サイババの御言葉

日付:1982年10月21日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭の御講話より

子羊


私たち一人ひとりは宇宙意識(ブラフマン)の表れであり、その宇宙意識に帰融することは、努力によって得られる新たなる達成ではありません。それは既存の事実に一瞬にして気づくことです。人はすでにブラフマンであり、生来そうであり、不可分にそうなのです。

塩は海の性質の表れであり、さまざまな土地で、さまざまな場合に、さまざまな形で、さまざまな混合物の中に見られます。しかし、塩は自らの真実を保持しており、その真実はその味によって認識可能です。海に源を発する塩は、牛乳であろうとシロップであろうと、透明な無味の水であろうと、自分と結び付いたすべての物に海の性質を加えます。それと同じように、個別化された宇宙意識の火花は、自分自身を繭で覆い、姿形と名前をまといました。それがつまり、人間です。それが自らの本質的なアートマの性質を手放すことは決してできません。

ウパニシャッドはこの義務を強調し、その責務を無視したり逃れたりした場合に付いてくる危険を人に警告しています。塩の結晶は自分のものだと海が明言しているのと同じように、主はギーターの中でこう述べています。

ママイヴァームショー ジーヴァローケー
ジーヴァブータッ サナータナハ

――永遠なるものである私の一部が
この生命の世界で生命となった
〔個我という多は、私の一部から生じた〕

〔バガヴァッド ギーター15章7節の前半〕

ヴェーダが生き物たちに「不滅なる者の子供よ」、「不滅の至福の継承者よ」と呼びかけているのは、驚くことではありません。

何年か前、ある裕福な大地主が村の劇で洗濯夫の役を演じ、観衆から大きな評価を得ました。大地主は、洗濯夫のように話し、動き、大声で食ってかかって交渉しました。しかし、それは彼が大地主であることに何ら影響を及ぼすことも傷を付けることもありませんでした。それと同じように、体と心(マインド)の複合体にはさまざまな姿形と名前、あるいは役があるかもしれませんが、照覧者であるアートマ〔真我/本当の自分/内在の神〕はそれらのどれも有していません。

名前や姿形は、劇中に舞台にいる洗濯夫を見た時にわかったように、日常生活において一時的に有効なものです。劇中の洗濯夫は、独特な用語を使い、洗濯夫に特有な慣習やしきたりに従わなければなりません。そうしなければ、劇は観衆に印象づけることができません。実のところ、人間のあらゆる行いは神の劇の一場面であり、それゆえ、計画と目的にかなった制限や限度が課せられているのです。

ヴェーダのヤグニャと儀式の意味

たとえば、技術者は特定の容認された慣行や義務的なルールを尊重してそれに従うよう訓練されています。基礎の深さは構造物の高さに比例していなければなりません。地上の空間によって、その上に建てられる建物の面積と高さを決めなければなりません。同様に、画家も全体の比率やバランス、対称性や調和に注意を払う必要があります。

私たちは今、マントラを通して恩寵を招く科学に精通しているパンディト〔学僧〕たちが執り行う、ヴェーダの儀式であるヤグニャ〔供犠〕を見ています。パンディトたちは、何万年も前に定められた規則に従って供犠の護摩壇を準備しなければなりません。正式にこしらえた護摩壇に点火され、献供される祭火は、すべてに浸透している火の原理を称賛するヴェーダの賛歌を唱えつつ、木を回して〔摩擦によって〕火を起こさなければなりません。そうすることによって聖化された火は、神聖なものとなって、人と神の間の使者として働くことができるようになるのです。護摩壇は、遍在なる全能者のさまざまな側面へと宛てられた、正しい切手(誠実さ)の貼られた祈り(手紙)を受け取るために、至高者の認可を受けた郵便ポストとなります。

家庭の火は料理をするために保たれ、また、熱と光を得るために別の形で確保されていますが、それらは世俗的なものであり、神聖ではありません。遺体を焼く火はタブーです。これらの火もいくらかは限度や制限は設けられていますが、犠牲の火〔ヤグニャの祭火〕には最も多くの制限や処方があり、最も意味のある献供の方法や、火を燃え上がらせる方法があります。

供犠に関する神話

たとえば、その手紙〔ヤグニャでの祈り〕はこの上なく神聖なものであるべきだと考えている人々が後援するヴェーダのヤグニャでは、子羊が生贄にされ、子羊の横隔膜〔ハラミ/サガリ〕が供物として棒げられています。しかし、行為(カルマ)は、それから導き出せる英知の光に照らして検討する必要があります。ヴェーダの神話や概念は、衣をまとった象徴です。「横隔膜」といったような単語は象徴であり、寓話と比喩の双方の幅広い解釈が可能です。

このことをさらに分析してみましょう。羊の子は人間の赤ちゃんと同じくらい柔らかです。羊の子は、人を魅了する、遊び心にあふれた無垢の権化です。羊は従順で無害であり、羊に他者を傷つけることは不可能です。子羊は最も純粋な天使のごとく神聖です。胸腔と腹腔を隔てている横隔膜は、霊的なものと世俗的なものを隔てる英知の層の象徴にほかなりません。横隔膜は浄性のハートが納められている小箱の象徴です。神が受け取るのはそのような供物であり、それより劣る供物は受け取らないでしょう。

ですから、横隔膜という表現が意味しているのは、人はハートを純粋な愛の源泉である宝庫として保ち、それを神に捧げなければならないということです。そこには、かわいい小さな子羊を虐殺する意図などありませんでした。子羊となり、愛に包まれた無垢なハートを捧げること――これがそのメッセージです。死を免れない人間が、死を免れない別の生き物を殺すことで何が得られますか?

ヴェーダのカルマ カーンダ〔行為の部門〕は、ウパーサナ(礼拝/実在への崇拝)に成功し、束縛から解放してくれる英知を得ることができるよう、心(マインド)を浄化しなければなりません。こうしたヴェーダの行為(カルマ)、すなわち儀式が、ヤグニャ〔供犠〕と呼ばれているのです。

ヤグニャとは、「手放すこと」や「捨離」、すなわちティヤーガを意味します。正確には何を手放す必要があるのでしょうか? 富でしょうか? これはすこぶる簡単です。家庭でしょうか? これも難しいことではありません。親類縁者から離れ、森に入って隠居することでしょうか? 多くの人がそれをして、それを自慢に思うようになっています。ヤグニャが要求しているティヤーガとは、誇示、慢心、妬み、貪欲を投げ捨てること、要するに、エゴそのものを投げ捨てることです。

これのみが、ヴェーダに定められているあらゆる儀式の目的です。それは無私無欲と普遍的な愛を促進することです。五感の扇動、怒り、激情、憎しみに集中するのは、獣性の特徴です。人間は、そうした特徴をほんのわずかでも持っていることを恥じなければなりません。人間性の特徴、そして、あるべき姿は、愛、堪忍寛容、無執着、捨離、真実です。

つまらないピカピカ光るがらくたを神に求めない

イエスは公言しました。

「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。叩けよ、さらば開かれん」

もちろん、あなた方は求め、尋ね、叩いています。しかし、あなたは何を求めていますか? あなた方は、永遠に続く喜びよりも、つまらないピカピカ光るがらくたを好みます。子が求めるものが与えられない時、母親は残酷だといって非難してはなりません。母親は病気の子供がごちそうを欲しがっても与えません。母親をそのように表面的に残酷にさせているのは、母親の愛情です。それと同じように、あなたが求めるものを与えることを神が拒否するのは、明らかに神の慈悲なのです。

あなた方は尋ねてはいますが、あまり返答されていません。それはなぜでしょう? それは、あなたが神以外の誰かに話しかけているからです。その問いはあなたのハートからわき起こったものではないからです。切望が十分ではないからです。動機が利己的で不純だからです。

あなた方はドアを叩き、ドアが開かないと不平を言っています。神はあなたのハートの中に住んでいますが、あなたが自分のハートに鍵をかけているので、愛が中に入れないのです。だから、神は無言で無反応なのです。ドアをこじ開ける必要はありません。あなたがその中にいる神に気づけばよいのです。そのドアは、愛のためならいつでも開きます。ノックは不要です。愛が自動的にハートを光と喜びで明るくするでしょう。一なる者を知った時、もうそれ以上尋ねる問いはなくなります。

このヴェーダのヤグニャの完了は、欲望を手放すこと、無二である一なる者に気づくことにあります。


*この御講話はサイラム ニュースに掲載予定のSathya Sai Speaks Vol.15 C50の御講話の要約です。

ヴェーダ プルシャへの七日供犠
1982年10月21日に行われた御講話の要約
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.15 C51

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