サイババの御言葉

日付:1994年11月23日・場所:プラシャーンティ ニラヤムにて
69歳の御降誕祭における バガヴァン シュリ サティア サイ ババ様の御講話

神の化身と帰依者たち

太陽よりもまぶしく
雪よりも白く純粋で
空よりも微細な
至高の自己は
最も小さな粒子はもとより
すべてのものに浸透している

神の内にすべては抱かれ
神の意識によって
すべては照らされている
神(ブラフマン)はあなたの内に
あなたは神の内に
あなたとブラフマンの間には
何の違いもない
ここに集うあなたたちすべてに
これよりも貴い真理を伝えることなどできようか?

神聖なるアートマの化身である皆さん! 人間の姿をとったとき、神(ナーラーヤナ)は自らが敷いた規則を守らざるを得ません。いくら神が宇宙に繰り広げられているドラマの監督であっても、人間の姿をまとっているときには神は特定の役を演じているということを忘れてはなりません。もし神がふさわしいとされる行動に反して、自らの役を大げさに演じたり控えて演じたりして自らに課した役にかなった行動をしなかったとしたら、神は自分の目的を果 たすことができないでしょう。神が人間の姿をまとうとき、神は理想的な行いによって手本とならなければなりません。
 ヒラニヤークシャとヒラニヤカシプは、憎しみに駆られて、ナーラーヤナ神を探して数々の調査を行いました。調査を終えた二人は、五大元素のどこにもナーラーヤナ神は存在しないと思いました。けれども、時の流れと定めによって、二人は最も恐ろしい姿をとった神と対面 し、身を滅ぼすという立場に追いやられました。
 クリシュナが地上に降臨したとき、クリシュナもまた自分の役に従って自分の役割を果 たさなければなりませんでした。シシュパーラ〔クリシュナの甥。シシュパーラの妻となることになっていたルクミニーをクリシュナが奪って妻にしたため、クリシュナに敵対していた〕がクリシュナをののしっている間、時は満ち、クリシュナはシシュパーラに長いロープを与え、シシュパーラを滅ぼしました。『バーガヴァタ』には、いかにクリシュナがジャラーサンダ〔クリシュナによって滅ぼされたカンサ王の義父〕との交戦から繰り返し退却したかという話が述べられています。全知、全能、遍在なる神が、どこからか逃げることなどできるでしょうか? いったい神がどこに身を隠せるというのでしょうか? まったく非現実的です。
 神のやり方を信じ、神の意志を受け入れるなら、神を理解し、体験することができます。たとえば、『マハーバーラタ』の中のドラウパディーの例があります。ドゥリヨーダナの宮殿で、ドラウパディーがドゥリヨーダナとドゥシャーサナから辱めを受け名誉を傷つけられたにもかかわらず、クリシュナは自らが演じなければならない役に従い、仲裁に入ることはありませんでした。なぜなら、二人はビーマの手によって死に至らしめられると、あらかじめ定められていたからです。
 クリシュナは生きている間、多くの邪悪な人々の攻撃と非難の標的となっていました。けれども、神に好き嫌いはありません。邪悪な人は当然の報いによって自分の行為の結果 に苦しみます。
 人が人生で得るものの幾分かは、自らの行為によって得たものに従って決まります。これはパラーラブダム(運命)と呼ばれています。パラーラブダムは本質的に一時のものです。過去の行為の結果 として得たものは長くは続きません。この事実を忘れ、かつ自分のスワバーヴァム(真の性質)をも忘れ、人は一時的なものに心を奪われて、ふと心に浮かんだ考えに従って行動しています。
 役者は劇中の特定の役を割り当てられると脚本を最初から最後まで読みはしますが、自分の役を演じているときには脚本通 りに一幕ごとの自分の役だけを演じなければなりません。自分が知っている全部の役を演じるわけにはいかないのです。役者はドラマの各シーンで自分の役に要求される行動に自分の行動を合わせなければなりません。それと同じように、神は、宇宙に繰り広げられているドラマの中で一つの役を引き受けたなら、その役にふさわしい行動とそのゲームのルールに従って一幕一幕を演じなければなりません。

正しい行いからの人間の堕落
 古の時代より、バーラタ(インド)人はバーラタ文化の精神にのっとって、ティヤーガ(放棄あるいは犠牲)に最も高い地位 を与えてきました。バーラタ人はダルマ(正しい行い)を崇敬しました。バーラタ人は正義を守ることを誓いました。バーラタ人は真理を固く守りました。今の人々は、こうしたバーラタの古い文化の価値をないがしろにしています。今の人々は現世的で感覚的な快楽の餌食となって、この世に存在するものだけが真実であると信じています。
 今、世界の人々は、これまで広まったことのないような邪悪な行動に走り、邪悪な考えを抱いています。人間は富と地位 へのとどまる所を知らない欲に駆られています。もちろん日々の必要のためにはお金が必要です。けれども、それさえも限度を設けるべきです。広い海も、限度を超えて満ちたなら、災害をもたらします。肉体を維持していくために必要な食べ物も、量 をわきまえて摂るならば健康によいのです。食べ過ぎれば身体器官を毒します。食べ物は満足感を与えることもあれば、毒になることもあります。人は食習慣によって病気の餌食となるのです。食べ物は必要ですが、健康によい量 だけに抑えて摂らなければなりません。同じように、富は必要ですが、限度内にとどめるべきです。過剰な富は多くの危険を招きます。過剰な富をもつと、人は傲慢になり、善悪の区別 がつかなくなります。人は、カルナ(寛容さで知られる人物)ではなく、貪欲の典型であるドゥリヨーダナとなってしまいます。

富と犠牲の精神は共に育つべき
 富と共に犠牲の精神も等しく育つべきです。富が増えたなら気前もよくなるようでなければなりません。今、富は増えていますが度量 は大きくなっていません。

幸福でないなら  富は何の役に立つというのか?
どんなに川があふれていても
犬に飲める水は たかが知れている
貪欲な者に 心の安らぎはない
たとえどれほどの蓄えがあろうとも

今、豊かさは増しましたが、人間はますます欲深くなっています。その結果 、人は人間本来の性質を忘れてしまいました。正しい方法で稼いだお金が必ずしも幸福をもたらすわけではないとしたら、どうして不正な手段で手に入れたお金で幸福を得ることを期待できるでしょう? ですから、決して過大な富が平安や幸福をもたらすことはできないということを理解するようにしなさい。もし、あなたが多額の財産をもっているなら、他の人を助けるためのよい活動にそれを差し出しなさい。そうすることで、あなたは充足感を得るでしょう。

力を追求する中で人は道徳を犠牲にする
 第二の悪は力への渇望です。村人から都会でトップの地位にいる人まで、だれもが力を追い求めています。力には制限と義務が伴います。力には五つの種類があります。それは、情報の力、知性の力、名声の力、人格の力、犠牲の力です。この五つの力をすべてもっている人だけが、権威ある地位 を望むべきです。
 昨今、人は権威の使い方を理解することなく、権力のある地位に就いて行動しています。村落の五人会議の議長から国の政府の長に至るまで、あらゆる人が力のある地位 を求めます。力を追求する中で、人は道徳と正義を犠牲にする一方で、進んでありとあらゆる手段を使います。力を確保するためにあらゆる種類の不正行為が行われています。法と秩序はむしばまれつつあります。
 このような具合に、人間本来の性質は忘れ去られつつあります。これは非常に危険な状態です。地位 と権威を求める人はそれらの義務を知っておくべきです。そうした地位にある人は、制限を守ることに対して当然払うべき注意を払って、力を行使すべきです。「ナシュレーヨー ニヤマム ヴィナー」(制限のないところでは偉大なことは何も達せられ得ない)。このように、富と力はどちらも制限付きで使われるべきです。しかし、今やそうした制限は破られています。

神はふさわしい時を待ち自らの役割を演じる
 今日、国が抱えている混乱やもめごとはすべて、そうした違反行為によるものです。人は神の性質に気づくことができずにいます。一人の役者としてこの世の舞台に降り立ってはいるものの、神は自らの役割を演じるのにふさわしい時を待っているのです。果 物が熟すのには時を要します。果物は熟すと自然に落ちます。それと同じように、自分の行為の報いを得るための機が熟したとき、人は行為の本質に従って報いを得る準備ができていなければなりません。悪い結果 や良い結果へと導くのは自分自身の行為です。それゆえ聖典は、人間の心が輪廻や解脱の原因であると宣言しているのです。
 ですから、心を神聖な道へと向かわせなければなりません。心は他の人への奉仕の行為に集中させられているべきです。心は世界の繁栄を案じているべきです。そうして初めて、心の純粋さが自らを現すのです。
 今、世界に蔓延しているあらゆる混乱や争いの原因は、人々の思いや考えです。だれかがあなたを批判したときに腹を立てたり、だれかがあなたを傷つけたときに仕返しを考えたりすることは、それらに対する正しい反応ではありません。あなたに良いことが起ころうとも悪いことが起ころうとも、起こることはすべて自分の行為の結果 であると考えなさい。それらを神の仕業だと考えてはなりません。
 神は郵便配達人のようなものです。郵便配達人は手紙を宛先の住所に配達し、その家の人は手紙に書いてあった良い知らせに喜びます。郵便配達人は別 の手紙を別の家に配達し、その家では手紙に書いてあった悲しい知らせに嘆き悲しみます。手紙を受け取った人の喜びや悲しみは郵便配達人に原因があるでしょうか? いいえ、そうではありません。原因はそれぞれの手紙の内容にあります。喜びや悲しみとしてあなたが体験するものは、あなた自身の行為の結果 です。神は観照者にすぎません。

エゴを取り除いて神の恩寵を得よ
 今日の人間社会には利己主義がはびこっています。至る所に虚栄が見られます。そのような環境の中で平和と安全が保障され得るでしょうか? そのような状態の中で神の恩寵が流れることができるでしょうか? いいえ、できません。学識や富がどれほどのものであろうとも、アハンカーラ(利己主義)がある限り神の恩寵が流れることはありません。恩寵は水のように、高いレベルから低いレベルへと流れます。神の恩寵は謙虚さと規律を備えた人に注がれます。神の恩寵を確実なものとするためには謙虚さが不可欠です。年長者を敬いなさい。自分の持っているものに満足しなさい。すべての人に対する好意を育てなさい。だれに対しても悪い感情を抱いてはなりません。だれからも愛されたいと願うのであれば、だれをも等しく愛するべきです。
 バーラタの歴史はバーラタ人の平和を愛する姿勢を立証しています。国が外部者に侵略されたときバーラタ人は自らを防衛しましたが、決して征服戦争を始めることはありませんでした。古のバーラタ人は決して邪悪な政治手段や不正な政治手段を用いることはありませんでした。平和と真実を固く守ることはバーラタ人にとって自然なことでした。残念なことに今、人々は力を追い求める中で、道徳と正直さについては見て見ぬ ふりをしています。西洋の国では多くの指導者たちが力を得るために暴力を用いました。バーラタにも、権力を握るために自分の父親や血族を殺したり監禁したりしたイスラム教徒の多くの例があります。力に対するこうした貪欲が人々を悪魔へと変えたのです。
 一方で、『ラーマーヤナ』では何が起こったかを考えてごらんなさい。父親の約束を守るために、ラーマは王権を放棄して、森で14年間の追放生活を送ることを選びました。ラーマは権力も地位 も欲しがりませんでした。ラーマはダルマ(正しい行動規範)を守りました。

ダルマの遵守というラーマの模範
 ラーマたちが森に入って間もないある日のこと、ラーマとラクシュマナが木の下に腰を下ろしていると、馬のいななきと象の鳴き声が聞こえてきました。ラーマはラクシュマナに、森に馬がいるのは普通 ではないので、その理由をつきとめるようにと言いました。ラクシュマナは木のてっぺんに登り、辺りを見渡しました。大軍が接近して来るのがわかりましたが、高くたなびく旗だけは、もやがかかってよく見えませんでした。ラクシュマナは旗の紋章から、軍隊を従えて来たのはバラタであると推理しました。
 ラクシュマナは木を降りるとラーマに弓矢で武装を整えるかどうか尋ねました。「何のために?」とラーマは言いました。バラタは母親に懇願されて三人を捕まえに来たのだとラクシュマナは言いました。ラーマはラクシュマナの単純さを面 白がって笑顔でこう話しました。「バラタはそんなことをする人間ではない。バラタはそのようなことはしない。バラタはアヨーディヤに戻ったら我々がいなかったので我々に会いに来たのだ」ラクシュマナは言い返しました。「もし、バラタが私たちに会いにやって来たなら、なぜ軍隊を引き連れて来る必要があるでしょう?」
 ラーマは言いました。「国民の気持ちを和らげるために、バラタは国民全員をいっしょに連れて来たのだよ。ラクシュマナ! おまえは、イクシュヴァークの家系に生まれた者は王位 をめぐって血を流すことなどあり得ないという認識に欠けているようだね。剣で王位 をつかんだ者は正しい統治者にはなり得ない。イクシュヴァーク王朝には決してそのような王が生まれることはない。イクシュヴァークの王の行動規範は、正当な手段で王位 を継承し、国民の承認をもって統治することである。奉仕の精神が権威ある地位 を望む人々を感化すべきである。いかに奉仕すべきかを知らずして、人は真の指導者になることはできない」ラーマはこのようにしてラクシュマナの心配を和らげたのでした。
 そうしているうちに、バラタがラーマの許にやって来て、「おお、兄よ!」と泣きながらラーマの足元に平伏しました。その場面 を見たラクシュマナは、自分の誤った判断を悔いラーマの許しを請いました。

こうして古の時代より、バーラタの統治者たちは、王位に就くために暴力や不正な手段に訴えたことは決してありませんでした。彼らはダルマの実践に献身しました。「サティヤム ヴァダ、ダルマム チャラ」(真実を話し、正義に従う)。これは古のバーラタ人の二つの基本的な教義です。彼らはその二つを自分の二つの目と見なしていました。今日では、その規則は逆になっています。「真実を殺し、正義を封じる」となっているのです。今は偽りの時代です。非正義が主だった道徳律となっています。こうした傾向のせいで、今日のバーラタは無秩序の餌食となっています。
 一人ひとりが、真理と正義を実践し、真理と正義を守るべきです。これはバーラタの国民一人ひとりが必ず果 たさなければならない義務です。これはバーラタの国民一人ひとりが国家にしなければならない奉仕です。国は武器や最新の兵器によって守られるものではありません。もし、人々が真理と正義を保護するなら、真理と正義が国と世界を守るでしょう。

スワミと知識人との会合
 二十年以上前のことですが、かつて、シュリ K.M.ムニシが、スワミに講演をしてもらおうと、ボンベイで知識人会議を開きました。今、いわゆる知識人と呼ばれる人たちが知性を備えていることはまずありません。彼らは慢心に満ちています。会議に集った知識人たちは高慢で、横柄で、自分たちの学識と書物の知識にほくそえんでいました。バガヴァン(スワミ)がその会議の主賓でした。ムニシはスワミの隣に腰掛けていました。ムニシはスワミに霊性と正しい行いに関する知識人たちの疑問を明らかにしてほしいと頼んできました。スワミにたくさんの質問がなされ、スワミはすべての質問に対して、明瞭に、そして、納得のいくように答えました。
 アメリカと共産主義国ロシアが多量の原子爆弾を持っているという事実を考慮すると、インドも原子爆弾で武装することは必要か否か、と聴衆の一人がスワミに尋ねてきました。スワミは答えました。「何と愚かなことでしょう! この国に、食べ物も着る物も住む家もない人たちが何万人もいるというとき、最も緊急を要する仕事はそうした必需品を供給することであって、原子爆弾を製造することではありません。人々に食料を供給することができないとき、爆弾が何の役に立ちますか? 何千万というルピーが軍備に浪費されています。私はそのような浪費には同意できません」
 次に、別のメンバーが尋ねてきました。「我々は外部からの攻撃にどのようにして立ち向かったらよいでしょう?」スワミは答えました。「私たちの国の名前はバーラタです。なぜなら、この国では『マハーバーラタ』が信頼できる手引書だからです。この叙事詩の中の英雄はパーンドゥの五兄弟です。五兄弟の中でも、アルジュナとビーマは類稀な戦士です。にもかかわらず、二人は長兄であるダルマジャに服従しました。もし、インドがダルマを守るなら、アメリカとロシアはバーラタを尊敬しなければならないでしょう。ダルマが相手であれば、どんなに強靭な人でも適当な大きさに切られてしまいます。ですから、バーラタにとって最も必要なものはダルマなのです」
 スワミがこう返答をしたとき、全聴衆がスワミに15分間の喝采を浴びせました。そのあと、スワミは聴衆にこう言いました。「拍手(クラップ)をすることでは十分ではありません。皆さんの心の栓(タップ)を開きなさい。ダルマの道を取りなさい。ただ私の言葉に拍手喝采しても何の役にも立ちません」
 この国では多くの人々が『ラーマーヤナ』を神聖な聖典として敬愛しています。その中で父親の言葉を尊んでいる人は何人いるでしょう? 『ラーマーヤナ』の教訓に従わないのであれば、『ラーマーヤナ』を朗唱することが何の役に立つでしょう? あらゆる通 りでギーターに関する説教が行われています。けれども、その教えの一つでも実践している人がいるでしょうか? 何年学習していても、いつその教えの実践を始めるつもりですか? 際限なく書物を学ぶことなど、まったく愚かなことです。そのような勉強よりも、一つの言葉でも実践に移したほうがよいのです。今、バーラタはそのような愚か者であふれています。

愛はサイの最強の武器である
 皆さん方の多くは3、40年以上前からここに来ています。皆さんは何度もスワミの講話を聞いています。不死不滅は、行為や富や子孫によってではなく、犠牲によってのみ到達することができると、スワミは何度も繰り返し説明してきました。犠牲を払っている人は何人いるでしょう? スワミの教えを実践している人は何人いるでしょう? なぜ皆さんはここに集められたのでしょう? 教えの中から少なくとも一つを実践しないなら、それはまったく無駄 なことです。私の指示は何でしょう? 私を喜ばせるものとは何でしょう? 私が望むものとは何でしょう? それはただ一つのことです。愛、愛、愛。愛はサイの最強の武器です。ここに来るようにという招待状が皆さんのうちのだれかに届けられたでしょうか? 皆さんのうち大変多くの人が、ただスワミの愛の力に引き寄せられてここに集りました。愛によって達成できないものは世界に何もありません。中にはほかの方法で達成される物事もあるかもしれませんが、愛によってすれば、神さえも手中に納めることができます。
 サーヴィトリー、チャンドラマティー、シーター、そして、ダマヤンティーは、インド女性の鑑として光彩 を放っています。人々は彼女たちに関する本を読みはしますが、その手本には従いません。その理由は人々が悪い考えに左右されているためです。こうした悪い性質は食べ物と気晴らしに関する悪い習慣に原因があります。

肉、酒、タバコを慎みなさい
 今日、自分をサイの帰依者であると思おうと思うまいと、だれもが肉食をやめるべきです。なぜでしょう? 肉食はもっぱら動物的性質を増長させます。何を摂取するかによって何を考えるかが決まるとはっきりと述べられています。さまざまな動物の肉を食べることで、その動物の性質が吸収されます。人間と同じく五大元素でできている動物を食べることは、いかに罪深いことでしょう! 動物を食べることは、人に悪魔的性癖をもたせ、その上、動物への残虐行為という罪をも犯させます。ですから、真に神の帰依者になろうと努める者は、非菜食の食べ物をやめなければなりません。自分たちをサイの帰依者であるとかラーマの帰依者であるとか言いながら、鳥肉を食べて肥えている人たちがいます。それでどうして真の帰依者であると見なされるでしょう? それでどうして神がそのような人を帰依者として受け入れることができるでしょう? ですから、インドであれ、よその国であれ、そうした手軽な肉食からは手を引くべきです。
 次に飲酒という問題があります。人が飲む水は生命の供給源です。水はシヴァ神の頭から流れています。水は神聖です。そうした健全な飲み物の代わりに酒を飲むことは誤りです。酒は人に自分の本性を忘れさせます。酒にはまったく不快な思いをさせられます。酒は酒飲みを堕落させます。酒は神を忘れさせます。酒飲みは自分が言うことも行うことも意識にのぼっていません。そのような人を見ると嫌気が催してきます。飲酒の弊害によりおびただしい数の家庭が崩壊しました。酒飲みはお金をすべて酒につぎ込んで、妻や子どもたちに貧苦を負わせています。そのような無責任な男がどうして社会の役に立つでしょう?
 酒に加えて、多くの人がタバコの喫煙にふけっています。今日では、タバコを吸うことが、喘息や肺癌、好酸球増多症や心臓病など、多くの病気の原因となっています。喫煙の害は容易に示すことができます。白いハンカチにタバコの煙を吹きかけると、吹きかけた部分は赤く変色します。タバコの煙が一枚の布切れにそのような害を生じさせ得るのであれば、その煙が血流に入ったときにはどれほどの害をもたらすことでしょう? タバコの煙は健康を損ない、寿命を縮めます。ですから、真の帰依者になりたいと願う者は、肉・酒・煙草を断たなければなりません。

だれもが自分自身を改善せねばならない
 アルコール依存症は数々の悪の原因です。けれども、どの政府もそれを止めることができません。変化は個人レベルで起こらなければなりません。個人の変化は、他人に説教された結果 としてではなく、精神的な変容を通してのみ起こることができます。一人ひとりが真理に気づき、自分自身を改善しなければなりません。
 愛の化身である皆さん! 皆さんは今日がスワミの69歳の誕生日であると考えています。私にはそうした誕生日を祝ってほしいという望みはありません。ここに来るとき、私は「ハッピー バースデー」(幸せな誕生日でありますように)と願う大勢の人に歓迎されました。私はいつも幸せです。どうして「ハッピー バースデー」と願う必要があるでしょう? 皆さん自身が幸せでいなさい。皆さんが幸せでいることが私の幸せです。
 スワミへの捧げものとして、今日限り、肉食と飲酒と喫煙をやめなさい。この三つを絶つことは、皆さん自身のためにも、社会や国家のためにもなるでしょう。スワミの唯一の目的は家族と社会と国家の繁栄です。もし、皆さんがスワミの目的を果 たすことを望むなら、今この瞬間から、この三つの悪い習慣を断ち切りなさい。明日に延ばしてはなりません。たった今、決意しなさい。皆さんがスワミの願いをかなえ、それによって家族と国家の幸福を拡大させることを期待して、皆さん方すべてを祝福します。

1994年11月23日、バガヴァンの誕生日における
プールナチャンドラ ホールでの御講話

 

翻訳:サティア サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.27 pp266-279

<< SSOJ Topページへ << サイババの御言葉メニューへ