サイババの御言葉:信仰をあなたの息吹としなさい

日付:1982年8月23日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
サティヤ サイ女子大学の学生に向けた御講話より

信仰をあなたの息吹としなさい


世界中どこでも人々は身体的な風貌や外側の細部に過度な重要性を置いています。これは無知の表れです。実際、これが多様性と相違につながっています。皆さんは、商店街や映画館に行くことや、旅行することがあるかもしれませんが、そうした場所では人種やカーストや信条による区別はありません。とはいえ、私たちはある面において、そういった区別に遭遇します。なかには利己的な利害のために違いを誇張する人々もいます。しかし、真理は一つです。人間の本質はどこでも同じです。宗教、階級、その他の違いは、人間の内なる中核には存在していません。真我には、ブラーフマナ〔僧侶階級〕、クシャトリヤ〔武人・王族階級〕、ヴァイシャ〔商人階級〕、シュードラ〔奴隷階級〕、あるいは、富者や貧者といった個別の身分はありません。また、富者や貧者に属する特別な真理や、特定の国に属する真理もありません。真理はまったく同一です。真理は神の姿です。人々が身分を与えているのは、外側の状況に対してです。しかし、内なる真理の中核というものがあり、その中では万人が等しいのです。人間は、外側の体によって覆われた内なる真理を見る努力をし、その中にある一体性を悟らなければいけません。これは人間の根本的な義務です。皆さんは、世俗的な角度、霊的な角度、あるいは、何か他の角度から考えるかもしれません。そして、生と死があらゆる生き物にとって同じであることを見出すでしょう。人間がこの真理から逃れることはできません。

これと同じく、飢えや渇きも万人に共通です。この点に関しては、宗教、カースト、人種、金持ちと貧乏人の区別はありません。心(マインド、マナス)と命は万人に共通のものです。しかし、この2つをどう方向付けるかで、人の進化が決まります。心が怒りや嫉妬や色情などの特性から離れて神聖な思考を抱くとき、その人は敬虔であると見なされます。そのような人は、マーダヴァ〔クリシュナ神、迷妄の支配者の意〕の境地に達することさえできるかもしれません。人はマーダヴァになることができます。反対に、人は邪悪な特性に心を使い、自らを動物や悪魔の地位にすら堕落させるかもしれません。

目覚めよ、そして、立ち上がれ

体はガラス瓶のようなものです。いつでも壊れて砕ける可能性があります。ですから、自分の体が滅びる前に内なる真理を悟ることが必要です。内なる真理を悟るまでは、壊れやすい体を注意深く世話しなければなりません。ウパニシャッドはこう人々に強く勧めています。

ウッティシタ ジャーグラト
起きよ、目覚めよ


この意味はこうです。

「おお人間よ、無知の眠りから目覚めなさい。(自分の真理を悟るために)自分の未来にきちんと気を配りなさい」

人生は、知識の光の中で過ごされなければいけません。

「ナラ」はサンスクリット語で「人間」という意味です。「ラ」は「破滅」を表します。「ナ」は「〜がない」という意味です。つまり、人間は本質的に不滅なのです。五大元素のすべて、すなわち、空、風、火、水、地は、「ナラ」から生じました。「ナラ」に関して、人間を弱い存在であるとか、カルマ〔行為と行為の結果〕の束縛に捕らえられている存在であると見なすべきではありません。外側の肉体は滅びるでしょうが、アートマに破滅はありません。私たちの体は壷のようなものです。心の様相は壷に入った水のようなものです。中に入っている水が感覚や欲望の影響によってかき乱された状態にある間は、アートマの原理は不安定であるかのように見えます。実際は、アートマはずっと不動であり不変です。壷(体)が壊れた後でさえ、何があってもアートマは変わらずに存在し続けます。アートマには変化も破滅もありません。アートマには生も死もありません。アートマに関する限り、移動に巻き込まれることはありません。属性と相違は、もっぱら肉体のものであり、魂(アートマ)のものではありません。しかし、肉体を軽視すべきではありません。なぜなら、肉体は解脱を手に入れるための最も重要な道具であるからです。自分を束縛から解き放つには、肉体でダルマを行わなくてはなりません。

シャリーラ マーディヤム カル ダルマ サーダナム
体はダルマを行うようにできている


しかし、残念ながら、体は絶え間なく荷物を積み下ろす道具として使われています。皆さんは、正しい観点から「ダルマ」の意味を理解しなくてはなりません。

18のプラーナ〔神話〕全編で最も重要な2つの成句(アシュター ダーシャ プラーネーシュ ヴィシシュタ ヴァチャ)は、

パローパカラーヤ プンニャーヤ
他者を助けることは功徳なり

パーパーヤ パラピーダナム
他者を傷つけることは罪なり


です。それゆえ、つねに助け、決して傷つけてはなりません。

行為(カルマ)には3種類あります。それは、肉体の行為、精神の行為、言葉の行為です。「行為によって」と言う場合、それは肉体を使った行為だけを意味するのではありません。私たちが話す言葉や、熟慮する考えは、すべて行為の範囲に入ります。私たちは、これら3つの筋道にふさわしい純粋で神聖な行為に従事するよう、懸命に努力しなくてはなりません。私たちの言葉は誰のハートも傷つけるべきではありません。人々は一貫したバクティ(信愛)と配慮を通して、徐々に変容を手に入れます。カルマ(行為)とバクティ(信愛)とグニャーナ(英知)は、花と未熟な果実と熟した果実のようなものです。どれも同じ果実の様々な形であり段階です。

子供は少女になり、大人の女性になり、それから、お婆さんにもなります。人生の段階は様々ですが、個人の真我の原理は同一です。さらに、真我はあらゆる生き物において同一です。ですから、一体性と唯一性は自然の真髄であるということを悟らなければいけません。神性は、正しい認識をもって楽しむべきものであり、人々や物事を差別したり、分け隔てしたりするためにあるのではありません。人々は、過去世の行いの応報として、様々な姿形、思考、出来事を手にします。その他の点は一切同じです。食物、睡眠、恐怖、欲望は、あらゆる生き物にとって同じです。しかし、人間には生きているうちに高いレベルへと進化を遂げる能力があります。それは、絶えず感覚を制御すること、神へのバクティ、そして、善悪および永遠のものと一時的なものを見極めて識別することによって、可能となります。何か悪い考えが浮かんだら、すぐに識別心に助けを求め、「自分は本当に人間なのか? それとも動物なのか?」と、自問しなければいけません。「私は人間です」と言うならば、それはある種、半分真実です。しかし、あなたがそれらに加わるなら、それは完全な真実となります。若者の状態は、本来、熱血です。青年期にある若者は、ぐらつきやすい傾向にあります。ですから、より優れた人間性のレベルに到達するために、自分自身を確実に厳格にコントロールする必要があります。肉体的な力、精神的な力、感覚的な力、霊的な力は、規則正しい生活と、自分を肯定的な面に結びつけることによって、育み、活用することができます。

『ラーマーヤナ』に出てくるヴァーリ〔猿王スグリーヴァの兄。弟から王権と妻を奪って国から追放した〕とスグリーヴァという2匹の兄弟のうち、実際に力が強かったのはヴァーリのほうでした。ヴァーリは弟のスグリーヴァを都から追い出しました。ヴァーリの武勇は確かに素晴らしいものでした。ある日、ヴァーリが日課の儀式であるサンディヤー ヴァンダナ〔日の出と正午と日の入りの刻に行う礼拝〕をしていたときのことでした。力の強いラーヴァナ〔羅刹王〕がヴァーリに戦いを挑んできました。すると、ヴァーリはラーヴァナを脇の下に抱え込み、儀式を続けました。ヴァーリはそれほど力が強かったのです。スグリーヴァは怪力の兄を恐れ、4匹の大臣と共にリシュヤムーカ山脈に避難しました。ある日、スグリーヴァは2人の王子が山のほうへ歩いてくるのを目にしました。スグリーヴァは王子たちが光り輝いているのに気がつきました。スグリーヴァは2人がヴァーリの家来ではないかと疑い、2人の意図を確かめるためにハヌマーンを遣わしました。ハヌマーンは猿に生まれていながら驚くべき知性と力と人格を備えていました。ハヌマーンは慎み深くラーマとラクシュマナに近づいて、2人の正体を知りました。ハヌマーンは2人を両肩に担いで、リシュヤムーカ山に連れて行きました。それから、ラーマとスグリーヴァの間に友好関係が築かれ、ラーマはヴァーリを殺す約束をし、スグリーヴァはシーターを捜すのを助ける約束をしました。

ラーマの能力はヴァーリの力と同等でした。しかし、スグリーヴァはいくぶんか疑いを抱いていました。そこで、スグリーヴァはラーマを椰子の木が7本1列に並んでいる場所へ連れて行きました。ラーマに椰子の木を見せながら、スグリーヴァは言いました。

「もしあなたが1本の矢で全部の木を倒すことに成功したら、私はあなたの力を確信しましょう」

ラーマはまるで遊んでいるかのように、その課題を達成しました。スグリーヴァはラーマが聖なる人物であるという確信を抱き、ラーマにすっかり全託しました。人がマーヤー(錯覚を起こさせる自然の女神の力)を克服するためには、神の助けを求めなければなりません。というのは、マーヤーは完全に神の支配下にあるからです。たとえ力と知性と教養があったとしても、マーヤーを克服するのは誰にとっても難しいことです。ですから、何を成し遂げるにも、神の助けと恩寵を求める必要があるのです。

若い人は欲望を抑える必要があります。一羽の烏(カラス)がたまたま池の小さな魚をついばみました。それを見た他の烏たちが、魚を狙ってその烏を追いかけ始めました。ひっきりなしに烏の群から追いかけられて、その烏はへとへとに疲れ果ててしまいました。そして、問題の原因は魚であるということに気がつきました。そこで、烏はくちばしから魚を放しました。すると、烏の一群はその烏を追いかけて困らせるのをやめました。この寓話から、私たちの困難の原因は欲望であることは明らかです。それゆえ、欲望の根源を抑制しなければいけません。欲望に対処するための最も容易な方法は、自分の欲望の一切を神に捧げることです。神の慈悲は海ほどのものです。すべての欲望の流れは、神という海に向かって流れなければいけません。そうして神に全託することによって、自らを救済しなければいけません。

真理はあなたの永遠の伴侶

人はひっきりなしに3種の煩わしさに悩まされています。その3種とは、富に関する煩わしさ、妻に関する煩わしさ、子供に関する煩わしさです。人々はこの3つのために様々な問題にさらされています。しかし、真理のためには、ハリシュチャンドラ王のように、たとえそれが大きな犠牲を伴うものであったとしても、いかなる苦難にも立ち向かう覚悟ができていなければいけません。親戚や友人は、あなたが強壮で健康で裕福である間は、あなたを尊敬するでしょう。彼らがあなたに付き添ってくれるのは、せいぜい墓地か火葬場までです。一方、真理(サティヤ)はあなたの永遠の伴侶です。真理は神です。神はあなた方の真の友です。他の友人たちは池の蛙のようなものです。池の水が干上がれば、蛙たちは一匹残らず池から離れていきます。ですから、友人と深い関わりを持つのは適切なことではありません。もちろん、皆さんは、誰か困っている人がいたら助ける心構えでいなくてはなりません。しかし、皆さんは、神のために、神の近くで、神の中で生きなければいけません。さらに、万人の内に神を見なければいけません。

完全な自由(スヴァタントラ)〔自立、独立〕を得た状態で生きるには、教養を身に付けることが必要です。タントラはハートを意味し、ヤントラは体を意味し、マントラは呼吸を意味します。それゆえ、自立とは神に満ちた生活を意味します。同様に、「スヴェーッチャー」(自由)とは、「スヴァ」+「イッチャー」であり、アートマ〔スヴァ〕への望み〔イッチャー〕を意味します。アートマの知識、自制、アートマの至福が、「スヴェーッチャー」(自由)です。皆さんはこうした神聖な思いを育まなければいけません。そうすれば、将来、皆さんの子供たちも自由の中で成長することでしょう。どこへ行っても、皆さんは不安や恐れを見出します。神への揺るぎない信仰によって恐れを追い払わなければいけません。信仰があればどんなことでも成し遂げることができます。

ギーター〔『バガヴァッドギーター』〕は、この世俗の海で上手に泳ぐ方法を教えています。家族は海のようなものです。人生は川の流れです。ギーターは、人生という川の流れの中で浮かぶのに大変役に立ちます。ギーター、聖書、コーラン、その他の諸聖典は、実に実用的な道具であることを心に留めておかなければいけません。諸聖典はただの理論的な哲学なのではありません。ここ、アナンタプルに来るには、特定の道を進んでこなければなりません。そうしなければ目的地には到達しません。第一歩は、正しい道を見つけることです。それから、その道を進み始めなければなりません。このように、もし皆さんが神に到達したいのであれば、ギーターを手に持って、「ギーター」だとか、「神」だとか言って言葉を唱え続けるだけでは十分ではありません。ギーターの指示に従うことが必要です。アルジュナがクリシュナに言ったことを忘れてはなりません。

カリシュエー ヴァチャナム タヴァ
私はあなたの命令に従います


そのとき初めて、クリシュナは全責任を負い、アルジュナを戦いに勝たせることができました。クリシュナは、「パールタ サーラティ」〔大地の息子の御者、「パールタ」は「大地の息子」の意でアルジュナの別名〕とも呼ばれています。地上の兄弟姉妹は「パールタ」と呼ばれます。それゆえ、すべての人は「パールタ」です。神はあなたの体という馬車の御者であるということを、完全に信じなくてはいけません。

ドリタラーシュトラ〔カウラヴァ百人兄弟の父である盲目の王〕はサンジャヤ〔戦場で起こったことを見てドリタラーシュトラに報告をするという役割を与えられていた人物〕に尋ねました。

「おおサンジャヤよ、クルクシェートラ〔マハーバーラタの戦場〕(ダルマの地として知られる)で、わしの息子たちとパーンダヴァ兄弟は、何をしておるのか?」

戦場へ赴けば、人は当然のことながら戦いに従事するでしょう。しかし、その質問は、誰が勝利を手に入れるのかということでした。そのため、サンジャヤは戦争のすべてを順序立てて語り、それから、最後にこう言いました。

ヤトラ ヨーゲーシワラハ クルシノー
ヤトラ パールトー ダヌルダラハ
タトラ シリール ヴィジャヨー ブーティヒ
ドゥルヴァー ニーティヒ マティ(フ) ママ

ヨーガの主なるクリシュナの在るところ
弓矢を携えたアルジュナの在るところ
幸運、勝利、繁栄、そして、永遠なる道徳あり

〔バガヴァッドギーター最終章最終節〕


クリシュナとアルジュナが共に立つところには、必ず勝利があるでしょう。「ダヌルダラ」とは、「弓を握っている人」のことです。その真の意味は、「信仰をしっかり握って手離さない」ということです。「アルジュナ」〔白、朝もやの色〕とは、「純粋なハートを持つ人」のことです。ですから、神は純粋なハートと揺るぎない信仰を持つ人に付き添う、ということは明らかです。神があなたと共にいるならば、成功は必ずついてきます。ですから、信仰をあなたの呼吸だと考えなさい。あなた方全員が、人生において成功を勝ち取りますように。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women's Role C33

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