子は、

「礼拝の最中に邪魔が入ってはなりません」と言いました。

弟子は礼拝が終わるまでドアを開けませんでした。グルは哀れにも弟子が礼拝を終えるまで熱い太陽の下で立っていなければなりませんでした。

現代では、これと同じような愚かな弟子が大勢見受けられます。グルに痛みをもたらす原因となるような礼拝が何になりますか? クリシュナの教えを気にとめることなくクリシュナを礼拝している信者が大勢います。

人は誰もが、万物にとっての一なるパラメーシュワラ〔全知全能の至高神〕が存在するのみである、という真理を認識しなければいけません。神はさまざまに理解されるかもしれません。ブラフマンは属性を持つ者(サグナ)かもしれませんし、属性を持たない者(ニルグナ)かもしれません。サグナブラフマンは属性を持つブラフマンであり、ニルグナブラフマンは属性を持たないブラフマンです。布と棉に本質的な違いがないのと同じように、この2つに本質的な違いはありません。属性を持たないブラフマンは派生物である布のようなものであり、属性を持つブラフマンは基本物質である綿のようなものです。属性を持つブラフマンと属性を持たないブラフマンは実在の2つのレベルであるにすぎません。

プリズムに当たった光線は光が分けられ、その結果、私たちはスペクトルの多彩な色を見ることができます。スペクトルの色は多彩ですが、光はただ1つです。同様に、究極の実在にはさまざまな名前と姿があるかもしれませが、ブラフマンは一であり、その現われは多です。

霊性修行者は瞑想中にさまざまな類の体験をするでしょう。神に心を奪われているときに、さまざまな音が聞こえてきます。感覚を越えたある種の知覚を持つようになり、ヴィーナや両面太鼓や横笛などの音が聞こえます。甘美な調べは無形の神(サカーラブラフマン)を象徴するものです。これらは瞑想の最初の果報です。瞑想の準備段階では、すべての感覚器官が過敏になります。その鋭い感度は、霊性修行者が非凡な光景や音に応じることを可能にさせます。だんだんと、その過敏性の能力、すなわち非凡な知覚は、声なき声を聴くという最も高い能力へと発達します。音なき音(ニシャブダ、声なき声)の中には音(シャブダ)があります。それはイーシュワラ〔至高神〕のプラナヴァ〔オーム〕という原初の音です。霊性修行者は、オームという原初の声が、繰り返し繰り返し響いているのが聞こえます。霊性修行者は、言葉では言い表せず、説明できない、超意識のトゥリーヤ状態〔最高の意識状態〕の至福を体験します。

深い瞑想に入っている間、自分の体が非常に重くなり、自由に体を動かせないと感じる霊性修行者もいます。あるいは、体が極端に軽くなって空中に浮かんでいるような感覚を体験する者もいます。あるいは、揺れたり震えたりする感覚を持つ者もいます。頑強で心の定まった霊性修行者は、こうした尋常でない体験によって狼狽することはないでしょう。そして、その奇想天外な体験に妨げられることなく、自らの霊性修行を継続していくでしょう。

ラーマクリシュナ・パラマハンサは、これらの瞑想の段階を、有形(サカーラ)から無形(ニラーカラ)まですべて体験しました。ラーマクリシュナが霊的進化を遂げている最中に、母なる神がカーリー女神の姿をとって目の前に顕れました。しかし、アートマは無形です。それゆえ、霊性修行者は、御名と御姿を振り切って無形のブラフマンを体験するために尽力するようにと勧められるのです。姿形も属性も持たない絶対なるブラフマンは、この上ない霊的な恍惚感を与えてくれます。霊性修行者は、無属性のブラフマン(ニルグナブラフマン)の天啓によって、うっとりと恍惚となり、完全な至福を味わいます。瞑想によるこうした超意識状態は、あらゆる二元性を超越します。それは一元化をもたらすブラフマンの知識を得ている状態です。それは永遠に続くものであり、あらゆる属性と感情を超越しています。

初心者は有形のブラフマン(サグナブラフマン)を瞑想することから初めなければいけません。あらゆる制限を守らなければいけません。自分の霊性修行を、規則正しく、時間どおりに行うようにしなさい。若い苗木は動物たちから守らなければいけません。大きな木に成長するまで周囲に柵を置いておかなければいけません。巨木になれば柵は不要になります。同様に、霊性修行の初心者には規則と規制が必要です。霊性修行の上級者は外的な支柱に頼る必要がありません。そのような人は、自分が入りたいときにいつでも忘我の境地に入ることができます。瞑想は、自然に入れるもの、習慣的なものになります。

瞑想(ディヤーナ)はダーラナとは区別されるべきです。ダーラナは単なる集中です。集中の第一段階の次には、黙想と没頭が来るべきです。没頭は瞑想へとつながります。瞑想は特定の宗教の独占品ではありません。瞑想は、一元化をもたらす至高神の知識を手に入れるための、普遍的で実用的なプログラムです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1979 C18

<<SSOJ Topページへ <<サイババの御言葉メニューへ