サイババの御言葉:カルマは解脱へと導く

日付:1981年4月・場所:アナンタプル市
サティヤ サイ女子大学における御講話より

カルマは解脱へと導く


放棄〔ティヤーガ〕は、あらゆる性質の中で最も高潔なものです。

ナ カルマナー ナ プラジャヤー ダネーナ
ティヤーゲーナィケー アムルタットワーマーナシュフ

不滅は、富や子孫や行為によらず、
放棄によってのみ得られる


と言われています。

私たちは、多くの人が「自分はたくさんのものを慈善として寄付した」と自慢するのを目にします。しかし、これは放棄ではありません。真の放棄とは、悪い性質を取り除くことです。

心(マインド)の中から悪い性質を取り除くことが、真の放棄であり、ヨーガ〔神との合一の行〕です。『バガヴァッド ギーター』はカルマ ヨーガ(奉仕のヨーガ)〔行為によって神との合一を果たすこと〕を強調しています。カルマ(行為)、バクティ(信愛)、グニャーナ(英知)は、私たちを目的地へ連れて行ってくれる3つの道です。

これら3つのうち、カルマ(行為)の道は一番単調で退屈です。行為の道は普通列車の旅のようなものであり、進むのが遅い、多くの連絡駅で車両の乗り換えをする、といった難点があります。

第2の道はバクティ(信愛)の道です。これは直通列車の車両のようなものです。この車両に乗った旅人は、どの連絡駅でも乗り換える必要はありません。この車両は自動的に目的地に向かう列車に連結されます。

第3の道であるグニャーナ(英知)は、直行列車のようなものです。この列車に乗った旅人は皆、最も速い速度で、より快適に目的地に到着します。

第1の種類の「行為のヨーガ」の列車で旅している人々が快適に目的地に到着するためには、より注意を払わなくてはなりません。私たちの体は行為をするために生まれました。森羅万象はブラフマン〔神〕から生じました。アートマ〔真我〕はブラフマンから来ました。アートマのためにヤグニャ(供犠)が構築され、そのヤグニャで行為がなされ、その行為の結果として雨が降ります。その雨雲(パルジャンニャ)によって食物が作られ、その食物によって生き物が生まれます。これら一切は花のようなものです。生き物はその花々で作る花輪の片方の端の花であり、それはもう片方の端の花であるブラフマンに結び付けられて、すべての花が一本の花輪になります。

神の愛を手に入れよ

その花輪の中心は行為(カルマ)です。その中心から片側には、ブラフマン、アートマ、ヤグニャがあります。もう片側には雨雲、食べ物、生き物があります。これら2つの側の存在物を結び付けているものは行為です。花輪の初めの半分は「超越的なもの」(アームシミカム)です。後の半分は「世俗的なもの」(アイヒカム)です。人は食べ物によって育まれた体で行為をなすことによって、「超越的なもの」に到達するよう努力すべきです。あらゆる行為は神への捧げ物として執り行われるべきです。『バガヴァッドギーター』は述べています。

カルマンニェーヴァーディカーラス テー
人には行為をする権利があるのみ


自分を神の手中にある道具と見なす場合に限り、人は神に到達することが可能になります。自分自身を行為者であると見なすなら、それはエゴ〔自我意識、アハンカーラ〕と呼ばれるものです。

地位はエゴを膨らませて弱みになることもあります。ある日、ヴィシュヌ神は、鳥のガルーダ(ヴィシュヌ神の乗り物)を通じてシヴァ神に伝言を送りました。ガルーダは大きな羽をはばたかせてカイラーサ山〔シヴァ神の住まい〕に降り立ったので、そこに一陣の風が巻き起こりました。シヴァ神の首の周りに巻きついていた蛇は、それに腹を立て、「シューッ」と音を立ててガルーダを威嚇しました。ガルーダにはその蛇の傲慢さの理由がわかりました。その蛇は、シヴァ神の近くにいるために「自分は偉い」と思い込んでいたのです。シヴァ神から引き離されれば、蛇はガルーダの餌食になります。エゴを捨てて柔和になった者は、尊敬を受けるに値するようになります。たとえば、ネズミを例にとりましょう。普通、人々はネズミを罠で捕らえて殺します。ところが、ネズミが乗り物としてヴィナーヤカ〔ガネーシャ神〕の傍にいるときには、ネズミに平伏します。この種の近接による影響力は、ヤーダヴァ一族〔クリシュナの家系〕と牧女(ゴーピカー)にも見ることができます。ヤーダヴァ一族は、「クリシュナは自分たちの一族に属している」と考えて、自分たちがシュリ クリシュナに属しているとは考えませんでした。この種のエゴが、最終的にヤーダヴァ一族の全滅をもたらしました。その一方で、牧女たちは、「ああ、クリシュナ、私たちはあなたのものです」と言い続けました。牧女たちはクリシュナのために食事さえ断ちました。これぞ、クリシュナが牧女たちを愛しいと思った理由です。マトゥラーにいようが、ドワーラカーにいようが、クリシュナは牧女たちを尊びました。

シュリ サティヤ サイ大学に在籍しているからといって、エゴを育ててはなりません。皆さんはアブ・ベン・アダムの物語を知っていますね。アブ・ベン・アダムは善良な社会福祉家でした。彼は天使が持っていた「神を愛した人の名簿」に自分の名前を見つけることができず、がっかりしました。しかし、後になってから、「神から愛された人の名簿」の最初に自分の名前を見つけて大喜びしました。彼は、すべての天使たちから大切にされるようになりました。ですから、皆さんも神に愛されるよう努力しなければいけません。絶え間なく神の御名を唱えながら、あらゆる行為を果たさなければいけません。

私たちは食べ物の質を見て食べます。私たちの思考は、どの種の食べ物を食べるかによって決まります。善い食物は善い性質を育てます。食べ物を神に供えれば、それは善い食べ物となります。この種の食べ物は浄性の食べ物です。神を想うことはアートマの至福を与えてくれます。水は地下にあります。地下水は地面の奥深くにありますが、井戸を掘って水を汲み上げることができます。それと同じく、ナーマスマラナ(神の御名を繰り返し唱えること、唱名)は、至福の水を汲み出してくれる掘り抜き井戸です。

カルマ(行為)、バクティ(信愛)、グニャーナ(英知)――これらは、3つの別々の道に見えたとしても、目的と目的地は同じです! これらは神我顕現という同一の目的地に向かう別の道です。ちょうど、花が実になって、その実が熟した果実になるように、行為から信愛が生じ、信愛から英知が生じるのです。

バガヴァン クリシュナは言いました。

私は何の行為もする必要はない
しかし、万人に手本を示すために、私はつねに行為に従事する


ウパニシャッドもこう述べています。

タスマイ カルマネー ナマハ
(私は行為に帰命いたします)


翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.13 C34

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