サイババの御言葉:ジョーティ メディテーション(光の瞑想)

日付:1979年5月25日
瞑想に関する御講話より

ジョーティ メディテーション(光の瞑想)


神聖なアートマの化身である皆さん、

心〔マインド、マナス〕に仕事を与えて常に忙しくさせておけば、心に煩わされることはなくなります。猿には木に登ったり降りたりを繰り返す習性があります。これは猿の落ち着きのない性質のためです。猿を一箇所に置いておくと、じっとしていられずに、悪戯をするようになります。そのため、猿を連れて回ってお金を乞う猿まわしは、家々の前で猿に棒の登り降りの芸をさせるのです。それと同じく、心は狂った猿のようなものです。ですから、「猿の心」(モンキーマインド)を夢中にさせる仕事をあてがわなければいけません。

瞑想(ディヤーナ)の初歩の段階であれば、瞑想に座ったとき、猿の心は制御された状態にありませんから、あなた自身が猿の心を監視する役を担わなければいけません。猿の心は、吸うときは「ソー」〔神〕、吐くときは「ハム」〔私〕という呼吸に注目し、誰が入って来て誰が出て行くかをじっと見つめます。この呼吸のプロセスが続く間、猿は息が出たり入ったりするのを見るのに忙しくしています。この作業を5分ほど行うことによって、猿の心は制御下に入ります。この方法で5分間心を呼吸に集中させたら、目の前に置いた、あなたのハートが愛情を寄せるものの御姿、あるいは、炎を見ます。しっかりと目を開けて、炎をじっと見つめます。それから、目を閉じて、あなたが目を開いて見つめていた炎があなたの中で燃えているのを思い浮かべます。ここでも、その作業に集中することで心を忙しくさせます。それから、炎をハートの奥に安置するよう心に命じます。

炎がハートの蓮の花の中で明るく光を発して輝いているのを思い浮かべます。それから、炎は体中を移動して、手足、お腹、目、口、耳、体の各部を照らします。炎が体全体を通過したら、今度は体の外に炎を持っていきます。炎があなたの家族全員を明るく照らしているのを思い浮かべます。炎があなたの隣人たち、地域の人たち、そして、あなたの友人たちを明るく照らしているのを思い浮かべます。のちの段階では、敵の中にさえこの炎が明るく輝いているのを見るようにします。それから、

イーシャー ヴァースヤム イダム サルヴァム
(万物に神が入り込んでいる)

です。あなたの目の中で炎が明るく輝いているために、悪い光景が目に映らなくなります。

タマソー マー ジョーティルガマヤ
(暗闇から光明へと導きたまえ)

光あるところに暗闇はありません。耳の中に炎があるために、悪いことは何も聞こえなくなります。舌の上に炎が明るく輝いているために、悪い言葉を口にする余地はなくなります。足に炎が明るく輝いているために、足は悪いところに行かなくなります。手に炎が宿っているために、手は悪い行いをしなくなります。

この瞑想のプロセスでは、一つの炎を巡らせて、すべてのものに同一の神の光(パラブランマ ジョーティ)がみなぎっているということに気づかせます。ディーパーヴァリーの日(光の祝日)には、ろうそくを一列に並べて、一つのろうそくの火で他の全部のろうそくに光を灯します。一つの炎で無数のろうそくを点火することができます。点火された炎(ジョーティ)は、個々人の炎(ジーヴァン ジョーティ)と呼ばれます。つまるところ、点火された炎と点火した炎は同じです。最終的には二つの炎は同じものと認識されます。ブラフマンを知る者はついにはブラフマンとなる(ブランマヴィッド ブランマィヴァ バヴァティ)と言われています。ですから、ジョーティ メディテーション(光の瞑想)は最高の類の瞑想なのです。

体は変化し続けますが、炎はどんな変化もこうむりません。このことを示す小さな例をあげましょう。水がいっぱいに入った浴槽からコップ一杯ずつ水を汲み続ければ、浴槽の水がなくなる時がやってきます。トラックに積んだいっぱいの砂を一ヶ所に降ろして、人々が籠一杯ずつ砂を運んだら、最後には砂はなくなります。けれども、炎の場合は、一つの炎から百万の炎を灯すことができ、元の炎もそのままの状態であり続けます。このように、炎は、減ることも、変化をこうむることもありません。

もしあなたが、姿をとった神や、何らかの形をとった神を礼拝しているなら、炎を瞑想しているときに炎の中にその姿形を思い浮かべることもできます。自分が選んで崇め拝んでいる姿形を炎(ジョーティ)の中に思い浮かべるのは、最良の瞑想の形です。本当の瞑想では、至高の神の光(パラブランマ ジョーティ)と他の光が一つであることを実感認識します。

現代では、さまざまな型の瞑想が宣伝されています。多くの人は、テクニックは教えても、実際には瞑想というものを体験していません。どれも、うわべだけの瞑想です。もし瞑想に座って肉体意識を超えることがそれほど簡単であるならば、なぜ太古のすぐれた大家たち、七聖仙たちは、肉体の限界を超えるために何年も瞑想に費やしたのでしょう? 多くの人が、自分は数分で肉体意識を忘れてトランス状態になるなどと言っています。彼らはその状態を瞑想と呼んでいますが、ただ肉体意識がなくなったからといって、それは瞑想とは呼べません。ワインを二本も空ければ肉体意識はなくなるでしょう。それは瞑想ですか? いいえ、違います。本当の瞑想では、肉体意識をなくして、アートマ意識、超意識を体験するはずです。西洋の人々は、生活の中で憂鬱になったり失望したりするために、肉体意識を忘れる類の瞑想の型を宣伝しています。インドの伝統では、これは瞑想とは呼べません。

瞑想は集中だと言う人もいますが、それは正しくありません。私は今、手に紙を持っていますが、この紙に何が書いてあるかを読んでみましょう。「地区セヴァダル会議」と書いてあります。紙に何が印字されているかを読むには、私の手で紙を持ち、私の目を文字に集中させなければなりません。私の頭(心)で考えて、知性を働かせなければなりません。理性と頭(心)と手と目が、集中して、協力して働かなければなりません。そうして初めて、この紙を読むことができます。それと同じように、五感がすべて協同して、初めて人は読むことができるのです。ですから、ものを読むには集中が必要です。

書くことや、歩くことには、もう一つの集中の型が要されます。これはパパド(インドの煎餅)なのか、それともチャパティ(インドの薄パン)なのかといったように、食べ物を見分けることができなければ、食べることさえ不可能です。車を運転するにも、集中力はおおいに不可欠です。こうした集中は五感より下であり、日課や日々の活動をするのに不可欠なものです。当然ながら、集中力を得るために瞑想の修行に取り組む必要はありません。ですから、集中は瞑想と同じものではありません。

集中は五感より下、瞑想は五感より上です。私たちは、五感の下から五感を超えたところに行かなければなりません。五感より下の集中という段階から進んでいくと、次第に黙想の段階へと到ります。それから黙想の境界線を越えると、瞑想の領域に到達します。このように、集中、黙想、瞑想という三つの段階があります。集中は、「あなたが自分だと思っているあなた」の状態に喩えられます。黙想は、「他人があなただと思っているあなた」の状態です。瞑想は、「本当のあなた」の状態を認識させてくれます。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
英文 http://sathyasai.org/files2014/JyotiMeditationDD.pdf
音声 http://sathyasai.org/files2014/JyotiMeditationDD.mp3

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