サイババの御言葉

日付:1997年4月10日・場所:マドラス(現チェンナイ)のスンダラム
スンダラムのリニューアル式典におけるババの御講話より

タミル ナードゥの聖者たち





ババは、1968年、ムンバイに「ダルマクシェートラ」(ダルマの場の意)を、1973年、ハイダラーバードに「シヴァム」(吉兆なるシヴァの意)を、そして、1981年1月、ババが55歳の時に、南インドのタミル ナードゥ州の州都マドラス(現チェンナイ)に「スンダラム」(神聖な美の意)を開設なさった。これらはアシュラム外における三つの主な活動拠点であり、インドの霊性の中枢であるともいわれている。ババが初めてマドラスの土を踏んだのは19歳の時で、以来ババは何十回とマドラスを訪問なさっている。スンダラムには、ババの部屋、インタビュールーム、大小の礼拝堂、図書館、シルディ サイの寺院、屋外のダルシャン会場、医療情報センター、本屋、売店などがあり、バジャン会(神への讃歌を歌う会)、ヴェーダ教室、子供の開花教室(バールヴィカス)、青年の会、女性の会、瞑想の会、無料の医療奉仕、村への奉仕、主要なお祭りの際の大規模なナーラーヤナセヴァ(貧しい人への食事などの提供)、その他の奉仕活動が活発に行われている。スンダラムの外壁は、母なる神の愛を表すピンクの薔薇の花の色に塗られている。








愛の化身である皆さん! 人間は、道徳性(ナイティカム)、正義(ダールミティカム/ダルマ)、霊性(アーディヤートミカム/アートマ性)の複合体です。この三つの構成要素はすべて、人の内に含まれています。ですから、人に内在する神性を認識するには、自らの神性と人間性を切り離すべきではないのです。神性は人の内にあります。人は自分のことをただの人間だと考えています。しかし、そうではありません。人は皆、神の顕れです。人がこの事実を認識していないせいで、現象界では人間に対するあらゆる類の混乱が起こっているのです。すべての人は、自分は神である(アハム ブラフマースミ)という自覚を持たなければなりません。そうして初めて、人は自分の本性を理解するのです。神は、人間と異なる存在でも、人間とは別の存在でもないのです。

バーラタ〔インド〕は、太古の昔から深遠な真理を世界に伝えてきました。バーラタは、「ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ」(世界中のすべての人が幸せでありますように)という普遍的なメッセージを宣言しました。 不幸にも、この世の物事への執着ゆえに、人々はこの万人の幸福という感覚を失ってしまい、貴重な人生を無駄にしています。世俗的な富や快適さは、つかの間のものです。バーラタの文化は、真理(サティヤ)と正義(ダルマ)を信奉することを賛美してきました。

堪忍寛容より立派なものはない

神は人間のハート(霊的ハート)に宿っている存在です。神を探し求めてどこかよそへ行くのは無意味です。このことを理解して、すべての人への思いやりにあふれた生活を送るべきです。思いやりのない人は人間ではなく動物です。

タミル ナードゥ州のカーヴェーリー川の土手にあるプームプハールという場所に、昔、布を織って売ることで生計を立てていた男がいました。その場所にはある金持ちが住んでいて、その息子は悪童でした。その悪童が、はた織りの所へやって来て、サリーは一枚いくらで売っているのかと尋ねました。はた織りは、

「3ルピーです」(当時の価格)と答えました。悪童はサリーを半分に引き裂いて、半分になったサリーの値段を尋ねました。はた織りは、

「1.5ルピーです」と答えました。悪童はそれをまた半分に引き裂いて、そのサリーの値段を尋ねました。

「12アンナ(4分の3ルピー)です」と、はた織りは答えました。

〔サリーの長さは決まっていて、それより短ければ寸足らずで着用できず、サリーを半分や四分の一の長さに切ってしまったら売り物にはならなくなる。〕

はた織りは悪童の行いに腹を立てることもなく、穏やかで平静でした。悪童はその態度に驚きました。悪童は尋ねました。

「おじさんは、どうやってその堪忍寛容(クシャマ)を身につけたんですか?」 はた織りは答えました。

「堪忍寛容は、真理〔サティヤ〕であり、正しい行い〔ダルマ〕であり、非暴力〔アヒムサー〕であり、喜び〔アーナンダ〕の源泉です。堪忍寛容は天国そのものです。堪忍寛容はこの世の最高善です。この世に堪忍寛容より偉大なものはない。」

はた織りは、堪忍寛容(クシャマ)を賛美するたくさんの詩を詠みました。その歌集は『ティルヴァーチャカム』と呼ばれています。作者は、ほかならぬ詩聖マーニッカヴァーチャカルです。堪忍寛容という性質によって人生最高のゴールに到ったマーニッカヴァーチャカルは、神を賛美する自作の歌によってタミル ナードゥ州に栄光をもたらしました。何世紀にもわたってアールヴァール〔7〜12世紀インド南部ヴィシュヌ派のバクティ詩人たちの総称/神への思いに浸る人の意〕と呼ばれた他の多くの聖者たちも、タミル ナードゥで生まれました。

すべてのものは神のもの

もう一つ例があります。さまざまなタミルの王国の中でも、パーンディヤン王家の御代はとりわけ有名です。パーンディヤン王家の歴代の王の中に、自分の国を馬の繁殖で繁栄させたいと望んだ王がいました。その王の王宮には一人の若い大臣がいました。その大臣は人格者で、信心深く、信愛に満ちていました。彼は清らかな生活を送っていました。彼は誠実と献身の人生を送っていました。王はその大臣に必要なお金を持たせて、馬を何頭か買ってくるよう命じました。大臣はお伴を連れてその任務に出かけました。大臣は道中、荒廃したシヴァ寺院を目にしました。そこには、一人の聖人、シヴァヨーギがいました。そのヨーギと話をし、教えを聞いた大臣は、弟子となって彼のもとに留まりました。大臣は馬を買うという任務に興味を失い、神の黙想に浸りました。持ってきたお金はシヴァ寺院の修繕に充てました。その知らせがパーンディヤ王のもとに届くと、王は大臣を召還し、馬を買うために持たせた金を誤用したことをとがめました。大臣は答えました。

「私はお金を誤用してはおりません。すべてのものは神のものです。私はあのお金を神への捧げ物として使いました。」

「誰がお前にあの金を与えたというのだ?」と王は尋ねました。大臣は答えました。

「すべては神からの贈り物であり、あなた様が稼いだものではありません。あれはすべて神からの贈り物でした。ですから、私はそれを神に捧げたのです。」

王は大臣を牢屋に送りました。けれども、潔白な人間を牢屋に入れたことで、王は眠れなくなり、食事も喉を通らなくなりました。囚人となった大臣は、牢屋で神を称える詩を詠っていました。それらの詩は『ティルマントラム』と名付けられ、有名になりました。その歌集はタミル ナードゥのもう一つのヴェーダという高い評価を受けています。作者はティルムーラルという人です。

これほど神聖な地であるタミル ナードゥでさえ、霊性の衰退が見られます。利己主義がはびこっています。罪への恐れと神への愛に満ちた人は、ごくわずかです。罪への恐れ、神への愛、そして、社会の道徳は、まれなものとなってしまいました。真実の道を貫くならば、人は神を体験することができます。神の恩寵を求めて神に祈る人は、ごくわずかです。多くの人は、一時的なものである物質的な利益を求めて祈ります。人としての生涯という神聖で貴重な生が、つまらぬことを追い求めることで浪費されています。人々は富と権力に夢中になるという病気に侵されています。儲けたお金は社会のために使うベきです。

もう一つ、すべての人が、程度の差こそあれ、悩まされている病気があります。それはアハムカーラ(エゴ)という病気です。この自惚れは、まったく根拠のないものです。自分の富や所有物を自慢に思う理由はどこにもありません。人が自慢に思ってよい唯一のものは、自分の善良さです。人は、愛を培い、すべての人との一体感を心に抱かなければなりません。

愛の化身である皆さん! 愛に満ちた純粋なハートがなければ、あなたのバジャンも苦行等々もすべて、何の役にも立ちません。それはメッキのはげた器に盛られた食べ物のようなものです。それは必ず腐ります。あなたが霊性の道で着手しなければならないのは、愛に満ちたハートを培うことです。純粋な愛こそが、まっすぐに神へと通じる道です。それは限りなき神聖な愛です。

神への愛は、あなたの祈りが叶えられたか叶えられなかったかによって左右されるべきではありません。聖仙や聖賢たちが皆、神への信愛においてどれほどの試練を通り抜けてきたかを思い出しなさい。彼らはあらゆる困難に勇敢に立ち向かい、偉大な信者として後世に名を残しました。人生は挑戦です、立ち向かいなさい! 人生はゲームです、プレーしなさい! 人生は愛です、楽しみなさい! 人生は気づきです! 神を愛する一番の方法は、すべてを愛し、すべてに奉仕することです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.30 C9

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