サイババの御言葉

日付:1980年11月23日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
55歳の御降誕祭の御講話より

私が最も好む贈り物


愛の化身である皆さん! この五日間、プラシャーンティ ニラヤムではさまざまな活動が行われ、皆さんを忙しくさせていました。そして、誰も時間が過ぎるのに気がつきませんでした。その理由は、心が時間を超越した神に集中し、すべての行為と至高が神と融合しているとき、人は時間を忘れてしまうからです。海に流れ込んだ川が海と一つになるのと同じように、皆さんの心は、神に浸っていると、神と一つになるのです。

宇宙は神の顕れです。どの人の中にも、とらえがたく、目には見えない、神が存在しています。人に潜在している神性を発見するには、善良な人々との交流とサーダナ(霊性修行)が不可欠です。人生の本当の目的は、自分の時間のすべて、努力のすべてを、自分に生来備わっている神性の実現に結集させることによって、果たされます。このことは誰にでも実現可能です。

ところが、今日、人々はこの目的とは正反対の行為をしています。人々はアメリカやイギリスで起こっていることなら何でも知りたいと思っています。人々は地理学や天文学は学びたがりますが、自分の本性や本質を見出すことに熱心な人はほんのわずかです。これは欠陥のある教育のせいです。現在の教育システムには、倫理的、ダルマ的、霊的な学びをする場がなく、その結果、学生は人生の目的を理解しようとしません。人は物質的世界に関するすべてのことを学ぼうとします。アメリカに関するすべてのことを学びますが、ベナレス(インドの聖地)への道を知りません。幾何学に関するすべてのことを学びますが、自分の家の寸法についてはわずかしか知りません。あらゆる種類の運動をしますが、パドマアーサナ(蓮華座、瞑想のための座法)の座り方を知りません。植物学を学びますが、トゥラスィー(礼拝に用いる聖バジル)の使い方を知りません。

神はすべての生き物の種

これは現行の教育システムの嘆かわしい欠陥です。もし、学生が自分の神聖な本質を実現させることを望むなら、心を霊的な学習へと向けなければなりません。アートマヴィッディヤー(真我の学習)は、個別の学問分野ではありません。「バガヴァッドギーター」に述べられているように、それは全宇宙に神を見ることを意味します。主は言います。

ビージャム マーム サルヴァ ブーターナーム
(私は宇宙のすべての生き物の種である)

(「バガヴァッドギーター」七章十節より)

宇宙は木であり、その種は主であり、その実は人間性(マーナヴァットワム)です。人間の姿の中にある神性を見出そうとせずに、人々は人生を無駄にしています。もし、世界の優れた聖典を調べてみれば、それらはすべて、人が至福を得るのに不可欠なことである、自らの神性を見出すことが可能な状態(人間として生まれること)が極めて貴重であることを強調していることがわかるでしょう。人は現世の喜びや成功は求めますが、永遠の幸福を与えてくれる内なる神性を探そうとはしていないのです。

自国の名声を守りなさい

このティヤーガブーミ(神聖な犠牲の国)、ヨーガブーミ(霊性修行の国)に生まれた人々が、西洋文明の奴隷となり、母国の精神とは正反対の行いをしているのは、嘆かわしいことです。実の母親をないがしろにして、他人への執心を強めるのは哀れなことです。どれほど顔立ちがよくなかろうと、子どもにとって、母親は至福に満ちた顔に見えます。それが子どもの自然な感じ方です。けれども、何らかの学位を取った後、生計を立てるために外国に行く学生たちについて、私は何と言ったらいいのでしょう? 自分の知識、技能、能力、エネルギー、そして教養を、母国への奉仕に使う代わりに、外国に行って物乞いのように仕えるのは、まったくもって嘆かわしいことではありませんか?

トレーターの時代(トレーター ユガ)、ラーヴァナが滅びた後に、ラーマとラクシュマナとシーターが、ランカーを離れてアヨーディヤーに向かう身支度を整えていたときのことです。ラクシュマナがラーマにこう言いました。

「もしアヨーディヤーに戻っても、我らが王国を取り戻せるかは疑わしいでしょう。カイケーイー妃がすでにバラタを王位に就かせているかもしれません。我らは父上の命令に応じて森に入りました。今、アヨーディヤーは栄えた状態ではないかもしれません。兄上は、ランカーが天界よりも繁栄していることをご存じです。ランカーの統治者となり、ランカーの国が与え得るすべてを享受するほうが、兄上にとってよいのではないでしょうか?」

ラーマは答えました。

「ラクシュマナ、母がどれほど醜かろうと、私は、誰か他の美しい女性を仰いで自分の母と見なすほど、鈍感ではない。私が生まれた国が私の母国だ。ランカーがこの世のあらゆる宝を有し、どれほど魅力的で栄えているように見えても、私にはその魅力的なものも、富も不要なのだ。」

私たち神聖なバーラタの国に生まれた者は、自分の国にどんな問題や困難があろうとも、それに立ち向かう覚悟をし、自分の才能と知識と能力のすべてを精一杯自分の国に尽くすことに使い、そうすることによって、自国の名声を守るべきです。

貪欲は苦痛の繁殖場

我らが古代人たちは、貪欲は苦痛の繁殖場であると宣言しました。イラクやイランやドバイに行った人たちに何が起こりましたか? その多くは着の身着のままで戻ってきました。富は、流れ行く雲のように、はかないものです。お金は来ては去ります。道徳は来ると育ちます。私たちの国民にとって、ただ生計を立てるためだけに外国人に奉仕を売り、そうすることで自分の文化を捨て、自分の生き方を捨て、信条を捨てるのは、恥ずかしいことです。そのような人はまったくインド人ではありません。自分の二つの手で働いて母国に奉仕することによって、誠実な人生を送ることは不可能ですか? なぜ不適切な欲望を心に抱くのですか?

今日、人間の中にある人間性を破壊しているのは、飽くことを知らない貪欲です。欲望が抑えられない限り、アートマを見つけることはできません。「プルシャ スークタ(至高の人への讃歌)」はこう宣言しています。

ナ カルマナー ナ プラジャヤー ダネーナ
ティヤーゲーナイケー アムルタットワマーナシュフ

行為によってでもなく、子孫によってでもなく、富によってでもなく
犠牲によってのみ人は不死を実現させることができる


犠牲と強さと智慧は神の性質です。まず自分の国に奉仕するために、あなたの才能のすべてを使いなさい。それから、他の国のためにあなたができることを何でもやりなさい。自分の家を管理できていないのに、どうして外の世界を征服することができるでしょうか? 自分の教養、自分の能力や技術、自分の知性を自国のために役立たせることで満足感を得ることができないなら、どうやってそれを外国で成し遂げられるというのでしょう。

欲望はサイにとって未知なるもの

ディヴィヤー スワルーパ(神性の化身)である皆さん、皆さんが信じようが、信じまいが、ある一つのことを皆さんに話しておきましょう。私には私利私欲は微塵もありません。何であれ私がすること、私がたどる道は、すべて万人の幸せのため、万人にとって良いことのため、万人の向上のためです。私の行動は、何一つとして自分の個人的欲望を満たすために為されることはありません。欲望は私にとって未知なるものです。私の望みはすべて、世界の安寧を促進することのみです。

ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ
(世界のすべてが幸せになりますように)


これこそが、サイの目標です。

ある種の計画によって、この世界がより善いものとなることはありません。世界の繁栄と幸福が実現するのは、人間の中で霊的変革が起こる時だけです。もし人心が改められず、清められないならば、この世を改善する計画はすべて無駄に終わるでしょう。

現在の若者は未来のバーラタの国民なのですから、若者は国の幸福を促進しなければなりません。そうした若者たちがバーラタの進歩と幸福のために働くことができるよう、正しい方針に基づいて彼らの心と態度を成長させることが、サイの主目的です。学生はまさしく私が大切にしている財産です。私の希望のすべては学生に向けられています。正義の模範として奉仕することができるよう、学生たちを矯正し、しつけることが、サイの唯一の決意です。

サイの愛の真の性質を理解せよ

人がサイの普遍なるプレーマタットワ(愛の本質)を理解するのは、容易なことではありません。小さな例を挙げてみましょう。私たちは学生をジャンムーやカシミール、デリーやプラヤーグに連れて行きます。どこに行っても、私たちは学生に必要なものの面倒を見、彼らの希望に応じます。皆さんに、どのようにして私の愛が示されるのかをご紹介しましょう。そうすれば皆さんは私の真の本質がわかるようになるかもしれません。

この大規模な世界大会が行われている間、私はプッタパルティ、アナンタプル、バンガロール、ジャイプール、そして、ボーパールからやって来たサティヤ サイ教育機関の学生たちが快適に過ごせるよう気遣っていました。

私は、いかに学生たちを幸せな気持ちにさせるか、いかに学生たちが快適でいるかを確かめるか、いかに学生たちの規律正しさと人格を向上させるか、ということだけを考えていました。単に学生たちが立派な制服を着て道に水を撒(ま)いたり、道を掃除したりといった活動に従事しているのを見ることだけが私の望みなのではありません。私の意図は、真の規律正しさと人格を向上させ、同時に学生たちが幸せでいるかどうかを確かめることです。その目的のために、私は昼夜の別なく働く五十人の仕立屋をここに連れてきて、少年たちの制服を二ヶ月で縫い上げさせました。

私は自分のためには一枚も縫わせませんでした。私は何の行事のためにも、私に新しい衣類は必要ありません。私が今身につけているローブでさえ、私への愛を表すために、キングダム オブ サティヤ サイ(サイの学校の男子同窓会)の卒業生たちが用意したものです。それゆえ私はそれを着ることを承知しました。同様に、私には食べ物やその他の必要なものへの特別な欲はありません。アーナンダ(神聖な至福)が私の食事であり、その食事を確保するために、私は他の人たちの幸福を促進し、人々の喜びから歓喜を得ているのです。これが、「マイ ライフ イズ マイ メッセージ(私の人生が私のメッセージ)」という私の宣言の意味するところです。他の人が体験した幸福の喜びに至福を感じることは、神の性質です。

宇宙は神で満ちている

小さな例を挙げて、このことを説明しましょう。一粒の小さな種を撒いたとします。その種は大木へと成長します。木は何千もの実をつけ、その実の一つひとつには木の種が入っています。たとえそうであれ、この大宇宙に神性という種が植えられたとき、人間性という木がつける実の中にある、神性という種を探し出さなければなりません。木の実には種が入っており、その種から木が成長するように、この宇宙は創造主の種を有しています。ウパニシャッドにはこうあります。

イーシャーヴァースヤム イダム サルヴァム
(主はすべての生きものに宿っている)


人が自分の人間的性質を敬い、自分にある神の性質を見出すという義務を自覚するなら、人の内なる神は顕現するでしょう。

神性の体験は、善良な人々との交わりにおいて得られるはずです。どこかのお寺や神社、あるいは、ある種の瞑想によって神を見ることができるだろうと考えるのは、幻想です。人間の姿で顕現する神の中にいるときにのみ、人は神性を体験することができます。もし、生きている人の中にある神性を体験することができないのであれば、どうして無生物である石の中にある神性を体験することができるというのでしょう? 人の真の本質を実感認識するのは、愛をもって知覚するときだけです。善悪を乗り越え、自分の周りのものすべてを等しい目で見、それらの内に神性を見るようになって初めて、サイ オーガニゼーションにいる人々は自らの真の目的を果たしていくようになるでしょう。

人が行うことは信頼を基盤としている

サイは称賛にも非難にも動じません。どのような状況で思い出されようとも、サイは幸福です。サイに向けられる称賛や非難を重視する帰依者は、一人もいないようにしなさい。先日起こった一例を挙げましょう。ある大人数のグループが私に会いに来ました。そのグループは、新聞に大きく載った記事を見て、好奇心からプラシャーンティ ニラヤムにやって来たのです。私はグループに言いました。もし新聞を見て来たのなら、あなた方自身もただの紙にすぎません。新聞や本を読んでここにやって来たり、ここを出て行ったりするのは、その人が主でなく新聞や本に帰依していることを意味します。もし、あなた方がバガヴァンの真の帰依者になりたいのであれば、本や新聞で読んだことのためではなく、自分自身のために探求をすべきです、と。

愛の化身である皆さん! 人間の生活はすべて信頼を基盤としています。信じることなしに一瞬でも生きられる人は一人もいません。小さな例があります。今日、ある人が家の礎石を据えたとします。もし、家は来年までに建ち、自分は来年まで生きている、という確信がなかったら、その人は家を建てようとするでしょうか? 朝起きて、袋を持って市場に野菜を買いに行ったとします。市場から帰ってきた後に家に戻って来られるということを信じていなかったら、その人は家を出られますか? 起きてから寝るまで、あらゆる瞬間に人が行っていることはすべて、信頼と確信を基盤としています。

それでいてどうして、命を与え、この広大な世界を創造し、人間の利便と存続のために多くのものを供給している神への信頼が欠けているのでしょうか? 人は、数え切れないほどのささいなものを信じていますが、よい人生のための最も神聖で最も不可欠な必需品、すなわち神を疑っています。もし神を信じるなら、他に信じているものはすべて問題にもなりません。海には、どれほどの波が打ち寄せようと、一向に動かない岩があります。同様に、もし皆さんが、自分の目的や目標や望みを果たそうと固く決意をしているなら、それが果たされるまで決して努力をやめることなく、あらゆる類(たぐい)の一時の思いに揺り動かされないようにすべきです。そうして初めて、皆さんは真の帰依者となるでしょう。

生と死は作用と反作用

愛の化身である皆さん! 皆さんは、今日を私の誕生日として祝っているという気持ちで、大いなる喜びを味わっています。私には、祝うべき誕生日はありません。私が今日のために用意されたさまざまなプログラムに参加することを了解したのは、皆さんを幸せにするため、皆さんのため、皆さんの願いを叶えるためです。誕生のない人には死もありません。死があるなら、その人は生まれたということです。生と死は作用と反作用です。私はその両方を超越しています。

体に耐久性はありません。体は水の泡のようなものであり、水の中で生じ、水の中で大きくなり、水に融合します。人は泡のようなものです。ナーラーヤナ(ヴィシュヌ神)が水です。水がなければ、泡が発生することはできません。人間という泡は皆、ナーラーヤナの中で生まれ、ナーラーヤナの中で成長し、最終的にナーラーヤナと融合します。なぜ、泡が生まれたからといっては大喜びし、泡が消えたからといっては悲しむのですか? 自分に体があるうちは、神聖な行為に従事し、自分の思いと行動のすべてを神に捧げなさい。

神の化身である皆さん! 私は皆さんに、誕生日の贈り物を求めなければなりません。それはただ一つのこと「自分の利己心を減らすこと」です。自分の誤った欲望を減らしなさい。犠牲の精神を育て、気高い人間に成長しなさい。もし、皆さんがこの目標のために献身するなら、自分がこの素晴らしい世界大会、この降誕祭に参加した目的をはっきりと理解し、計り知れない至福を得ることでしょう。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.14 C58
初出:サイ ラム ニュース135号(2010年11・12月号)pp.11-19掲載

<<SSOJ Topページへ <<サイババの御言葉メニューへ