サイババの御言葉

日付:1996年11月19日・場所:サイ・クルワントホール
レディース・デーの御講話より

バーラタの女性の栄光


罪への恐れは消え去り、邪悪な行為がはびこり
神への信愛が揺らいでいる
おお、人よ! これらの流れを断ち切るには
神の御名を唱えることが ただ一つの救済への道
もしも、女性が仕事のために外に出ていってしまうのならば、
誰が家庭の面倒をみるのであろうか?
もしも、夫と妻が会社に出かけてしまったのなら
誰が子どもたちの世話をするのか?
金銭を得ることで なにがしかの問題は解決するであろう
しかし、家庭の問題はどのようにして解決するのか?
実のところ、働く女性は多くの幸せを享受してはいない

愛に満ちた神聖真我の体現者である皆さん!

私は、女性は教育を受けるべきではない、などとは考えません。女性は教育を受けるべきです。仕事を持つことも良いでしょう。ただし、女性であることの義務と栄光にたがわぬ生き方をするべきです。

女性に与えられる最初の称号は、「家庭の女神(グリハ ラクシュミー)」です。女性は家庭と家族にあらゆる繁栄と名誉と良い評判を授けることを期待されているのです。女性の特性は、「家庭の女神」であることであって、「会社の女神」であることではないのです。

女性のもう一つの称号は、「善き伴侶(アルダーンギ)」(よりよい半身)です。これは、妻は夫その人の伴侶であって、夫の仕事上の伴侶ではない、という意味なのです。

三番目の称号は「家庭の女主人(イッラール)」(主婦)です。女性は家庭の女主人であって、会社の女主人ではありません。

結婚した女性に授けられた四番目の称号は、「正義の女主人(ダルマパトニー)」です。これは、家庭があらゆるダルマの住居であることを意味します。家庭は、太古の時代からの慣習として神聖化されている、すべてのダルマ(正しい行為の規範)の生誕地なのです。私たちが今日、保護し守るべきは真実(サティヤ)と正義(ダルマ)であり、国家ではありません。真実と正義を守るなら、その二つが国を守ります。それゆえ、家庭で正義を培うべきです。家庭は取るに足らない場所ではないのです。

家庭とは 多くの学科を教える 真の大学
家庭とは 歓喜をもたらす 慰めと喜びの中心
家庭とは 創造主ブラフマーさえも歌わせ
その他のものを踊らせることのできる 神殿
夫のいる家庭は 妻の学び舎

(テルグ語の詩)

家庭はダルマの住居であり、国を守り保護します。家庭は世界を照らし支える灯台です。女性の最も大切な義務は、教養や地位とは関わりなく「家庭を守る」ということなのだと認識せねばなりません。学校へと通う多くの学生や子どもたちにとって、母親は最初の教師です。誰にとっても、母親は生まれた瞬間から教師です。教師である母親が、家庭を離れて他の子どもたちを教えに学校へ行ってしまったら、自分の子どもは誰が教育するのでしょうか?

バーラタ〔インド。神を愛する者の意〕の女性にとっての第一の義務は、家庭をより善いものにし、理想的に営んでいくことです。全世界において、家庭と家族は社会の基本となる構成単位です。家庭がより善くなれば、世界全体がより善くなるでしょう。

本来、家庭は天国

この現象世界では、人々がどこからどのような喜びや満足感を引き出してこようとも、家庭に喜びがなければ、家庭はまさに地獄となってしまいます。本来、家庭は天国です。家庭を天国として維持していくことが女性の義務です。

アーンドラ地方には次のような格言があります。

「最初に家庭を整え、それから他のことを考えよ」

太古より、バーラタの名と名声は女性の偉大さに起因していました。

(バガヴァンは、ここでテルグ語の歌をお歌いになりました。それは、死の神に夫の命を取り戻させたサーヴィトリーの偉大さを称え、真実のためにすべてのものを犠牲にする決意をした夫を支えたチャンドラマティーの強さ、火に身を投じるという試練に耐えて証明されたシーターの純潔、そして、不屈の精神で夫のすべての困難を分かち合ったダマヤンティーを賞賛するものでした。バーラタは、その純潔さと勇気がすべての人類にとっての手本となっている、このような英雄的な女性たちによって注目されたのです)

このような英雄的な女性たちがいた国に、女性として生を受けたということは、まさに特権なのです。

聖なるガンジス河は母として崇められるべきではありませんか? バーラタは、ゴーマータ、ブーマータ、ヴェーダマータの家、すなわち牛と大地とヴェーダが母として崇められる国ではありませんか? バーラタの女性が自分の神聖な天職を忘れ、偉大な遺産に反して家庭の外での活動に従事することは適切ではない、ということを認識しなければなりません。

(バガヴァンは、ここで歌を歌ってくださいました。それは、この神聖な国に住む人々の特質である忍耐力を称え、母と母国への愛、そして自らの名誉を守るためならば、命を犠牲にすることさえ厭わないという、その心構えを称えるものでした)

不幸にも、これらの価値は今日失われつつあります。バーラタは霊性の分野において世界全体のリーダーでした。ヒンドゥーの伝統は、すべての時代を通じて、すべての人類の安寧を支えてきました。これらの理想を維持するために、太古のバーラタの王たち、そして女性たちは、偉大なる犠牲を払ってきたのです。すべての人が、これらの大いなる理想を復興させて掲げるという誓いを立てなければなりません。

野放しの不道徳な欲望の結果

大叙事詩『ラーナーヤナ』と『マハーバーラタ』、そして、最高のプラーナ聖典『バーガヴァタ』は、野放しの不道徳な欲望がもたらす破滅的な結果について、すべての人類に向けて大いなる教訓を与えています。偉大な学者であり武人であったラーヴァナは、邪悪な激情によって身を滅ぼしました。ヒランニャカシプは、すべての科学を極め、苦行によって様々な力を得たにもかかわらず、神への強烈な憎悪によって死に至りました。ドゥルヨーダナは、やむことのない嫉妬、そして権力と富への飽くなき欲望の犠牲となりました。

過去において多くの女性たちが、夫が邪悪な行いにふけることを防ぐ努力をするという偉大な役割を演じてきました。マンドーダリーは、そのような女性の優れた典型です。マンドーダリーは、夫ラーヴァナのやり方が間違っていることを気づかせようと努めました。しかし、ラーヴァナはその言葉に耳を傾けはしませんでした。

心は、人を悪魔にも神にも変えられる

神聖な魂(アートマ)の化身である女性の皆さん!

少なくとも今から、家庭を神聖にして、家族を神の道へと向けるよう努めなければなりません。心(マナス)には善にも悪にも向かう極めて大きな力があることを認識し、その力が善を為すことにのみ用いられるよう注意しなくてはなりません。心は人を悪魔にも神にもします。心は理智(ブッディ)の支配下にあります。理智は真我(アートマ)によって統治されます。真我を現すことにより一切が制されます。

世界中にはびこる悲惨な状況を知らぬ者はありません。これらのすべてを引き起こした根本原因は、人々が自分の生来の神性さを認識できないでいることにあります。あらゆる困難の原因は、利己心によって煽られる過度な欲望です。第一に必要なのは自分の内なる神性を信じることです。その自己信頼がなければ何も成就することはできません。

人々は平安を求めています。しかし、それはどのようにして手に入れられるのでしょうか? 神を信じることが必要不可欠です。信仰心は家庭で培われなければなりません。それによってのみ、子どもたちは崇高な思いを育んでいくのです。子どもは未来を担う国民です。それゆえ、善い育てられ方をしなければなりません。不幸にして、裕福な家庭の母親は子どもを構いません。子どもの世話は乳母に預け、そのため、子どもは実の母親よりも乳母を愛しています。昔の赤ん坊は母乳を与えられ、善い子に育ちました。今の子どもは母乳ではなく缶ミルクで育ち、その結果「缶の心」を持つようになっています。

女性だけがこの国の栄光を復興できる

もしも母親が正しい道に沿って家庭を守るなら、それは国を守ることになるのです。母親は子どもに真実(サティヤ)と正義(ダルマ)への愛を植えつけ、偉人の男性と女性の物語を話して聞かせなければなりません。昔の大人たちは、幼い子どもに自国の偉大な英雄と聖者に関するすべてを話して聞かせたものでした。今、そのような大人はどこにいますか?

現代の若者は、そのような老人たちを嘲(あざけ)りさえするのです。しかし、今日のバーラタに古来からの文化が伝えられ、保たれてきたのは、そうした年配の人たちが霊性の種子を蒔き続けてきたからです。バーラタの女性のみが、今、この国の栄光といにしえの文化を復興させることができるのです。

バーラタの文化は神聖な文化です。人々は皆、朝は神の御名を唱えながら寝床から起きました。聖地カーシー(ベナレス)では、死にゆく人々の耳元でラーマの御名を唱え続ける習慣があることを皆さんも知っているでしょう? 人間の転生は、死を前にした時の想念に基づいて為されると信じられているからこそ、人々は、そのようにして死にゆく者に神の御名を思い起こさせようとするのです。

子どもには、ナンセンスな歌ではなく、神聖なものごとを教えなさい。昔は、子どもが学校でまず最初に教えられる言葉は、「オーム ナマ シヴァーヤ」〔シヴァ神に帰依し奉る〕(五文字の神聖マントラ)や「オーム ナモー ナーラーヤナーヤ」〔ナーラーヤナ神に帰依し奉る〕というマントラでした。今日、これらの神聖な言葉は、「メエメエ、羊さん」だの、「キンコンカンと鐘がなる、子猫は井戸の中」だのという童謡に取って代わられています。これらは、私たちの子どもたちに教えるべきものですか? 子どもたちのハートに植え付けるべきは、ラーマやクリシュナのような聖なる御名です。

帰依者はいかに振る舞うべきか

チャイタニヤは、自らの舌に、甘美な神の御名、「ゴービンダ、ダーモーダラ、マーダヴァ」〔いずれもクリシュナ神の御名〕と唱える喜びに浸るようにと戒めたものでした。

(バガヴァンは、ここでチャイタニヤの歌を甘美に歌ってくださいました)

今日、帰依者はどのように振る舞うべきでしょうか? そのたたずまいは、月のように涼やかで静謐であるべきです。その言葉はバターのごとく柔らかく、心は蜜のように甘くなくてはなりません。

先ほど、シーターラクシュミーは、スワミの詩の一部を引用してスピーチをしました。

(ここでスワミはその詩の他の部分を朗誦なさいました)

おお、兄弟よ、目を開き主なるサイを見よ
シルディーにでも パルティにでもなく
そなたのハートの中にいるサイを

ハートを神聖な思いと感情で満たしなさい。

今日、信者たちはどんな行動をとっていますか? バドラーチャラムやティルパティ、パドリナートやケーダールナートに神がいると考えて、長い巡礼の旅に出ます。しかし、「神様は人々の心の中にいるのだから、神様を探しに出かける必要はない」と言われても、そのことを正しく理解しようとはしません。信者たちは、それほどにも自分の身近にいる神をまったく信じようとはしません。そして、どこか遠くにいるとされる神を探しに出かける費用を捻出するのです。「神はどこか他の場所にいる」というのは妄想(ブラマ)です。神はあなたの中にいるというのが真実です。人々は、自分の内なる神が自分を導くためにそこにいる、ということを忘れてしまっています。

すべての人は、善となり、善を思い、善を為し、善果を享受しなければなりません。それが真の「ヴェーダーンタ」〔ウパニシャッド、奥義〕です。

内なる神への全き信仰心を持ちなさい。純粋で崇高な愛を培いなさい。それのみが永続するものです。それ以外のすべては、生じては失われるものです。愛に生きることを学びなさい。女性は愛の源泉です。信愛(バクティ)は女性的な特質であり、英知(グニャーナ)は男性的な特質であるとされます。ここに男性の帰依者たちがいるのは、もっぱら女性のおかげであると言ったとしても、私を誤解してはなりません。神聖な感情によって、男性たちをここに連れて来たのは女性です。女性の仕事はどの面においても神聖です。女性は自分の人生のみならず、家族全員の人生を神聖な道に導こうと努めます。

女性を見下すのは罪深いこと

女性は軽々しく扱われるべきではありません。『バガヴァッドギーター』は、女性には七種類の力が与えられているが、男性は三種類の力を持つのみであると述べています。女性を見下すのは罪深いことです。たとえば、このような事実を思い起こしてごらんなさい。死んだ夫をよみがえらせようと努力する女性、あるいは、死んだ夫の面影を大切に胸に抱いている女性は大勢います。その一方で、どれほどの男性が、自分の妻のために、それと同じようなことをしましたか? 多くの男性は、慌てて後妻となる女性を探しまわります! バーラタは、こうした女性の振る舞いにおいて、これまで世界の規範となってきたのです。

女性が尊ばれるところには、どこであれ、繁栄と幸福があります。女性は決して、軽い扱いを受けたり、軽蔑されたりすべきではありません。主婦が涙を流すような家庭には、繁栄は一切もたらされません。

これが、家庭における女性の役割についての太古からの理念です。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.29 C50

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