サイババの御言葉

日付:1981年12月31日
サティヤ サイ女子大学での御講話より

偽りから真実へ


教養を身に付けたからといって尊大になってはいけない
その学識がどれほど偉大であるというのか? 謙虚さこそが良き教養の姿
知識は量り難いということを知りなさい
自分の尊大さと有害なエゴを捨て去りなさい


教師の皆さん、女子学生の皆さん!

毎日、私たちは、母親、父親、教師、神といった言葉に出くわします。これらの言葉には計り知れない意味と喜びと甘さが染み込んでいます。赤ん坊が生まれるやいなや、母乳を与え、あらゆる世話をするのは母親です。母親は新生児が出会う最初の人間です。母親はその子を父親に引き合わせる人です。それから、父親は子供を育てる責任に着手し、その後、子供を教師のところへ連れて行きます。世俗の学問と共に、グル〔導師〕は敬神の道へとつながる人知を超えた教育を施します。

ですから、母親と父親と教師は、人のハートに神を伝え、神を据える人なのです。だからこそ、この三つの言葉は、万人の生涯において、傑出したものと見なされるのです。私たちは、これらに似たものを、バクティ〔信愛〕、英知(グニャーナ)、無執着(ヴァイラーギャ)、タットワム〔真性〕、解脱という側面に見出します。これらの側面は大変親密な相互関係にあるため、互いに切り離すことができません。

最初の面はバクティ〔信愛〕です。バクティは、類まれな神聖かつ永遠なる原理にかかわる知識を教えます。不二の認識は英知として知られています。バクティの道は、いくつかの礼拝の方法を通じて、類まれな形の知識を教えます。この理解は、少しずつ私たちに、「サルヴァム ヴィシュヌマヤム ジャガト」、すなわち「全世界はヴィシュヌ神に満ちている」という概念をもたらし、私たちに、一時的な欲望から、解脱を求める願望へと導きます。その真性の英知(タットワ グニャーナム)とは、「アヤム アートマ ブランマー」(この真我は神なり)や「アハム ブランマースミー」(我は神なり)といった格言を意味します。真性の英知とは何でしょう? 世界(ジャガト)とは何を意味するのでしょう? アートマとは何でしょう? 個我〔ジーヴァ〕とは誰のことですか? これらの側面に関する知識(あるいは探求)は、私たちが神すなわち至高の魂に融合するのを可能にしてくれるでしょう。

不二一元は、不二、あるいは唯一の原理、または解脱として知られています。『バーガヴァタム』は、バクティ、英知、無執着の原理を定義する基準となる聖典です。バーガヴァタムという語の中には、「バー」「ガ」「ヴァ」「タ」「ム」という五つの音節、すなわち五つの文字があります。これらは人体に不可欠な五つの生気であり、五つの鞘であり、五つの感覚器官です。この五文字は、信愛、英知、無執着、真性、解脱という五つの側面を暗示しています。「バ」はバクティ〔信愛〕、「ガ」はグニャーナ〔英知〕、「ヴァ」はヴァイラーギャム〔無執着〕、「タ」はタットワ〔真性〕、「ム」はムクティ〔解脱〕を意味しています。バーガヴァタムは神に関係する側面を超えて拡大します。

バクティ〔信愛〕の側面は、人を元気にさせるような書き方で描かれています。そうすることで、神の神聖な遊戯が日常生活の中で人々に記憶され、楽しまれ得るのです。『バーガヴァタム』には神と人とを結びつける神性が詳しく説明されています。『バーガヴァタム』にはすべてが含まれています。『バーガヴァタム』は、バクティ〔信愛〕、英知、無執着の原理を通して向上をもたらします。『バーガヴァタム』は、人間はいかに進化して人として生まれたか、人としての生の背後にある目的や原因、それはどのような理想を伴うのか、その内なる意義は何か、その目的は何か、等々を述べています。私たちはこういった側面をよく理解するよう努めなくてはなりません。学生だったプラフラーダは、級友たちに次のように話したことがあります。

「そこには神聖さも神の栄光も存在しないのに、なぜ生まれては死に、また生まれ変わるという惨めな繰り返しをしているのだろう? 賢明な知者は、生も死もない道を探し出す。」

人が手に入れることのできる最高の学位

私たちはこれまでずっと見てきました。人々は死んでいきます。人々は生まれてきます。ゴールは何でしょう? 「道を探し出す」とプラフラーダは言いました。その道とは何でしょう? 真の道、それは私たちが来たのと同じ道です。私たちは、ルート(道route)とルート(根源root)を忘れてしまったために、探しているのです。私たちは、世間の楽しみという惑わしのせいで、根源を忘れてしまいました。皆さんは、赤ん坊は生まれるとすぐ「クワー、クワー」〔テルグ語での「おぎゃあ」〕と泣くのを知っていますね。「クワー」とは「私の源は何か?」という意味です。この探求が続くのは、外の環境に触れるまでです。外の環境に触れると、子供はこの世をすべてと見なし、すっかりこの世に浸りきってしまいます。

その惑わし、あるいは忘却に関して、ヴェーダーンタ〔ウパニシャッド〕は、「賢明な知者は道を探求しなければいけない」と警告しています。ヴェーダーンタは訴えます。「あなたはどのくらいこの場所で寝泊りしていたいのか?」と。改心した知者が正しい道を探求するのに対し、動物的な知性の持ち主は忘れてしまいます。プランダラ ダーサ〔ヴィッタラ神を讃える歌を47万5千曲作ったインドの聖者で、南インドの古典音楽であるカルナーティック音楽の父と称される〕は言いました。

「おおマーダヴァ〔迷妄の支配者である神〕よ! 私たちが生まれてきたのは、あなたを忘れてしまったからです。至福に満ちた私の姿は、このような俗な姿に一変してしまいました。それは私があなたを忘れたからです。」

すべての有神論者、賢者、敬虔な人々は、普通の生活を送りながらゴールを心に留め、真理の原理に向かって歩みます。何であれ、私たちが行うことに関する配慮や識別は、私たちの生き方にかなったものであるべきです。これが欠けていることが、すべての悲しみ、困難、苦悩の主な原因です。

そのゴールは、誰でも獲得できる最終学位です。これは人生で最高の追求です。この成就の前には、あらゆる学位は色を失います。人々は、無知ゆえに、どの段階にいても恐れに捕らわれています。真理を悟るまで、恐れは人間から離れません。私たちはこの一時的な世界を離れ、永遠なるもの、不滅なるものに到達しようと努力しなければなりません。これが私たちの日々の祈りとなるべきです。

アサトー マー サッド ガマヤ
タマソー マー ジョーティルガマヤ
ムルッティヨールマー アムルタム ガマヤ

〔非真から真実へと行けますように
暗闇から光明へと行けますように
死を超えて不滅へと行けますように〕


私たちはどこから来ましたか? 私たちはアートマ〔真我〕から来ました。人々はアートマを忘れてアンナ(食物)を追いかけています。私たちの義務はアートマを探求することです。それが私たちの生まれてきた目的です。目の前に鏡があります。鏡の中の自分の顔を探す代わりに鏡を他人に向けるなら、どうして鏡の中の自分の顔を見ることを期待できますか? これはすべての人が従事しなくてはならない類の黙想です。この種の黙想に熟達すれば、真の姿の顕現へと導かれます。それが人間の真のゴールであり、成就です。

女子学生の皆さん!

将来、皆さんは母親になることでしょう。皆さんは母性の権化となるよう努力しなければなりません。それから、さらに踏み込んで、人々に理想を教えなくてはなりません。皆さんは善い家庭生活を送り、それを満喫しなければなりません。けれども、家庭生活への渇望を募らせるべきではありません。あなたの愛は、家庭という一時的なものに向けられるべきではないのです。愛はその真の出所でもあるアートマの原理に向けられるべきです。今の青春時代に、皆さんは人生の良い面を学ぶという課題に取り組み、自分の着手することが何であれ、それを徹底的に完全な方法で行うことを身につけるでしょう。

善い言葉に耳を傾けよ
もし愚かな行いをしながら命を引き延ばしても、
人としての生は再び手に入らないことを知れ
道はただ一つ、そこから逸れてはならない

ティヤーガラージャの難題

善い言葉を聞き、善い言葉を話し、善いことを教えなさい。これが教育のかなめです。教科書を読むことが教育に関するすべてではありません。人知を超えた真理は、目に明らかな人生の現実とは異なります。皆さんの教育は、この永遠不滅の真理という原理の追究に向けられなくてはなりません。そのゴールを実現することが人生の成就です。

人生には、すべての人が守らなければならない二つの重要な側面があります。一つは布施(ダーナム)であり、もう一つは御名(ナーマム)、すなわち、食べ物を施すこと(アンナ ダーナム)と神の御名(ハリ ナーマム)です。ハリ〔悲しみを取り除き幻想を追い払う者〕の御名は、人生という海を渡るための安全な舟です。身体は食べ物によって養われます。身体が正しく養われて、初めてハリの御名を口にし続けることができます。ですから、手を使って食べ物を施すことは、ハートにハリの御名を植えつけることになると言えます。アートマは切り離された存在ではありません。私たちの国の経典は、ハートをアートマと称しています。誰かがあなたの名前を尋ねると、あなたはラーマやクリシュナ等々と答えます。しかし、あなたの真の名前はフリダヤ(ハート)です。アートマの至福があなたの人相であり、不滅があなたの住所です。あなたはその永遠に真理に満ちた名前を保持するよう懸命に努力すべきです。

ティヤーガラージャという名前は、本人の人格にぴったり当てはまっています。かつて、タンジャーヴルの王が、金貨、黄金の装飾品、馬車をはじめとする贈り物をティヤーガラージャに送りました。その品々を見た時、ティヤーガラージャは叙情的な歌を作って自分の気持ちを表現しました。

ニディ チャーラ スカマ、ラームニ サンニディ
チャーラ スカマ ニジャムガ テルパヴェー マーナサ

おお心よ、真実を述べよ、より大きな安らぎを与えてくれるのはどっちだ
富か、それともラーマがおわすことか


このティヤーガラージャの自己問答は、むしろ私たち全員にとって、興味をそそる難問です。富や財産は過ぎ行く雲のようなものであるのに対し、神の支えは決して消えない富です。それが念頭にあったティヤーガラージャは、王から送られたその贈り物をすべて辞退しました。これはティヤーガ〔捨離〕と呼ばれるものであり、ですから、ティヤーガラージャ〔捨離の王〕という名前は彼の人格にぴったり適しているのです。貧乏であったにもかかわらず、ティヤーガラージャは世俗の富の一切を辞退し、シュリ ラーマの恩寵だけを求めました。

「サウンデール ラージャン」(美しい王)といった名前の者もいます。しかし、実際には、その人は醜いかもしれません。ある人は、「サッティヤム」(真実)と名付けられていても、実生活では嘘ばかりついているかもしれません。同様に、「シャーンタンマ」という名前は穏やかな気質の人を意味しますが、実生活では、その人は不安と怒りでいっぱいかもしれません。人は、自分に授けられた名前にふさわしい振る舞いをするよう努力しなければいけません。

私たちの体には五つの鞘(コーシャ)があります。肉体は食物鞘(アンナマヤ コーシャ)です。生命力の活気あふれる面は生気鞘(プラーナマーヤ コーシャ)です。精神活動の領域は心理鞘(マノーマヤ コーシャ)として知られています。五番目の鞘は歓喜鞘(アーナンダマヤ コーシャ)として知られる至福の状態です。多くの人が、他の面をすべて忘れて、いつも食物(アンナマヤ)の面だけにふけっているのは、嘆かわしいことです。しかし、私たちのゴールはこれらの鞘すべてを超越しています。昨今では、「人間」は、振る舞いを通してではなく、肉体という外側の姿形によってのみ知られています。そのような人間の姿形に何か魅力があるでしょうか?

あなたが「私は人間です」と言うのは、実際のところ、真実のうちの半分です。真実のもう半分は、「動物ではない」ということです。あなたがこの二つの声明を結びつけた時、真理は完全なものになります。人間は、暴力、無知、不活性を避けることによって、自分は他の動物とは違うということを示さなければいけません。これをごらんなさい。これは薔薇です。本物の薔薇です。ですから、この薔薇のところにいらっしゃいと、わざわざミツバチを招く必要はありません。ミツバチはひとりでにやって来ます。一方、ミツバチはプラスチックの薔薇に近づいて来ますか? それと同じように、ハートに人間らしい思いがある時、初めて人は人間として認められることができるのです。そうでなければ、それは単なる人間の姿をしたものか、人造人間か、ロボットにすぎません。

私たちは「、ハート」を忘れて、「アート」(技/芸術)を追いかけています。実際には、アートはハートから生じなければなりません。それゆえ、「神は愛」と言われるのです。神の姿形は愛です。神は愛の住まいです。愛の神を自分のハートに保っている時、人は暴力という手段に訴えることができるでしょうか? 愛のあるハートは罪への恐れを育てます。神の愛と罪への恐れは双子のようなものです。それらに加え、社会のエートス、すなわち道徳を育てる必要があります。道徳は、私たちの国の頼みの綱です。国民意識や共同体意識を持っていない人はいるかもしれません。そのような人間を恐れる必要はありませんが、道徳心のない人間は大変危険です。道徳とは、善い振る舞いを意味します。それが真の教養です。

道徳律を頼みとしている、あらゆる共同体を讃えよ
道徳に欠けていれば、その共同体は駄目になる
共同体の真の本質は、その道徳律にある
お聞きなさい、おお、バーラタの勇敢な子供たちよ!


ここへ来る時、私は、何人かの学生が重い教科書を抱えて教室へと歩いていくのに気がつきました。教科書の奴隷になってはいけません。世界を秩序ある住まいに変えるためには、人間はマーダヴァ〔迷妄の支配者である神〕にならなければなりません。動物(パシュ)でいるのではなく、動物の主(パシュパティ)にならなければいけません。この最終目的へと導く種類の教育こそが、霊性教育です。五つの基本的な人間的価値、すなわち、真理、ダルマ〔正義〕、平安、愛、非暴力のうち、まず皆さんは三つ〔愛とダルマと真理〕に心を配らなければなりません。愛は神であり、ダルマは神であり、真理は神だからです。罪への恐れは非暴力へとつながります。非暴力があれば平安があります。平安と非暴力は罪への恐れの産物です。平安な生活は、社会の道徳として光彩を放つ、きわめて重要なダルマです。したがって、五つの価値は互いに切り離せないものなのです。私たちは自分の中に、五つの面、五つの生気、三つの属性(グナ)、すなわち、神への愛、罪への恐れ、社会の道徳を有しています。その三つを養いなさい。そうすれば、あなたは三位一体の神の権化となるでしょう。

今日はムッコーティ エーカーダシー〔インドの太陰太陽暦におけるマーガ月11日目のヴァイクンタ エーカーダシーの日で、この日は内なる天界の門が開くといわれている〕なので、あなた方は皆、この講話を聞く幸運に恵まれました。私は昼食をとるためにプッタパルティへ戻ります。皆さん全員が、以上の面をよく吸収するよう祝福します。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women’s Role C29

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