サイババの御言葉

日付:1986年5月 場所:ブリンダーヴァン
トライー ブリンダーヴァン二周年祭における御講話より

ヴェーダのメッセージ


すべてのヴェーダとシャーストラの真髄は、この一文に要約することができる
"万物のうちに、そして汝のうちに宿るアートマは、唯一無二なり"
解脱を求めて、人は三界の無数の神々を崇める
それはいったい何の役に立つのか?
人は相変わらず束縛されたままである
もし自分のエゴをかなぐり捨てることができれば、解脱はもはや必要ない
解脱はすでにその人のもの

ヴェーダは無限であり、永遠の真理の啓示としてリシ〔聖仙〕たちに啓示されたものですが、人類への恩恵のために聖仙ヴィヤーサによって集大成され、三編の賛歌集において提示されました。それが、リグ ヴェーダ、ヤジュル ヴェーダ、サーマ ヴェーダです。

ヴェーダは、ブラーフマナ、アーランニャカ、ウパニシャッド〔いずれも本集に付随する補助的文献〕と共に、「人生の四つのアーシュラマ」(期)、すなわち、ブラフマチャルヤ〔学生期、がくしょうき〕、グリハスタ〔家長期〕、ヴァーナプラスタ〔林住期〕、サンニャーサ〔遊行期〕に適した行為の指針を与えています。加えて、ヴェーダは、「四つのプルシャールタ」(根本的な人生の目的)、すなわち、ダルマ(正義)、アルタ(物質的幸福)、カーマ(悟りへの欲望)、モークシャ(解脱)の追求に不可欠な案内書の役割も果たしています。

バーラタ〔インド〕の文化と伝統は、ヴェーダの権威とメッセージに基づいています。ヴェーダは神聖な原理を実証するものを意味します。ヴェーダは天地万物に浸透しています。ヴェーダは真理の具現です。ヴェーダは、「八つの小川」、すなわち、シャブダブランマーマイー(遍在の宇宙音としての現れ)、チャラーチャラマイー(一切の動くものと動かざるものに浸透しているもの)、ジョーティルマイー(遍在の光輝)、ヴァーングマイー(神聖な言葉)、ニッティヤーナンダマイー(永遠の至福)、パラーットパラマイー(普遍なる意志の具現)、マーヤーマイー(迷妄の具現)、シュリーマイー(繁栄の具現)の中に流れています。

プルシャールタ

ヴェーダは、こうしたさまざまな方法で人類の安寧を促進するために役立ってきました。しかしながら、ヴェーダは、パラ ヴィッディヤー(完全な知識)と区別して、低い知識、アパラ ヴィッディヤーであると見なされてきました。ヴェーダの儀式主義は、世俗に関することを扱うには役立つけれども、人知の及ばないものを理解するにはあまり役立たないものと見なされていたのです。ヴェーダは、世俗と天国の喜びを手に入れること、苦しみを乗り越えること、目的の追求を奨励し援助することに役立つものでした。ヴェーダが主に関わったのは、初めの三つのプルシャールタ、ダルマとアルタとカーマでした。モークシャ〔解脱〕は、(ヴェーダのマントラを唱えて行われる儀式やヤグニャとは異なるものとしての)グニャーナ〔英知〕を通してのみ、獲得することが可能でした。高次の英知は、儀式や富や子孫によってではなく、犠牲や放棄によってのみ勝ち取ることができるのです。

霊的な人生で克服すべき敵

今や、あらゆる修養法や修行(サーダナ)が、世俗的な関心事と結びつき、利己的な欲望によって動機づけられています。霊的ゴールは、そうした世俗的なものを超越しており、諸聖典によって定められている道理と限界を超えています。これがモークシャ〔解脱〕の概念です。モーハクシャヤ = モークシャ。つまり、モーハ〔執着、迷妄〕の除去〔クシャヤ〕がモークシャです。モークシャの概念はパラマ プレーマ〔至高の愛〕(至高者への愛)です。

この至高の愛の境地を悟る過程で、いくつかの相手を打ち負かさなければなりません。その中でまず倒さなければならいのが「六つの敵」、すなわち、カーマ(情欲)、クローダ(怒り)、ローバ(貪欲)、モーハ(愛執)、マダ(高慢)、マーッツァルヤ(嫉妬)です。なんとかこの六つの敵を打ち負かすことができると、人は霊的進歩の道の行く手に立ちはだかる「八種の慢心」に直面させられます。これには、富への慢心、体力への慢心、若さへの慢心、美しさへの慢心、学識への慢心、権力への慢心、苦行への慢心があります。これらのさまざまな慢心は、人を真のゴールから遠ざけます。現代人は、これらのうちの一つあるいは複数の慢心でいっぱいになっています。

ですから、人間にとって第一に必要なのは、慢心を取り払うことです。富を持っていない人が億万長者であるかのように見せかけ、学識のない人が学者であるかのような振りをしています。貧弱で虚弱な人がキングコング(レスラーのチャンピオン)のように肩をそびやかして歩いています。こうした慢心の基盤となっているものは何でしょうか? それはどのくらい長持ちしますか? 権力を振りかざしている人も、翌日には権力を失うかもしれません。富や地位への慢心で得意満面になると、人は内なる神性を忘れます。そのような人々は、本質的には一時的で永続しないものに、依存しているのです。鳥は揺れる木の枝に止まっていても恐れがありません。なぜなら、鳥は枝に身の安全を頼っているのではなく、自分の羽に信頼を置いているからです。これに対して、人間は自分の内なる真我に信頼を置いていません。人間は他のものに頼っています。人間は地位や役職のためであれば自分を汚すことさえ厭(いと)いません。この嘆かわしい窮状の根本原因は、望ましくないものへの発想のよくない渇望です。

所有することより与えることに喜びがあることに気づきなさい

人間の欲望には限りがありません。人間は物事に執着していますが、その中に自分が死ぬときにいっしょについて来るものは何もありません。人は、所有することや貯蓄することよりも、与えることに大きな喜びがあることに気づくべきです。捨てることは、得ることと同じように不可欠なものです。もし息を吸った後に吐かなければ、人は生きられないでしょう。

人の悲しみと不幸の原因は、所有感から生じる財産や地位への執着です。永続する幸福を味わうには、「私」と「私のもの」という感情を取り除くよう努力奮闘しなければなりません。すべてが順調に進んでいるように見えるとき、人は自分自身を含む一切を忘れます。そうして業績と獲得を得た結果、エゴが膨れ上がります。自分は、自分が所有している物の一時的な受取人に過ぎず、それらのどれ一つにも永久の所有権はないということに気づくべきです。人は、権力や地位を、それら自体に関連する義務を果たす責任を伴う、道徳的な任務と見なすべきです。あらゆる行為をこの道徳的責務の精神で行ったときにだけ、人は純粋な幸福と満足を味わうことができるのです。

生まれとグナ

ヴェーダは、人間の適切な振る舞いの基礎となる規範を定めています。しかし、その規範は、順守されるよりも違反されています。第一の義務は、人の神聖な本質を探究することです。神は遍在であり、遍満しています。宇宙には五大元素が満ちわたっています。空気や水や土には無数の微生物がおり、私たちが空気を呼吸し、水を飲み、大地を踏みしめる中で殺されています。このような状況ですから、完全な非暴力は実行不可能です。私たちが努力すべきことは、どのような生き物にも、意識的、意図的には害を与えないようにすることです。これがアヒムサー〔非暴力〕です。非暴力を守るためには、一なる至高者が万物に宿っているという意識を育てなくてはなりません。この確信があれば、何者に対しても害を及ぼす傾向はなくなるでしょう。

人間として生まれておきながら、多くの人は自らの人間的性質を忘れがちです。人間の種類を決定するのは出自や姿形ではなく、その人の性質です。たとえば、蓮の花はぬかるみの中から生えてきますが、寺社の神仏の頭上に自らの居場所を見つけます。蓮の花がこの栄誉を手に入れたのは、自らの性質のゆえです。それと同じように、私たちは出自や境遇に関わらず、人間的特質を育てるべきです。私たちが呼吸する空気や飲む水は、カーストや共同体の区別を知りません。空や火は、そのような区別を設けません。大地だけが、境界線や相違感によって損なわれています。

私たちは自分の小さな土地の周りに柵を立てるかもしれません。しかし、空の上まで柵を延ばすことができますか? あるいは、周囲の空気にまで柵を広げることができますか? では、なぜ私たちの霊的視野を制限するそのような狭量な考えを抱くのでしょう? 地位、知識、権力といった、私たちが所有する一切の財産は、どれも一時的な束の間のものです。私たちの命それ自体、いつ何時尽きるとも限りません。そのような状況の下で、人生を好き嫌いのために台無しにするのは、実に嘆かわしいことです。あなたに与えられた貴重な時間を、わずかなりとも無駄にすべきではありません。

教育と人格

今日の青年は、規律のない無益な人生を送っています。青年たちは、どのような規範にも従わず、尊敬と感謝の念に欠けています。犬でさえ深い感謝の念を持っているというのに、青年は年長者を敬わず、自分の親に感謝を示しません。そのような人間に教育は無駄です。そのような人間でも、生計を立てることはできるかもしれませんが、教育を受けていない道端の物乞いでさえ、生きていくための金銭を十分稼いでいます。単に生計を立てるだけなら教育は必要ありません。たとえ三日しか生きられなくとも、あなたの人生は正しい有意義なものであるべきです。あなたの振る舞いは善良で立派なものであるべきです。もし、正しく振る舞わないのであれば、その人の高い地位や身分に意味はありません。もし、自分は偉大な学者であると主張しても、良い性質をほとんど持ち合わせていないのであれば、その人はどんな評判を得ることができますか? 無学文盲の人ですら、良い性質を持っていれば尊敬を勝ち取ることができます。学位は、人の心〔マインド〕を神にではなく富や会社に向けさせています。人格こそが教育の第一の目的であるべきです。教育を受けた人は、自らの振る舞いと性質のゆえに尊敬されるべきなのです。

ニーティ(倫理)は、自分を人間と呼ぶすべての人にとって最も重要なものです。倫理には多くの性質が含まれています。倫理には、社会への敬意、人の人格を尊重すること、愛国心、健康への配慮、親類縁者への愛、知識への渇望が含まれます。これらは人間にとっての五つの生気と見なされるべきです。しかし、今日、これらはほとんど存在していません。

学生の第一の義務

愛国心とは、国の古来の文化を誇りに思い、決してそれらの価値を下落させないという決意を抱くことです。学生にとっての第一の義務は、親を愛すること、親に感謝することです。現代の学生の不品行は、親に大きな責任があります。親は子どもたちを十分に監督していません。子どもが生まれると、人はそれを祝います。しかし、本当のお祝いは、子どもが良い評判を得て、両親に名誉をもたらした時にだけ、すべきなのです。子どもを正しく育てない両親は、親の役割に値しません。子どもへの愛情とは、子どもの堕落を許すということではありません。そのような親は、子どもたちに好き勝手にやらせて最終的に大きな災難に直面したドリタラーシュトラ〔カウラヴァ百兄弟の父親〕のようなものです。『マハーバーラタ』は述べています。

「愚か者は子がいないことを嘆き悲しむ。しかし、百人の子がいたカウラヴァの王に何が起こっただろう? その子らは父にどんな良いことをしただろうか? 聖者シュカには子がいなかった。シュカはそれで不幸な命運を体験しただろうか? シュカは常に至高の幸福に浸っていた」

人の生まれは本人の過去世での行為の結果です。ヴィシュヌ神の天界の門番であったジャヤとヴィジャヤは、聖者サナカ、サナンダナら〔ブラフマー神の心から生じた四人の聖者〕の呪いによって、悪鬼〔ラークシャサ、羅刹〕として地上に生まれてきました。自らのラジョグナ〔激性〕とタモグナ〔鈍性〕が優勢であったため、それらが偉大な聖者たちを軽視するよう促し、そのために二人は呪いをかけられたのです。神の御前で高い地位を享受していたにもかかわらず、二人は謙虚さと服従という道徳的な価値を吸収していませんでした。それゆえ、聖賢たちから呪いをかけられ、ラークシャサとして生まれてきたのです。

ヒランニャカシプは最強のラークシャサでしたが、その息子のプラフラーダは最も偉大な神の信者でした。なぜこのようなことが起こったのでしょう? それはプラフラーダが〔母の胎内で〕聖者ナーラダから吸収した神聖な教えのゆえです。ラークシャサの息子がヴィシュヌ神の偉大な信者となり、ヴィシュヌ神の最も近くにいたジャヤとヴィジャヤはラークシャサに生まれたのです! この差の主な原因は、道徳的気質です。同様に、人間として生まれておきながら邪悪な性質を示すなら、その人は人間ではなく悪鬼です。ラークシャサとして生まれても、神聖な美徳を有していれば、その者は本質的には神であり、ラークシャサではありません。ですから、人の善悪は、縁故や姿形によらず、その人の気質によって判断されるべきです。有徳の生活を送ることを学びなさい。というのは、徳がなければ人生はまったく無益だからです。

ヴェーダによって与えられた御教え

人はヴェーダの指示によって導かれなくてはなりません。三ヴェーダ、すなわち、リグ ヴェーダ、ヤジュル ヴェーダ、サーマ ヴェーダのうち、リグ ヴェーダには三ヴェーダすべての真髄が含まれています。その主要な教えは、「ヴィナヤ」(謙虚さ)と「ヴィデーヤター」(服従、義務への忠誠)です。

ヤジュル ヴェーダは「ダーラナ」(不動、確固たること)を命じています。これは、どのような困難に遭遇しようとも、どのような辛苦を経験しようとも、不屈の精神と堪忍を持って己の義務を果たすべし、という意味です。この二つの方法を通して、人は自分の人間的性質を最高限度まで伸ばすことができます。

サーマ ヴェーダの最も重要な教えは「ヴィグニャータ」(礼節)です。これは、人に対してどう身を処するか、年長者や先達に対してはいかに振る舞うか、客人はどう歓待するか、神にはどのように近づくか、そして、いかなる状況下においても正しい振る舞いとはどのようなものであるか、を述べています。

これら三つのヴェーダ(トライー)は、正しく生きるための基本となる規則を定めています。それが、「ヴィデーヤター」(服従、義務への忠誠)と「ダーラナ」(不動、確固たること)と「ヴィグニャータ」(礼節)なのです。愛の原理は、ヴェーダの定めるこの三つの指針を一つに統合します。

数字の三の神聖な意味

聖賢たちはヴェーダを簡潔に「トライー」と呼びました。「トライー」とは三という意味です。三は神聖なものを連想させる意味深い数字です。人間の属性、サットワ〔浄性〕、ラジャス〔激性〕、タマス〔鈍性〕の数は、三つです。人間の体の病気を引き起こしがちな場所は、頭、腹、足の三つです。礼拝においても、三には神聖な意味があります。シヴァ神にビルヴァ〔ベルの木〕の葉を捧げるとき、信者たちはシヴァ神を、三つの属性と三つの武器と三つの目を持つお方と表現します。時間にも、過去、現在、未来という三つの相があります。今日の世界の混沌は、人々が現在を無視して、取り返すことのできない過去をくよくよ考えたり、予測できない未来を思い巡らせたりすることが原因です。人々が関心を持つべきものは、現在の自分の義務です。人の第一の義務は、自分に生来備わっている神性を発見し、人生を変容させ、神は創造世界の万物の中に浸透しているということに気づくことです。

現在は過去の産物であり、未来は現在の結果です。現在の中には過去と未来の両方が含まれているのです。ですから、善い思いを抱き、善い行いをして現在を生きなさい。あなたのハートから一切の悪感情を取り除いて、純粋で神聖なハートにしなさい。

皆さんは多くの問題に直面するかもしれません。問題で頭がいっぱいになるのを許してはなりません。日々の活動の時間割りを作りなさい。夕刻の三十分か一時間を、自分の問題を熟考するために取っておきなさい。そうすれば、問題の解決策を見出すことができるでしょう。もし四六時中心配ばかりしていれば、あなたは時間を無駄にし、問題は解決できないでしょう。

識別心を育てよ

あるとき、一人の阿片常用者が私の許へ来て、中毒から脱け出そうと努力を重ねているけれども阿片を止めることができないと言いました。スワミはその人に、自分がいつも吸っている阿片と同じ大きさのチョークを一本用意して、それを使って石版の上に毎日三回「オーム」と書き、その日に吸う阿片の大きさをそのチョークと同じにするようにと提案しました。チョークが減るにつれて毎日吸う阿片の量も減っていき、チョークと阿片は月末までになくなりました。こうした規則正しい実践によって、人は悪癖を克服しなくてはなりません。

学生は、何が正しくて何が間違っているか、何をしてよく、何をしてはいけないかを知るために、識別力を育てるべきです。学生は物理や化学などさまざまな教科を学習していますが、それを知ることにより他の一切を知り得る一つの知識があります。それはアートマの知識です。アートマの知識は海で沐浴をするようなものであり、それはすべての聖河で沐浴するに等しいのです。自分を信じることと神を信じることが、偉大さの秘訣です。自分を信じない人は、神を信じられません。

あるとき、シャンカラーチャールヤ〔シャンカラ〕は、自分のもとに来て「ジャガット ミッティヤー」(世界は非真である)と言う弟子に、こう語りました。

「世界が非真であるのなら、己に関する真理を発見するよう努力しなさい。そうすれば一切のものに関する真理を知るであろう」

シャンカラーチャールヤは言いました。

「君は非真ではない。君は至福である。しかしながら、君は、自分は体であり、気まぐれな心〔マインド〕であると考えている。それらは移ろいやすく、変わりゆくものだ。不変にして永遠なる純粋意識を求めなさい。もし自分を体と同一視するなら、真理を知ることはできないだろう。永遠のものと束の間のものを識別することを学びなさい。ブッディ(理知)を使い、心の気まぐれに負けないようにしなさい」

皆さんは、今、トライー ブリンダーヴァン〔バンガロールのホワイトフィールドにあるスワミのお住まい〕にいます。三つのヴェーダはブリンダーヴァンにあります。皆さんのハートがブリンダーヴァンです。ハートは三つのグナ〔鈍性、激性、浄性〕を有しています。ブリンダーヴァンであるハートにおわす主を体験することが、アーナンダ(至福)です。三つのグナは、扇風機の三枚の羽根のように調和していなければなりません。識別心のスイッチを押せば、神聖な愛の電流が扇風機に流れて三枚の羽根が調和して回転し、あなたは涼しい至福の風を体験することでしょう。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.19 C10

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