サイババの御言葉:ダシャラー祭の霊的な根拠

日付:1992年10月6日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
ヴィシャヤダシャミーの御講話Aより

ダシャラー祭の霊的な根拠


主は真理からすべてのものを創り出しました。すべてのものには真理が浸透しています。真理に基づかないものは世の中に何一つなく、すべてのものはスッダ サルヴァ(神の本質)からできていることを悟りなさい。人はこの事実を忘れてしまっています。

人間は神(マーダヴァ)から生まれました。この真理を忘れることが、人間を苦しめるマーヤー(迷妄)です。真の人間がこのような迷妄に苦しむはずはありません。

神の愛の化身である皆さん!

人間性は、神性と表裏一体であり、不可分です。すべての人間の中に同一のアートマが宿っています。

身体には、手、足、目、鼻、口、耳などのさまざまな器官や四肢があります。そのすべては、身体と切り離すことのできないパーツです。これらのさまざまな四肢と身体の内在者(シャリーリ)には密接な関係があります。ジーヴァートマ(個我)が内在者です。四肢は身体を構成しています。内在者と身体の関係は不可分です。すべての四肢は個人に属しています。それゆえ内在者はどの四肢も嫌がりません。もし四肢のいずれかが苦痛を感じたら、内在者は幸福を感じません。なぜならすべての四肢が彼に属しており、四肢が体験することは、彼の体験でもあるからです。

同様に、ヴィシュヌ神は、己の身体である宇宙に遍満しています。宇宙にあるすべての物事がヴィシュヌ神の四肢です。それゆえ、宇宙の中にある何かに対して、誰一人として嫌悪を抱いてはなりません。あなたは誰一人として憎んではなりません。なぜなら同じ一つの神が、あなたの中に、そして宇宙のすべての中に存在しているからです。宇宙には、粗体、微細体、原因体という三つの形態があります。物質的な宇宙は、粗体を象徴しています。微細体は心(マインド)です。心(マインド)よりさらに精妙なのがアートマです。

五つの鞘(コーシャ)すなわち内面の覆い

人間には五つの鞘があります。これらの五つの鞘は、三つのグループに分かれています。アンナマヤ コーシャ〔食物鞘〕は、粗大な鞘です。プラーナマヤ コーシャ(生気鞘)、マノーマヤ コーシャ(心理鞘)、ヴィグニャーナマヤ コーシャ(理智鞘)の三つは、一つに組み合わさって微細な鞘を構成しています。アーナンダマヤ コーシャ(歓喜鞘)は、原因鞘です。この最後の鞘さえも、完全な至福を意味してはいません。なぜなら、アーナンダマヤ コーシャの上〔奥〕にさらに高次の存在があるからです。これがマハーカーラナ、すなわち超原因(第一の原因)として知られている、アートマ原理です。

すべての個人にはこれらの三つの体があるので、トリプラスンダリー〔三つの町の美しい乙女〕と呼ばれています。すべての人間には、これらのトリプラ(三つの町)があります。その三つのプラ(町)とは、身体と心(マインド)とハートです。自然界における女性性というプラクルティ(自然)は、身体の中の大きな部分を占めており、スンダリー(美しい乙女)と呼ばれています。ナヴァラートリ祭の期間中には、トリプラスンダリーが礼拝されます。

ナヴァラートリの霊的真理

残念ながら、人々は太古の昔から、これらのお祭りの内的意義を理解することなく、その外的な形式のみを守ってきました。宇宙全体が一つの寺院です。主は宇宙に遍満しています。プラクルティ(自然)が、ナヴァラートリに関する霊的真理を教えます。

霊性修行を通じて、サイの愛を実感認識しなさい。主はサーダナを通じて実感認識されなければなりません。サーダナとは、特別な場所で、あるいは特別な形で神を崇めることを意味しているのではありません。サーダナとは、あなたがどこにいようとも何をしていようとも、常に神を思うことを意味しています。こんなことが可能なのかと尋ねられるかもしれません。すべての行動を神に捧げることによってそれは可能になります、というのがその答えです。

ナヴァラートリ祭期間中は、アンガールパナ プージャー〔四肢(アンガ)を供える(アルパナ)供養礼拝(プージャー)〕と呼ばれる礼拝が行われます。この礼拝形式においては、身体のすべての四肢を、シャラナーガティという全託の精神で神に捧げます。全託とは、あらゆるものを神に捧げ、自分自身と神は別個の存在であるという考えを手放すことを意味しています。もしそこに別個の存在であるという感覚があったら、真の全託にはなりえません。あらゆる存在の中に宿っているのは、同じ一つの神であるという確信がなくてはなりません。

エーコー ヴァースィー サルヴァブーターンタラートマ
(一つのものがすべての生き物の内なる存在の中に棲んでいる)


アンガールパナ プージャーの真の意味

アンガールパナ プージャー〔四肢を供える供養礼拝〕を行うとき、そこには自己欺瞞があります。帰依者が、「ネートラム サマルパヤーミ」(私は自分の両目を主に捧げます)と言って、主に一輪の花だけを捧げるとき、彼は一種の欺瞞に陥っています。彼が口にすべき正しい文言は、「私は一輪の花を捧げます」です。実際、「ネートラム サマルパヤーミ」(私の両目を主に捧げます)のようなマントラは、「私は神を見るためだけに自分の目を使います」と表明するためのものなのです。「私は、何を見ようとも、何をしようとも、神のことを考えます」というのが、このマントラの真の意味です。それゆえ、アンガールパナ プージャー〔四肢を供える供養礼拝〕の真の意味は、「主への奉仕において自分の四肢すべてを捧げます」と宣言することなのです。これは、あなたがどんな仕事をしようとも、それを神への捧げものとして行うべきである、という意味です。

現代では、帰依者たちの間に身勝手さが蔓延しています。彼らは、神のためではなく、自分の身勝手な欲望を叶えるためだけに、神を愛します。身勝手さを優先する限り、神を理解することはできません。

ナヴァラートリ祭は、自分自身の本質が人間であるのか、動物であるのか、悪魔であるのかを吟味し、動物的な性質を人間性に変容させようと努力し、人間的性質を神聖化するための機会として用いられるべきです。叡智は外界から得ることはできません。それは内面に向かうサーダナを通じて得られなければなりません。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.25 C35

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