サイババの御言葉:心の制御

日付:1979年・場所:夏期講習
第7回夏期講習における御講話より

心の制御


至福は、魂〔アートマ〕を知ったときの体験
真理を知らないままでいるなら、それこそが苦痛
神を知る者は、まことに神となる

神聖アートマの化身である皆さん!

クンダリニー シャクティ〔とぐろを巻いた潜在力〕は、人の臍の下のムーラーダーラ チャクラ〔体の根を支える中枢〕で眠った状態にあります。クンダリニーを目覚めさせるためには瞑想(ディヤーナ)に取り組むべきです。目覚めたクンダリニーは、ムーラーダーラ チャクラから、スワーディスターナ、マニプーラ、アナーハタ、ヴィシュッダ、アーグニャーというチャクラを通って、サハッスラーラ チャクラ〔頭頂にある千の花びらのある蓮の花の中枢〕へと向かっていきます。

蓮華座(パドマアーサナ)を組んで座り、頭と首と背骨を1本の線のようにまっすぐになるようにします。これは言わば、クンダリニーの力の移動が、妨げられることなくスムーズになされるようにするためです。瞑想中は視線を眉間に定めるべきだという意見の人がいますが、『バガヴァッドギーター』は、鼻先(ナーシャーグラ)に視線を定めて、ハートに住まう主なる神を黙想するようにと勧めています。瞑想の真の歓喜を体験するには、目を完全に閉じてしまわないようにします。目を閉じると眠気(ラヤ)が引き起こされるからです。目は半眼にしておくようにします。そうしておけば、激性と鈍性を根絶する助けになります。

新たに瞑想の道に入った人がしばしば体験することですが、心が静まらないために瞑想の至福を十分に味わうことができない場合があります。心が、外の世界、そして、あらゆる空想や誘惑と、密接に結びついていた結果として、心は自らを瞑想という目的に定めることができないのです。ですから、瞑想で最初になすべきことは、心の制御を通じて思考を望ましい方向に正しく向けることです。

実習は人は完璧にさせます。歩くことや読み書きといった最も一般的で習慣になっているような行為においてさえ、完璧さを手に入れるためには地道な実習が必要です。瞑想の作業も同じです。たゆみなく、まじめに実習することが必要とされます。

心の制御の第一歩は、この世は束の間のものであり、それゆえ、この世で得る喜びは一時のものであるという事実を心に刻むことにあります。五感の喜びは満足を与えてはくれません。五感の欲望は、満たされれば満たされるほど数と激しさを増していきます。薪を投げ込めば投げ込むほど火が勢いを増していくのと同じです。

心それ自体には独自の実体はありません。心は衝動から芽生えてくる欲望の寄せ集めです。布は要するに糸の束です。糸は元々は綿です。同様に、欲望は元々の衝動から生じ、心はそれらの欲望で形成されています。布は糸を1本ずつ引き抜いていけばなくなってしまうように、心も欲望の根を抜き取っていくことで消滅させることができます。

ハートは空に喩えられます。心は月に、理智は太陽に喩えられます。心で生み出される思考は、通り過ぎていく雲のようなものです。人の幸不幸や苦楽の原因は思考にあります。しかし、幸不幸や苦楽といった対の観念は、二元性の世界でのみ関連性を得るものです。カメラが写真に写すのはカメラが焦点を合わせた印象であるのと同じように、心は心が向けられた印象に夢中になります。心は、五感の喜びの世界に向けられれば向けられるほど、人を神から引き離します。『ラーマーヤナ』の中のあるエピソードはこのことを明らかに示しています。

主ラーマに付いていったシーターは、完全に世捨て人になった気持ちで森へ行きました。ところが、シーターは森で金色の鹿に魅了され、その鹿が欲しくなりました。シーターはその欲望によって主ラーマと引き離され、ランカーで辛い思いをしなければならなくなりました。

シーターは母なる大地の神の娘です。シーターは森にいた黄金の鹿は本物ではないということをよくわかっていました。けれども、シーターは、世俗の物を欲しがる心が作りだす危険を人間に警告するために、この劇を演じることを選んだのです。

ですから、瞑想中、空想にふける心の気まぐれに引っ張られないようにしなければいけません。瞑想の求道にはハートの純粋さが不可欠です。同一のアートマがすべての生き物を動かしているということを実感認識すべきです。他人の悲喜を自分のことのように共にすべきです。こうした霊的な共感を育むと、瞑想の求道を通じて神性に到達するにふさわしい者となります。

人間の偉大さは、これみよがしに着手する大きな仕事の中に現れるのではなく、まったくの誠実さと広い心で果たした小さな行いの中に示されます。自分が行う小さな仕事の一つひとつを、神へ捧げる気持ちを持って、神聖なものとするよう努めなければいけません。

人間のみじめさの原因は何でしょう? 悲しみは人間にとって自然なものでしょうか、それとも、人為的なものでしょうか? 悲しみの根本的な原因は無知です。無知から執着が生じ、それが、また生まれ変わってくることにつながります。これが悲しみの直接の原因であると言うことができるでしょう。ですから、無知を取り除いて悲しみを避けるよう努力しなければいけません。悲しみは人間にとって自然なものではありません。もし自然なものであったとしたら、悲しみを取り除くことは人間性の根絶へとつながることになります。揺りかごの中で赤ん坊が喜んではしゃぐのは、喜びが人間にとって自然なものであるという事実を示しています。赤ん坊が揺りかごで幸せそうに遊んでいるときには、母親はそれに気をとめることもなく家事を続けます。しかし、突然赤ん坊が泣き出せば、家事を中断して揺りかごに走っていって、蟻か何かの虫がたかって我が子を泣かせたのではないかと虫を探します。

人は幸せそうな人にはどうしたのかと尋ねることはありませんが、困っている人には悲しんでいる理由を尋ねます。実に、喜びは人間にとって自然な状態であり、悲しみは不自然な状態です。人生は喜びと幸せを発していなければいけません。そうは思わないなら、それは無知である結果です。人は鍛錬のための一定の決まりを守ることによって、人生の真の性質と人生本来の神性を認識して表さなければいけません。

クリシュナはアルジュナを通して全人類に真理の道を説きました。「アルジュナ」には、「純粋」、「清らか」という意味があります。アーンドラ プラデーシュ州にはシュリーシャイラムという名高い巡礼地があります。そこには、イーシュワラ神と妃のパールヴァティー女神を、マッリカーアルジュナとブラマラアンバーとして祀る、大きな神社があります。この2つの御名の内なる意味をつかむなら、人生の内なる意味を理解することができます。「マッリカー」は「ジャスミン」、「アルジュナ」は「純粋」、「白」を意味します。世界の「母」〔「アンバー」〕であるパールヴァティー女神は、「ブラマラ」すなわち「黒蜂」に喩えられます。このように、黒蜂のごとき母なる神は、清らかな白いジャスミンにも似たイーシュワラ神のハートの中に入って、愛の甘露を飲みます。人の心という蜂は、ハートという花に入って、イーシュワラ神がその中に置いた恩寵という甘露を飲まなければいけません。

しばしば私たちは、1つの理想として「人類は皆兄弟である」ということに言及します。しかし、兄弟喧嘩をして最高裁判所にまで持ち込む兄弟もいます。魂〔アートマ〕は1つであると認識することは、人類は皆兄弟であると認識することよりも高い理想です。ですから、求道者は、人類は皆兄弟であるというレベルを越えて、体験を通じて同一のアートマがすべての生き物に宿っていることを実感認識するよう努力しなければいけません。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1979 C21

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