サイババの御言葉

日付:1995年1月14日・場所:プールナチャンドラ講堂
マカラ サンクラーンティの御講話より

プレーマと三重の純粋さ


愛の化身である皆さん! 自分に内在するアートマ(真我)とあらゆる生き物に内在するアートマは同一であると認識している人は、家長であろうが世捨て人であろうが、独りでいようが人混みにいようが、絶えざる神の臨在のうちに生活しています。すべての人は、万人に生まれつき備わっている神性を認識しなければなりません。

聖仙ナーラダは宣言しました。

プレーマ アムルタッスヤ スワルーパハ
(愛はアムリタの具現である)


俗世において、人は四つのプルシャールタ(人生の四つの目的)をモークシャ(解脱)のための手段と見なしています。これは正しくありません。ダルマ(正義)、アルタ(物質的な富)、カーマ(欲望を満たすこと)、モークシャ(解脱)は、人間存在の四つの目的と見なされていますが、これらがそのすべてではありません。人間には第五の目的があり、それはモークシャ(解脱)をも超越しています。それはパラマ プレーマ(至高の愛)です。この愛の原理は神です。

愛と神は別々のものではありません。神は愛であり、愛は神です。この愛の原理の真相が理解されて、初めて人間の存在の意味を悟ることができます。

主なるサイは、愛の化身
愛の原理を教え、あらゆる生き物の平等性を宣言し、
人間であることの貴さを明らかにする


(テルグ語の詩)

三人の人の住む家で、もし、その三人に調和があり、互いに協力し合うなら、その家庭はまさしく天国そのものであり、そこには神の至福が隅々まで保たれます。反対に、三人に調和と適応力がなく、互いを嫌悪し合い、敵対者のように振る舞うなら、それ以上にひどい地獄はありません。

古代人は三重の一体性をヨーガの一形式と見なした

天国と地獄は人々の行為次第です。体は、マナス(心、マインド)、ヴァーク(言葉)、手足(行動器官)と呼ばれる三つの存在物が住処とする家です。真の人間性は、思いと言葉と行動の一致にあります。ヴェーダーンタでは、この一体性はトリカラナ シュッディ(三重の純粋さ)と述べられています。真のモークシャ(解脱)とは、心に生じた思いを言葉に表し、自分の語った言葉を実践することにあります。古代の人々はこの三重の純粋さをヨーガの一形式と見なしました。

マナッスィエーカム ヴィチャッスィエーカム カルマンニェーカム マハートマナム
(思いと言葉と行動が完全に一致している人は高潔な人である)

マナッスヤンニャト ヴァチャッスヤンニャト カルマンヤンニャト ドラートマナム
(思いが言葉や行動から逸脱している人は邪悪な人である)


それゆえ、すべての人は思いと言葉と行動の一致を成し遂げるよう努力すべきです。それが人間性の質の証明です。この深遠な真理は、体は永遠なるアートマが宿る寺院であるというヴェーダーンタの宣言によって、はっきり示されています。ヴェーダは二元論です。ヴェーダーンタは一元論(アドワイタ)です。ヴェーダーンタの真髄は、思いと言葉と行動の三位一体をなす一致です。真の至福は、この一致において体験され得るのです。それはまた、神性の霊的な基盤も明らかにしてくれるでしょう。

教えが実践されなければヴェーダーンタは無益

今日、ヴェーダーンタを解説する学者は数え切れないほどおり、それを聴く者も数多くいます。けれども、成果はほとんど上がっていません。その理由は、ヴェーダーンタの教えが実践されていないからです。教えが実践されなければ、ヴェーダーンタの学習はすべて無益です。

皆さんは、ヴェーダーンタの教えを実践に移す容易な方法は何であるかを発見しなければなりません。最も易しい道は、思いと言葉と行動の一致を培うことです。

世界の暗闇は、光の栄光を話すことによって打ち払うことができるだろうか?
病人の苦しみは、万能薬を賛美することによって軽減できるだろうか?
赤貧は、富の素晴らしさを聴くことによって救われ得るだろうか?
空腹な人の飢えは、ご馳走の説明をすることで和らげられるだろうか?


(テルグ語の詩)

一トン(千キロ)の教えを聞くより、教えを一オンス(約31グラム)実践するほうがよいのです。今日、私たちが実践しなければならないことは、極めて容易であり、かつ、極めて深遠です。奉仕の精神は私たちがたどるべき王道です。奉仕の精神はどのようにして養うべきでしょう?

バガヴァッド ギーターはスフリト(友)という言葉を強調しています。真の友は誰でしょう? その人は完全に無私無欲であり得るでしょうか? その人は何の見返りも期待せずにあなたを助けますか? 母であれ、夫であれ、妻であれ、息子であれ、皆、利己的な理由からあなたを愛します。この世で完全に無私無欲の友を見つけることはできません。私利私欲をまったく持たずに奉仕する人を見つけるのは困難です。友として、恩恵を施す者として、完全に無私無欲なのは神だけです。神はスフリト、すなわち、あなたの無二の親友であると述べられています。神はいかなる見返りも求めません。神にはほんのわずかな私利私欲もありません。神だけが、完全に無私で、愛にあふれ、何の報いも期待しないでいられるのです。

神の命令という王道に従いなさい

もし、あなたが友人に、どこに住んでいるのかを尋ねれば、特定の住所を教えてくれるでしょう。けれども、その住所はその友人の体の住居にすぎません。一方、人の真の住居はアートマ(真我)です。アートマは愛の具現です。それゆえ、あなたは愛の中に住まい、愛に生きなければなりません。あなたの人生を愛に捧げなければなりません。もし、自分の人生を永続しないものの追求に捧げるなら、束の間のものしか得ることはできないでしょう。皆さんは、永続するもの、不変なるものを求めなければなりません。それは何でしょう? それは、バガヴァット アーグニャ(神の命令)です。神の命令に従うという王道を歩むなら、あなたはすべての望みを実現するでしょう。

しかしながら、望みというものは、抱けば抱くほどあなたを束縛するということを、覚えておかなければなりません。欲望を減らせば、束縛も緩みます。欲望には限度がなければなりません。

同じように、執着を育てることにも抑制がなければなりません。家族の一人が亡くなると、悲しみが生じます。その悲しみの原因は死でしょうか? そうではありません。悲しみの原因は、亡くなった人への執着です。執着を取り除く過程は、ヴェーダーンタ用語ではヴァイラーギャ(放棄、無執着)と表現されてきました。執着は、少しずつ取り除くべきです。人生という旅路では、背負う荷物が少なければ少ないほど、より大きな快適さを味わいます。

「どうすれば浮世の生活で執着や欲望を減らすことができるのか?」

という問いが生じるかもしれません。その答えは、

「神に捧げる気持ちで自分の仕事や他の活動を行なうこと」です。

あらゆる行為は、神に捧げるという信念を持ってなされるべきです。これは容易に従うことのできる道です。見ることであれ、聞くことであれ、話すことであれ、することであれ、あらゆる行為を神の力のなせる業と見なしなさい。神の力がなければ、目は見ることが、耳は聞くことができますか?

神聖な潜在力はあらゆる才能の源

人間にとって第一に必要なのは、自分の中にある一切の能力と才能の源である、神聖な潜在力を悟ることです。無神論者にとっても、有神論者にとっても、不可知論者にとっても、これは真実です。この世では、このエネルギー(神聖な潜在力)なしに生きていける人は誰もいません。それはさまざまな名で呼ばれているかもしれませんが、呼び名は重要ではありません。そのエネルギーは一つです。この神聖なエネルギーこそが、人類を正しい道に向かわせているのです。人は、小さな物の中にさえ神が存在することに気づくよう努力すべきです。

先ほどのスピーチの中で、今日、アニル クマールがサイ オーガニゼーションについて話をしました。サイ オーガニゼーションは、信愛と献身の心で活動を続けています。しかし、彼らは実現すべき理想は何であるべきかを見出そうとしていません。

「自分がこの仕事に従事しているのは、自分たちが満足するためか、それとも神に満足してもらうためか?」

これぞサイ オーガニゼーションが自問すべき質問です。

これに関連して、聖書の中のある出来事が思い起こされるでしょう。あるとき、一人の信者がイエスのところへ行って尋ねました。

「ああ、主よ! 人はどのような力によって自分を守ることができるのですか?」

イエスは答えました。

「息子よ! あなたが神を愛するなら、その力そのものがあなたを守るでしょう」

バガヴァッド ギーターの中で、アルジュナはクリシュナ神に尋ねました。

「人は、神の愛を手に入れるために何をすべきですか?」

神は答えました。

「愚か者よ! そなたは自分が神を愛すると想像している。真実は、神が真の帰依者を探しているのだ」

世界中の無数の人々が神を探し求めています。しかし、どこに神を探しているでしょう? 私の見解では、神を探し求めるという観念そのものが間違っています。神を探す必要はありません。神は遍在です。神は至るところにいます。帰依者らは、自分は神を探していると想像しています。これは真実ではありません。神のほうが帰依者を探しているのです。

「思いと言葉と行動が清らかな帰依者は、一体どこで見つかるだろう?」

神はそのような帰依者を探し求めているのです。

神を探す必要はありません。神はあなたの母親や父親よりも身近にいます。あなた自身が神なのです。どうやって自分自身を探しに行くのですか? これが、あなたが犯す間違いです。神があらゆるものに遍満しているとき、誰が神を探す人であるでしょう? 世界がこれほど堕落したレベルに陥ってしまったのは、確かな体験を持ってこのヴェーダーンタの真理を宣言できる人々が、不足しているからです。

神を愛する最善の方法は、すべてを愛し、すべてに仕えること

神を探す必要はありません。あなたがまさしく神なのです。この真理を悟る努力をしなさい。簡単で易しい方法があります。すべての人が神の化身であるという信念を持ちなさい。すべての人を愛しなさい。すべての人に仕えなさい。神を愛する最善の方法は、すべての人を愛し、すべての人に仕えることです。

神は万人の中にいるのですから、万人を愛さなければなりません。すべての人は神の顕現です。宇宙の舞台では、誰もが自分に与えられた名と姿になりきっています。しかし、自分の真の名と姿が何であるかに気づいていないのです。

昨夜、皆さんはアンジャリデーヴィーがサックバーイーの役を演じた映画を見ましたね。映画の中で、彼女はアンジャリデーヴィーではなくサックバーイーとして登場しました。しかし、二人は同一人物です。神は人間の姿をまとい、人間として現れます。一方、自分の基盤である神性をはっきり理解すれば、人は神になるのです。自分を単なる人間と考えている限り、人は人間のまま留まります。しかし、深い信念をもって自分を神と見なすなら、神へと変容するでしょう。

エーカートマ バーヴァという眼鏡で宇宙を見よ

ですから、考えと感情が、あなたが誰であるかを決定するのです。あなたの考えを変えなさい。もし、世俗的な見方を捨てて霊的観点からものを見るなら、ヴィシュワ(全世界)とヴィシュヌ(神)は一つになるでしょう。それゆえ、あなたの見方を変えなさい。人間は、自分のドルシティ(見方)を変える代わりに、スルシティ(創造物)を変えたがっています。創造物を変えることは誰にもできません。変えなければならないのは、人の見方です。

もし、唯一性を体験したいと望むなら、エーカートマ バーヴァ(霊的には一つであるという見方)の眼鏡をかけて宇宙を見なければなりません。そうしないなら、世界は当惑するほどの多様性として現れるでしょう。なぜなら、あなたはサットワ(浄性)、ラジャス(激性)、タマス(鈍性)という三つのグナ(属性)という眼鏡で見るからです。その三つの眼鏡をはずしなさい。エーカートマ バーヴァ、すなわち霊性における一体性という感情の眼鏡をかけなさい。愛は一つです。「至高なるものは一つ、賢者はそれを多くの名で呼ぶ」のです。

神が人間の姿をとって降臨し、人間の中で暮らし、人間と交わるとき、神はこの一体性を宣言しなければなりません。神には好き嫌いがありません。神には「私のもの」「あなたのもの」という区別がありません。神は賞賛や非難を超えています。では、(人間の姿をとった)神はどのように行動すべきでしょう? すべての人がそれを理解しなければなりません。

スワミと帰依者

たびたび(スワミのもとを)訪れているのにスワミが話しかけないことを嘆く者たちが大勢います。「スワミは私たちを怒っているのだろうか?」と彼らは尋ねます。このような考えが浮かぶのが、精神が錯乱しているからではありません。まったくの無知がその原因です。そのような疑問が心にわき上がるのは、スワミの本性を理解していないからです。私は誰に対しても嫌悪感を持ちません。私は誰のことも嫌いません。すべての人は私のものです。そして、私はすべての人のものです。けれども、帰依者に対応するとき、私はそれぞれの患者に特別な治療食を処方する医者のように振る舞わねばなりません。例えば、糖尿病で苦しんでいる患者がいるとします。糖尿病患者は甘いものを食べるべきではありません。もし、帰依者が、「私は甘いものが好きなのに、なぜ母なるサイは私に甘いものを禁じるのだろう?」と考えるなら、その答えは、それがその人のためになるから、というものです。もし、スワミがその患者の健康を考慮していなかったら、甘いものを与えて苦しませるでしょう。母なるサイが甘いものを与えないのは、その帰依者への愛ゆえです。スワミは帰依者の病の治療に良かれと思って、こうしたさまざまな養生法を採るのです。

別の種類の不満を持つ人々もいます。例えば、学生はよく、スワミは自分たちを怒っているので話しかけてくれないと不平をこぼします。私は誰に対しても怒りを持ちません。皆さんが信じようと信じまいと、私は怒りというものが何を意味するのかも知りません。しかし、時折、私はあたかも大変怒っているかのように見せます。それは避けられないことです。というのは、私がそのようなふりをしなければ、学生たちは私の言葉に注意を払わないからです。私は学生たちに、これこれこう振る舞うようにと伝えます。私の言葉を心に留め、それに従って行動しようとする学生もいます。私の指示に従わない学生もいます。そのような場合には、私の言葉をきちんと尊重するようにさせなければなりません。私の言葉を重視しない者に話しかけても、何の役に立つでしょう? 私は自分の言葉の価値を下げるつもりはありません。

真実は誓った言葉の命です。私の言葉には真実の押印があります。私は真実から離れることはできません。私は、私の言葉を重視しない者には話しかけません。スワミが話しかけてくれないと不平をこぼす者は、このことに気づかなければなりません。私の言葉を心に留めるなら、私はあらゆる方法でその人を助け、幸福を授けます。私は自分のためには何一つ行いません。これが私の真実です。

「私がすることはすべて皆さんのため」

高度専門病院が、何千万ルピーものお金で建設されました。それは私のためでしょうか? 同じように、サイ大学は何千万ルピーも使って創設されました。一体誰のために? 私のためですか? (マンディールの前の)この壮大なホールは、帰依者を暑さや雨から守るために建設されました。私はこのホールで居眠りしていますか? 私がすることはすべて、皆さんのためです。皆さんがこのことを認識していないことに、私は驚いています。帰依者たちはそれほど知性に欠けているのでしょうか? 私にはどこにも利己主義のかけらもありません。私にはどんな恐れもありません。罪を犯した者だけが恐れに苦しみます。私は誰に対してもどんな過ちを犯したこともないので、恐れがありません。それどころか、私は帰依者の役に立っています。

この真理を悟ることなく、人々はスワミが怒っているとか、自分たちに悪意を持っていると想像しています。そのような間違った感情は取り除きなさい。スワミが言うことは何であれ、あなたのためであると心得て、それに基づいて行動しなさい。私があなたの良い振る舞いから得るものは何もありません。また、私があなたの不品行ゆえに失うものもありません。私はあなたを愛しているので、あなたの不品行の結果である苦しみを味わわせたくないのです。

神の愛を理解しなさい

神の愛(プレーマ)について言うならば、99パーセントの帰依者はプレーマが何を意味しているのか理解していないことを、ここではっきりと説明しましょう。この愛は世俗の感覚で解釈されています。これは人に道を誤らせます。夫婦、母子、友人同士、親戚知己の間にある執着は、すべて大ざっぱにプレーマと表現されていますが、これらの執着は、束の間の人間関係の結果であり、本質的にはかないものです。プレーマはトリカーラ アバーディヤム(過去・現在・未来という時の三相を通じて永続するもの)です。そのような愛は、神と帰依者の間にのみ存在するものであり、他のどんな類の人間関係にも当てはめることはできません。

神の愛の本質を理解するのは容易なことではありません。皆さんは浮き沈みの影響を受ける世俗の執着だけを認識しています。そのように変化に傾きやすいものを愛と呼ぶことはできません。真の愛は変化しません。それは神です。愛は神です。愛に生きなさい。

愛の道に踏み出しなさい。皆さんはささいな喜びに舞い上がったり、つまらない損失に落胆したりする傾向にあります。神の愛は永遠であり不変です。その愛を理解するよう努めなさい。どうすればできるでしょう? それは、起こることは何であれ、好ましいものであろうとなかろうと、自分にとって善であるという感情を育てることで、可能となります。この信念を持つなら、あなたの神の愛の価値は高まります。

ほとんどの人は、スワミの面前にいる間は、神の愛の無限の喜びを感じています。ところが、その感情は、ひとたび外界という環境に身を置くと、消えてしまいます。どこへ行こうとも信愛を保ち、この国の隅々にまで神聖なメッセージを広めることによって、自分がどこにいても同一の神聖な環境が存在することを悟らなければなりません。村の中、街中、家庭、どこにいようとも、話し言葉や歌の中であろうとも、神の御名を唱えなさい。これは、あなたの神への愛を、揺るがせず、衰えさせずに確実に保つ方法です。

それで神が利益を得ることはありません。神には欲望がないからです。神は何も欲しません。それは、ただあなた自身のためです。

ウッダーレート アートマナー アートマーナム
(自らの努力によって自らを高めよ)


多くの人々はこの真理を認識し損なって、サイ ババは、自分の名を上げるために、アカンダバジャンをしたり、さまざまな祝祭を執り行っていると想像しています。そのような人々はまったくの愚か者です。サイ ババは誰からも何一つ求めません。自分自身を高めなさい。向上しなさい。至福を体験しなさい。人生を崇高なものにしなさい。祝祭や献身的な活動を、これらの目的のために役立てなさい。

サッティヤム・シヴァム・スンダラム(真・善・美)

愛の化身である皆さん! 愛は皆さんの姿そのものなのですから、すべての面において、愛をはっきりと表しなさい。愛を他の人々と分かち合いなさい。神はフリダヤヴァースィ(ハートに住まう者)です。

サルヴァブータ ダラム シャーンタム
サルヴァナーマ ダラム シヴァム
サット チット アーナンダ ルーパム アドヴァイタム
サッティヤム シヴァム スンダラム

(あらゆる生き物の維持者、平安の権化、
すべての名を有する者、善の具現、
絶対実在・純粋意識・至福の化身、唯一無二なる者
彼こそは真・善・美なり)


アレクサンドロス大王を教えたアリストテレスの師、ギリシャの哲学者プラトンは、根本的真実として、三つのもの、すなわち真・善・美を宣言しました。これは、インドの聖賢たちが神を言葉で表すために使った、サッティヤム・シヴァム・スンダラムと同じ言葉です。

このように、太古よりすべての宗教と哲学において、この三つは神の御姿として宣言されてきました。愛は神の御姿です。ダルマ(正義)は神の御姿です。

「母親と母国は天国よりも偉大なり」

人間から生じる最初の衝動は、プレーマ(神聖な愛)です。他のものはすべて、その後に生じます。生まれたばかりの赤ん坊は、すぐさま母親を愛するようになります。どの赤ん坊も、まず初めに母親と父親を認識しようとします。それと同じように、誰もが自分の母国とサムスクリティ(文化遺産)を認識すべきです。母国と母国の文化は、両親として崇められなくてはなりません。国はあなたの母親です。文化はあなたの父親です。この深遠な真理は、ラーマが「母親と母国は天国よりも偉大なり」と宣言したとき、はっきりと示されました。母親を愛しなさい。祖国の文化を愛しなさい。これらは、万人にとっての二つの根本的な義務です。この二つは人生の主要な目的であるべきです。

真理と正義の道に従うなら、愛はひとりでに心(ハート)に芽吹きます。徳を実践しなければ、一切の知識と学問はまるで役に立ちません。少なくとも教えの一つを実践し、喜びを体験しなさい。

愛の化身である皆さん! 東西ゴーダーヴァリー地区、グントゥール地区、クリシュナ地区から来た帰依者たちは、いわゆるサイ ムーブメントの五十周年祭をおおいに楽しみました。喜びを体験するために理由を探す必要はありません。

サルヴァダッ サルヴァカーレーシュ サルヴァットラ ハリ チンタナム
(常に、いつ、どこにいようとも、神を憶念していなさい)


毎日を聖日としなさい。すべての言葉にマントラ(聖なる真言)の力を帯びさせなさい。あなたが踏みしめる大地を祓い清めなさい。これらをあなたの人生の使命としなさい。一瞬も無駄にすることなく、得られる限りの時間を使って、インドの隅々にまで神の御名というメッセージを広めなさい。

欲望は神の御名を唱えて減らすことができる

今日、至るところで、堕落、暴力、悪意、不正行為が見られます。こういったものの根本的な原因はすべて、利己主義です。飽くことのない欲望が、これらの邪悪の根源です。神の御名を唱えることによって、正当な願いは叶えられ、欲望は減らすことができます。

サックバーイーは、パーンドゥランガ神のダルシャンを求めてパンダルプルへ行きたいと熱望し、祈りました。そして、ありとあらゆる困難や冷遇に耐えて、神の恩寵を手に入れました。試練を経ずに神の恩寵を手に入れることなど、どうしてできるでしょう? 皆さんは、黄金が装飾品となる前に、炉の中でどれほど厳しい試練を経るかを知っているでしょう。苦しみがなければ幸福もありません。誰かの幸福を願うなら、その人が良いことを体験する前に、その人に必要な試練に立ち向かわせる覚悟をしておかなくてはなりません。この世において喜びと苦しみは相伴います。バガヴァッド ギーターの中で、神(クリシュナ)は、自分はクシェートラ(身体)と、クシェートラグニャ(内在する叡智者)の両方である、と述べています。

今日、人々が学ばなければいけないのは、この世のものへの執着を捨て、神の愛を求めることです。神への愛を培うなら、世俗の物事を放棄するのは、つかんでいるハンカチを放すくらい簡単なこととなります。財産にしがみついているのは難しいことです。神の愛の意味を理解すれば、財産を放棄するのは簡単なことです。

村であれ、町であれ、どこにいようとも、人々に神への信仰を培わせ、愛を育てさせ、その愛をすべての人に分け与えるようにさせなさい。そうすれば、人々は言語に絶する至福を体験することでしょう。解脱は瞑想や苦行を通してはやって来ません。その唯一の手段は愛です。愛を込めて奉仕をするなら、それは瞑想や苦行、その他すべてになるでしょう。愛は五番目のプルシャールタ、人生の究極の目的です。また、愛は、今日世界を悩ませているあらゆる病に対する万能薬でもあります。憎しみはあらゆる病の原因です。それゆえ、バガヴァッド ギーターの中で述べられているように、憎しみは追い払うべきです。

神の玉座であるあなたのハートには、いかなる邪悪な感情も入る余地を与えてはなりません。マインド(心、マナス)を神に捧げなさい。やがて時が至れば、あなたは神に溶け込み、神と一つになるでしょう。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.28 C2
初出:サイ ラム ニュース 134号(2010年9月10月号)

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