サイババの御言葉

日付:1979年11月21日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
第四回 全インド バルヴィカス グル大会における連続御講話B

瞑想


神の最も偉大な中核に到達するには、人はまず、最低条件として自分自身の中核に入り込まなければなければなりません。なぜなら、自己を知ることなく神を知ることのできる人はいないからです。

落ち着ける、安定した姿勢で座り、それから呼吸を整えて、五感の注意を外界の対象物からそらし(プラティヤーハーラ)、体内すべての器官を浄化する(アンガニャーサ)ようにします。光は最高の浄化器です。なぜなら、光はすべての闇を追い払うからです。光は体内を巡り、手足、感覚器官のすべてを清めます。光はハートの中にある蓮の花の中に安置されます。蓮の花の中には、集中(ダーラナ)を目的として、神の御姿の心象(バーヴァチットラ)が祀られ、それが瞑想へと導き、最終的には三昧(サマーディ)に到達させてくれるでしょう。

瞑想のために座ったら、まず、神の栄光を称えるシュローカ(サンスクリット語の詩節)をいくつか唱えて、騒ぐ心を静めます。それから、ジャパ(神の御名を繰り返し唱えること/唱名)をしながら、少しずつ、心の目の前にその御名をもつ神の御姿を描いていきます。気が散って、御名を唱えることから心が離れてしまったら、心を御姿のもとに連れてきます。心が御姿からそれてしまったら、心を御名のもとに連れてきます。そのどちらかの甘美さの中に、心をとどめさせなさい。このように扱えば、心は簡単に飼いならすことができます。あなたが想像して思い描いた御姿は、心象へと変わり、ハートに愛でられ、記憶に定着するようになります。そして、神があなたの望みをかなえようとしてその御姿をまとうと、その心象は、だんだんと生身の御姿のヴィジョン(サークシャートカーラ チットラ)へと変化していきます。この霊性修行は「ジャパ サヒタ ディヤーナ」(ジャパと結び付いた瞑想)と呼ばれるもので、私はあなた方全員に、この瞑想をとりいれることを勧めます。というのは、これは初心者に最適の瞑想法だからです。

体は神の住まう神殿

あなた方は、数日でこの手順を身につけ、集中から得られる喜びを味わうことでしょう。初期の段階では十分から十五分程度、それが過ぎたらもう少し長く、この瞑想をして、その後に、瞑想中に得た平安と幸福感をしばらく黙想しなさい。

人間の体は、過去生での数多くの善行の報いとして授けられたものです。体は、サムサーラ(絶えず変化しつづけるもの、輪廻)の海を渡たるための船として尊重されるものなのですから、感謝と敬意を持って管理しなければなりません。「バガヴァッドギーター」は、体をクシェートラと称しています。クシェートラとは「土地」という意味です。人はこの土地に聖なる種を蒔くこともできれば、罪という種を蒔くこともできます。そして、それに応じた特質を収穫することになるのです。種を蒔く前に、自分に必要な作物を選ぶ必要があります。クシェートラには「地球全体」という意味もあります。もう一つの重要な意味は「聖なる場所」というものです。土地の神聖さを表すのに、私たちは、カーシ クシェートラ〔光り輝く地〕、プラヤーガ クシェートラ〔犠牲の地〕等と言います。同様に、体も一つのクシェートラです。なぜなら、体は、神が祀られ、思いと言葉と行動によって礼拝される寺院だからです。この寺院は、清浄にされ、健康と清らかさが保たれていなければなりません。

五感はどれも制限を守って使いなさい

清らかさは、何度も入浴することや、不可触民だとして追いやられている人たちとの接触を避けることで保持されたり、引き起こされたりするものではありません。「触らない」などという表面的なタブーを守ることによって清らかでいられるわけではありません。体は水で洗えば清潔になり、言葉は真理を染み込ませれば清められ、生活はタパス〔苦行〕で聖化すれば浄化され、知性はグニャーナ(霊的英知)で汚れを落とせばきれいにすることができます。そして、何にもまして、自分は体ではなく、体に住んでいる者であるという確信が育たなければなりません。もしもあなたが、自分の持ち歩いている体と自分を同一視するなら、あなたを祝福しようとして待ち構えている喜びや平安の代わりに、あなたを覆いつくそうとする悲しみや苦しみを招くことになります。

ここで、感覚器官(インドリヤ)についてお話します。感覚器官はマートラーと呼ばれています。マートラーは「計量」を意味します。なぜなら、感覚器官はどれも、特定の体験の「量」を認識する能力があるからです。レンズ豆の料理には味を付けるために塩を入れなければなりません。それを味見して、塩の量を増やすべきか減らすべきか、あるいは、ちょうどよい塩加減かという判断を告げるのは、舌です。この顔はきれいだけれども少し鼻が曲がっているといった判断は、目が下します。この歌はいいが、あの歌はひどいといった判断は、耳が下します。加えて、マートラーには「限度」という意味もあります。

感覚器官はどれも、それぞれ固有の限度を意識して扱わなければなりません。限度を越えれば、神が授けたその聖なる道具を乱用すること、冒涜することになります。たとえば、鼻は本来、呼吸することと、匂いを嗅いでよい香りを楽しむのに使われるべきものですが、多くの人が、かぎタバコを鼻に詰め、鼻本来の役割をおとしめています。舌は、激性や鈍性の食べ物を食べたり、人の品格を落とすアルコール飲料を飲むことによって、汚されています。このようにして、どの感覚器官も、人間による、不適当で、認可されていない、不合理な使い方によって台無しにされています。その結果が、精神的な苦痛や体の病気です。

体は不活性な物質で構成されています。しかし、体は成長し、弱り、衰えます。その一切は、内側からの意識が働いているためです。それがなければ、不活性な物質の塊が変化できるのは、外的な作用によって増減が加えられた場合のみです。

グルは少なくとも一日一度は瞑想すべし

次はマインド〔マナス、心〕です。マナナム マナハ――マインドは記憶し、思い返し、思い巡らすものなり。この内的な働きは、決意を固めることと、その決意を撤回すること、すなわち、サンカルパとヴィカルパをもたらします。マインドは、縦糸と横糸として、断定と否定、するとしない、サンカルパとヴィカルパを有しています。これらを切り離してマインドは存在しません。眠りがマインドの活動を止めるまで、マインドはずっとそれらに従事しています。時たま、決意、あるいは、その決意の背後にある決心が強くなりすぎると、マインドは自らの限度を超えてしまい、そうなった人は精神異常者という表現をされます。

マインドを落ち着かせ、安定した状態に保つには、霊性修行としての瞑想が処方されます。瞑想は、マインドの肯定的な面と否定的な面を消失させて整えるプロセスです。ニルヴィカルパ サマーディの段階(三昧という超意識状態の最高の段階)に達すると、人は無限の至福を味わいます。この味わいは、熟睡状態という、夢も見ておらず、願望や要求もなく、欲望や拒絶によって邪魔されることのない状態のときに、人に授けられます。瞑想によってニルヴィカルパの段階に到達したときの至福以上の満足感があるでしょうか! 私たちを満たすそのときの至福(アーナンダ)は、バーヴァーティータム、すなわち「想像を超えたもの」、トリグナ ラヒタム、すなわち「三属性を持たないもの」と描写されています。

あなた方のように、グルとして子どもたちを光の中へと導くために身を捧げている人は、この至福と平常心を得るために、少なくとも一日一度は瞑想の行を実践しなければなりません。自らが至福という贈り物を得た者だけが、他者に至福を与えることができるのです。物乞いが他の物乞いを助けることができますか? 他の物乞いを裕福にさせることのできる物乞いはいません。至福に満たされている人は、自分の周りにいる人に至福を分け与えることができます。ですから、グルとしてのあなた方の義務は、まず至福を獲得し、次にその至福を与えることです。霊性修行の生活を送ることは、どのグルにも必須です。

グルという役割は神からの祝福

あなた方が従事しなければならない霊性修行には三つの範疇があります。それは、個人的修行、社会的修行、宇宙的修行です。一輪の花で花輪を作ることはできず、一本の木で森を作ることはできず、一人の人間で社会を作ることはできません。個人の霊的成功、有益な性質、美徳は、多くの人がいっしょに持ち寄れば、社会の富、すべての人の共通の財産となります。どの人も、すべての人を敬い、すべての人に奉仕しなければなりません。個人の内なる神性はどれも、無限の神性という概念へと持ち寄られます。

グルは自分のハートに慢心が入りこむ隙を作ってはなりません。純朴で、まだ教育を受けていない、半盲のような子どもたちにとって、なくてはならない存在だからといって、グルは権威の座にふんぞり返ってはなりません。その王座はエゴイズムであり、権威によって鼻高々に専有されます。子どもの前でも謙虚でいて、権威的な口調は放棄しなさい。これはあなた方にとっての霊性修行です。グルという役割を神からの祝福であるとして尊びなさい。こうした姿勢によってのみ、個人のための旅、社会のための旅、世界のための旅の成功を確保することができるのです。

災いが生じるのはブッディが鈍っているとき

体と感覚器官とマインドの移ろいやすさと相関関係に気をつけていなさい。ブッディ(理智)はどうしょう? ブッディは、人間の決断力の源であり、アンタフカラナ(内的意識)として知られています。ブッディは、混乱を減らし、葛藤を静め、疑問を究明します。私たちが「内なる声によって解決した」と言うとき、それはブッディのことを指しています。また、ブッディは、アンタラアートマン(内なる自己)とも称されています。存在物の一番低い階層は、体、すなわち物質の鞘です。その上の階層は感覚器官、すなわち五つの知覚器官〔目、耳、鼻、口、皮膚〕と五つの行動器官〔口、手、足、生殖器官、排泄器官〕です。マインドはそれよりも高い階層にあります。そして、ブッディはさらにその上の階層にあるため、中核であるアートマン〔アートマ/真我〕に最も近いのです。

お抱えの運転手を探すとき、車の持ち主は、運転にたけている人、性格がよい人、雇い主の言うことをよく聞く人を選ぶでしょう。その人は、それらすべての面においてすぐれている、有能な人物でなければなりません。物体である車の運転手にそれほどの技能や美徳が要求されるのであれば、アートマンのお抱えの運転手であるブッディには、どれほどのことが要求されているでしょう! ブッディには、アートマンの智慧と許可なしに誰かを車に乗せる権利はありません。

ブッディはマインドの願望の一切を監視していなければなりません。アートマンの輝きによってブッディが明るく照らされたときにのみ、ブッディはマインドを通じて感覚器官に行動を起こすことを推奨することができるのです。災いが生じるのは、ブッディが鈍っているとき、あるいは、マインドに出し抜かれたときです。ブッディに賛否を明らかにするのに必要な時間を十分にとらせなさい。あせると無駄が生じます。無駄が生じると心配が生じます。ですから、あせらないようにしなさい。

あせりは混乱と失敗を起こし、それらは失望と怒りを引き起こします。怒りは、マインドを平安と落ち着きへと導くことによって、克服しなければいけません。「シャーンティ、シャーンティ、シャーンティヒ」〔平安、平安、平安〕――このマントラは、怒りの波を静めます。

ベストを尽くさないことは自分への裏切り

人は、自らの物質的な構成要素を否認して、「私は体ではない、感覚器官ではない、マインドではない、理智ではない」と断言すれば、決して恐れを抱くことはありません。非真なるものへの執着から逃れようと森へ逃げても、何の得にもなりません。放棄の精神は、そのような極端な手段をとらずとも、培うことができます。疑念も同じです。真理を悟るまで、人は疑念につきまとわれます。正面の扉から疑念が入ってくると、信仰心は裏口から出て行ってしまいます! 疑念は、心臓発作のように人を襲い、突如として人を圧倒します。「バガヴァッドギーター」は、「サムシャヤートマー ヴィナシヤティ」(疑心ある者は滅ぼされる)と述べています。ですから、グルは、まったき信心を持って自分の務めに臨まなければなりません。

バルヴィカスの活動で理想としているのは最上ものです。その理想を実現させることは、最も神聖な務めです。このことを知りながらベストを尽くさないなら、それはまさに自分自身への裏切りです。話すだけでは前進しません。人は、何十万キロも離れている月を気にかけていますが、すぐ隣にいる人にはまったく気をかけません。子どもたちに、壮大な理想や、とてつもない観念を教えたり、植え付けたりしてはなりません。小さな、実際的な理想と、シンプルな振る舞いの仕方を、あなた自身が手本となって、愛を持って示しなさい。

バルヴィカスのグルたちを指導することができるのは、教師の中の教師だけです。言い換えるなら、教育のプロセスと問題、重要性と秘訣に精通している者のみが、指導できるのです。その人は、バルヴィカスのグルたちを正し、納得させることができなければなりません。オーガニゼーションの州の会長は、全員がその能力を持ち合わせているわけではないかもしれませんが、オーガニゼーションの他の側面において優れた能力を発揮するかもしれません。他の分野の奉仕活動を得意としているかもしれません。ですから私は、州の会長はバルヴィカス活動にはどのようにも携わらないことを勧めます。州の会長は、バジャナ マンダリー〔バジャン グループ〕や、セヴァ サミティや、セヴァダル、その他の奉仕ユニットをまとめ、管理し、指導を与えなくてはなりません。バルヴィカス グルたちは、オーガニゼーションのまさに先端のために、より役立つことができます。

グルは嫉妬を募らせてはならない

バルヴィカスを担当している女性たちは、感情の起伏に動じやすいので、自分たちの問題をすぐに州の会長のところに持ちこまないほうがよいでしょう。当局に話が行くころには、感情も冷めているでしょう。彼女たちには中央がもっとしっかりとした指示を与えることができますし、もしそれが中央から出たものであれば、彼女たちもその指示に快く従うでしょう。ですから、今後、彼女たちは、プラシャーンティ ニラヤムのバルヴィカス グル統括世話人に宛てて、助言、指示、矯正を求める手紙を書き、その手紙のコピーを世界評議会の事務局長であるインドゥラル・シャーに送らなければなりません。私はその手紙のすべてに目を通していきます。

当然、バルヴィカス グルは、嫉妬を募らせたり、他人の欠点を見つけることに耽ったりしないようにしなければなりません。教えることに着手できるのは、もっぱら自分の中からそうした悪習を取り除いた後です。もしグルが他のグルの悪口を言って、いさかいや派閥意識を煽るようなことがあれば、子どもたちは決してよくならないでしょう。ですから、今すぐに正しい道に従う決心をしなさい。二人のグルが言い争ったり、ぎすぎすした関係になったりしたら、両者とも除名されます。問答無用です。私たちは両者とも当事者としてとがめます。一匹の害虫が、作物を全滅させることもあるのです。私たちがこれまでの数年間あまり厳しくしなかったために、これほど多くのバルヴィカス グルがいるにも関わらず、バル ヴィカスの生徒の数はほんのわずかです。

すべての信仰は等しく正当であるということを子どもに教えなさい

どのグルも、少なくとも年に100人の生徒に奉仕しなければなりません。そうして初めて、十万人、あるいは、それ以上の生徒がその恩恵を受けることができます。私たちの国には、10歳以下の子どもは男女合わせて9260万人います。16歳以下の子どもは2億2060万人います。私たちが現在教えている人数では、いつ数億人の子どもたちに教えることができるでしょう? 現在の亀のようなスピードでは役に立てないでしょう。

若者の向上心や大志は大変な速度で燃え上がっていきますから、あなた方もそれと同じ速度で、若者たちを正しい方向に向けなければなりません。そうして初めて、バランスを確保することができます。雨は豊かに降り注ぎ、雨水は地面に浸透して、地下に蓄えられます。ところが、人間は地下に蓄えられている水よりも多く、速く、地下水を汲み上げてしまうので、干ばつになるのです。ですから、速く進みなさい。しかし、自分の仕事はしっかりと、確実に行いなさい。

もう一つ重要な点があります。あなた方は、すべての信仰は等しく正当であるということを子どもたちに教えなければなりません。聖書から引用した言葉で、キリスト教の理想を教えなさい。同じように、ゾロアスター教、仏教、イスラム教等々の経典を使って、それらの信仰が掲げている理想を知らせなさい。さらには、各宗教の経典の中に出てくる物語を話して聞かせなさい。一つの宗教を見下したり、持ち上げたりしてはいけません。子どもに「バガヴァッドギーター」の全章を教えなければならないという提案が出されましたが、それは間違った考えです。もちろん、子どもたちが自らの熱意と願望からそれを望むなら、その邪魔をしてはなりませんが、私たちがしなければならないことは、甘美でシンプルな形で、すべての信仰の教えを子どもたちの前に示すことです。サイの信条は、すべての宗教が愛によってブレンドされたものです。サイの信条は自分たちの宗教に反していると感じている者たちもいますが、私たちはそのような感情を抱いてはなりません。私たちのものは、全体的なもの、太陽です。ですから、私たちは自分の見解を狭めたり、制限したりしてはなりません。

喜びに満ちた真理の道に沿って子どもたちを導きなさい。子どもたちの幸せそうな顔を見ることによって得られる至福から湧き上がる笑顔を、いつもあなたの顔にたたえていなさい。怒り、嫉妬、慢心の罠に陥ってはなりません。これらの罠は、あなた方が着手した務めに、しっかりと、誠実に目を向けることによって、免れることができます。あなた方が奉仕している子どもたちが、母国の太古の栄光を復興させる英雄たちとなりますように。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.14 C41

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