サイババの御言葉

日付:1979年11月21日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
第四回 全インド バルヴィカス グル大会における連続御講話A

最も神聖な務め


宗教の教えについての深い専門知識を備えた名高い学者であろうと、宮殿の贅沢品の輝きを楽しむ君主であろうと、数々の戦闘を戦い抜いてきた勇士であろうと、悲惨な貧困の犠牲者であろうと、神への信愛がなければ、尊敬も栄誉も名声も受けるに値しません。

体、感覚器官、心、理智――これらはすべて私たちがまとっている衣服であると考えるべきです。人は感覚器官をコントロールするよう戒められますが、それは各感覚器官の本質を解明し、理解したときにのみ可能なことです。もし感覚器官の本質がわからなければ、さまざまな障害が生じるでしょう。

体はデーハと呼ばれています。デーハとは、「焼失するもの」という意味です。体は、命を失うと火葬場の薪で焼かれ、命があるときには欲望という炎で焼き尽くされます。生きているときですら、体は不安や恐れという薪で焼かれているのです! シャリーラという別の言葉があります。シャリーラとは「衰えるもの」という意味であり、これもまた体を指しています。体は、生きていれば欲望や望みにさいなまれて平安を奪われ、死ねば土に帰ります。一個の肉の球体としてスタートを切った体は、じきに、かわいらしい幼い赤ん坊の姿、そして、活発な子どもの姿となり、それから、背筋がまっすぐで力の強い魅力的な青年へと変容し、その後、老年の哀れな姿へと変わります。こうしたわけで、体はシャリーラ(衰えるもの)と名づけられ、その中に住む人間はシャリーリ〔体を有するもの〕と呼ばれているのです。

体をよい状態に保つことは人の義務

体は人が借りている家です。借り手が家賃を払わなかったり、家賃の支払いが遅れたり、借家を大切に使っていなかったり、不注意で、もしくは故意に借家を傷めるようなことがあったりすると、借り手を家から立ち退かせるために大家がどれほどうるさく言ってくるかを、私たちはよく知っていますね。それゆえ、体をよい状態に保ち、大家を憤慨させないようにすることは、私たちの義務です。よく気が利き、礼儀正しく、協力的な借り手を、大家は当然、高く評価するでしょう。借り手は、善良であることによって、大家の愛と敬意を得ることができます。それは、あなたの信仰と熱意を促進するでしょう。

〔瞑想を終えたら、〕すぐに立ち上がって動き出したり、仕事を再開したりしてはなりません。手足を、ゆっくりと、慎重に、徐々にゆるめてから、日常の務めに取りかかりなさい。

最初から長時間集中できないからといって、がっかりすることはありません。自転車に乗るのを覚えるときも、バランスの取り方はすぐには身につきません。うまく自転車に乗れるようになり、二度とバランスの取り方を心配しなくなるまでは、自転車を広い場所に押して行って、跳び上がったりつまずいたり、片方に傾いたかと思えば今度は別の方に傾いたり、さらには、自転車ごと何度もころんだりしながら覚えます。すると、自然にバランスを正すために必要な調節ができるようになります。こうして上達した後は、狭い路地でも車線でも自転車に乗ることができるようになり、広い場所は必要なくなります。さらに、どれほど混雑した大通りでも自転車を乗りこなすことができるようになります。これと同じように、練習することで、周囲に大勢人がいようとも、きわめて困難な環境にあろうとも、あなたを支えてくれる集中力が身につくようになるでしょう。

もっとも効果的な瞑想法

瞑想のやり方に関しては、さまざまな師や指導者が、さまざまな方法を助言しています。しかし、今、私があなた方に、もっとも普遍的で、もっとも効果のある方法を教えましょう。これは霊性修行における最初のステップです。まず、毎日、何分か瞑想を行う時間を設けなさい。それから、瞑想で至福が得られるにつれて時間を延ばしていくのです。瞑想には夜明け前の時間をあてなさい。この時間が望ましいのは、睡眠によって体が回復しており、日中の活動による影響をあなたがまだ受けていないからです。

目の前に、炎が真っ直ぐ一定に昇っている、覆いのないランプか、蝋燭を置きます。その炎の前に、蓮華座(パドマアーサナ)か、あるいは他の無理のない姿勢で座ります。その炎をしばらくじっと見つめます。次に、目を閉じて、その炎が、頭の中の、あなたの眉間の内側にあると感じるようにします。その炎を、ハートの中にある蓮の花のところまで、道を明るく照らしながら、ゆっくりと降ろしていきます。炎がハートに入ったら、ハートの中で蓮の花びらが一枚ずつ開いていき、思い、感覚、感情の一つひとつが光で満たされ、ハートから暗い部分が取り除かれていく様子を思い浮かべます。暗闇が隠れる場所はありません。炎の光はさらに大きく、輝きを増していきます。光が手足を満たします。さあ、これであなたの手足は、陰険で、怪しげで、よこしまな行いに従事することはできません。手足は、光と愛の道具になりました。光が上昇し、舌に届くと、舌から偽りが消えました。光が目と耳まで上昇すると、目と耳にはびこってあなたに悪いものを見せ、子どもじみた会話をさせていた、すべての暗い欲望が消えてなくなりました。

あまねく光の中に神を思い浮かべる

あなたの頭を光で満たします。すると、あらゆるよこしまな思いが逃げ出していきます。あなたの中にある光がますます強く輝いている様子を思い浮かべます。その光であなたの周囲のすべてを照らしていきます。あなたから発している光は、環状にだんだんと大きく広がっていき、あなたの愛する人々、肉親、友人、同僚、敵対している人、ライバル、知らない人、すべての生き物、そして、全世界を包みます。

光が、すべての感覚器官を、毎日、強く、規則正しく照らすため、暗い、よこしまな光景を喜ぶこと、陰湿で悪意のある話を聞きたいと思うこと、質が悪く、有害で、やる気をなくさせる、害のある食べ物や飲み物をとりたがること、自らの品位を傷つけるような汚い物に触ること、評判の悪い不正な場所に近づくこと、いつでも誰にでもよからぬ策略を企てるようなことがなくなる時が、じきにやって来るでしょう。あらゆる場所に光を見る、あの感動に常に浸っていなさい。もし現在、あなたが特定の姿をとった神を崇めているのであれば、あまねく光の中にその御姿を思い浮かべるよう努めなさい。なぜなら、光は神であり、神は光であるからです。

この瞑想を、私が勧めたやり方で、毎日、規則的に行いなさい。他のときには、神の御名(荘厳さの香る数ある神の御姿のうちのどの御姿の御名でもよい)を繰り返し唱え、いついかなるときも、神の御力と、慈悲と、寛大さを忘れないように気をつけていなさい。

上級のソーハム瞑想

今日の、この聖なるシヴァラートリの日〔新月の前日〕にあたって、すべてのものの内なる力であるシヴァ神の姿を心の中に見る決意をしなさい。あなた方は一呼吸ごとに「ソーハム」(私は神である)と断言し続けています。あなた方だけでなく、すべての生き物がそう断言しています。これは、あなた方がたいへん長い間ないがしろにしてきた事実です。今こそ、自分が神であることを信じなさい。自分の呼吸に注意を払い、この壮大なる真理を瞑想するとき、「私」〔アハム〕と「神」〔ソー〕はゆっくりと溶け合って、「ソーハム」はヴェーダ聖典に無形なる至高の実在(ニラーカーラ パラブラフマン)の象徴であると述べられている原初の音(プラナヴァ)、すなわちオームへと変わるでしょう。オームは、自らの本来の姿(スワスワルーパ)、すなわち、あらゆる相対する非実在の背後に存在する実在です。

ソーハム瞑想は、純然たる霊性修行であり、求道者の歩みの最後の行程です。しかし、〔ここに至るまでには〕たくさんの予備的な行程があり、それらはどれも、強い根気と、不動の精神が必要とされます。たとえば、私はあなた方に、数え切れないほどの神の栄光の属性の一面を象徴する何らかの神の御名を一つ、常に憶念することを勧めたいと思います。そうすれば、あなたの愛は拡大し、あなたの心を形作っているものの中から憎しみや妬みが取り除かれて、あなたが崇めている神があなた自身の内にしっかりと見えているのと同じように、他のすべての人々の内にもその神がしっかりと見えるようになるでしょう。そのとき、あなたは愛と平安と至福の化身となるのです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.14 C40

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