サイババの御言葉

日付:1999年1月14日・場所:サイ クルワント ホール
サンクラーンティの御講話より

神性は人を守護する


たとえ自分の望みが達成できなくても
ぐらついたり、意気消沈したりしてはならない
悟った者は、いかなる逆境に遭遇しても快活でいる

(テルグ語の詩)

愛の化身である皆さん! 学生男女の皆さん!

エーカムセーナー スティタム ジャガト
(全世界は神性の一つの側面を基盤としている)


ちょうど太陽の光が太陽なしでは存在しないように、世界も神性という根源的な基盤なしでは存在できません。今、このテーブルの上には、花とコップとマイクとハンカチがあります。「ある」という言葉は、これらすべての物が存在していることを意味します。ここで強調されているのは、この「ある」という言葉です。ここに写真がある、ここにポットがある、ここに人がいる、というように、「ある」〔いる〕という言葉は、それらが存在していることを示します。

この「ある」は、神性の原理を完璧に描写しています。シャクティ(力)、リーラー(神の遊戯)、そして、神の光輝は、無限です。五大元素〔地・水・火・風・空〕は世界の保護と維持を担っています。一つ目の元素である地は、山や丘、川や海、村や都市や森の基盤です。皆さんは、このすべてを支えている大地の計り知れない力を十分に想像することができるでしょう。

五大元素の力

「地」は無限の力を授かっています。科学者は地球が回転していることを発見しました。それは真実です。論理的に言えば、その基盤である地球が回転しているなら、川も海も山も、村も都市も回転していることになりますが、実際はそうではありません。回転しているのは地球だけです。線路は電車が走るための基盤です。もし線路も動きはじめたら、乗客はどのような状態に陥りますか? このことから、線路は基盤(アーダーラ)であり、電車は基盤の上にあるもの(アデーヤ)であると推論することができます。テーブルは、基盤の上にあるもの(アデーヤ)であるマイクの基盤(アーダーラ)です。支えるもの(アーダーラ)と支えられるもの(アデーヤ)の関係を理解する努力をしなさい。あらゆる力(電気や磁気など)の貯蔵庫である大地は、基盤を形作り、その上に存在するすべての物を維持し、守っています。地中に存在しない力はありません。大地は、自らの無限の力によって、地上に存在するすべての生きものを維持することが可能です。

二つ目の元素である「水」には、見えるものと見えないものがありますが、水は地球全体に存在しています。人類の生命原理を維持しているのは、水です。水は地上の生命を支え、生きものの進化を担っています。

三つ目の元素である「火」(アグニ)も、遍満しています。火は、人体においてはジャタラアグニ〔消化の火/ジャタラーグニ〕という形で存在しています。体温を36.9度ほどに維持しているのは、この火です。海中にさえ、火は存在しています。それはバダバアグニと呼ばれます。木の中にも火は存在しています。二本の枝がこすれ合うと火が起こります。火は石にも内在しています。二つの石が打ち付け合わされると火が生じます。このようにして調べてみると、火のない所はないということが明らかになります。

同様に、四つ目と五つ目の元素である「風」(ヴァーユ)と「空」(アーカーシャ/エーテル)も、遍満しています。空はすべての基盤です。空は音の源です。実に、他の元素はどれも、空に源を発しています。

ですから、遍在で全能の神の力は五大元素すべての中に存在している、と結論づけることができます。五大元素自体とてもパワフルなのですから、神の力はそれよりどれだけ大きいことでしょう! 五大元素という、本質的に神性であるものが人の中に存在しているにもかかわらず、人は神の力はどこか別の所にあるのだと思ってそれを追い求めます。過去・現在・未来を知る神にとって、五大元素の力は微々たるものです。ですから、全知・全能・遍在という神の性質を理解するよう努めなさい。

スワミに体への執着はない

全世界も五大元素の集合体です。世界は、そのうちの一つの元素が欠落しても存在できません。あなたにそれが見えようが見えまいが、五大元素は至るところに存在しています。小さな例があります。空気は見ることも触ることもできませんが、あまねく存在しています。同様に、神性は見ることも触ることもできませんが、遍在しています。自分の内にある神性に気づくことなく、人は利己的になり、自分の業績は自分の教養や知性や体力によるものだと思っています。しかし、実際は、揺りかごから墓場まで、神性が人の歩みの一歩一歩を守護しているのです。自分自身を守る力を持っている人は誰もいません。神の力と神の意志こそが、人が自分を守れるようにしているのです。自由意志があるのは神だけで、他にはいません。

神が何を言い、何をしても、それは人類の幸福のためです。神は無私無欲です。神には少しの利己心もありません。昇っては沈むことによって、太陽にはどんな利益があるのでしょう? まったく何の利益もありません。日の出と日没は人類のためにあるのです。太陽は、人が日中に義務を果たすことができるよう、夜に休息をとることができるようにしているのです。同様に、神の行いはどれも、自分のためではなく、人類のためになされます。

ナラシンハムールティ〔先の講演者〕が指摘したように、カストゥーリ〔ババの伝記の著者〕はかつて、「帰依者を救う過程でご自分の体を顧みないというのはやめてください」と私に迫りました。私は、「この体は帰依者のために来たのであり、何でも、どんなことでも、帰依者のためになることに役立たせるつもりです」と答えました。体への執着は人間のものであり、まったくの無執着は神のものです。体への執着が、あらゆる苦しみと惨めさの原因です。神には体への執着がないので、自分の体の苦痛を重視しません。神がひとたび体をまとうと、その体には多くのことが起こることになります。何が起きても、それは全世界の幸福のためです。

学生が安全でいることはスワミを喜ばせる

学生たちは、男子も女子もとても善良です。学生たちは、ただひたすらスワミを喜ばせ、満足させたい、という望みだけを持って、学業やスポーツなど、さまざまな活動に参加しています。私はそのことをよく知っています。スワミを喜ばせよう、スワミを幸せにしようと学生たちが努力していることに、何の疑いもありません。しかし、学生たちは、どのようなことが本当にスワミを喜ばせ、満足させるのかを調べていません。ジャンプして火の輪をくぐり抜けたり、トラックを高速で走らせたりして勇気を示せば、スワミは喜ぶのでしょうか? 10人、20人の学生を地面に寝かせて、その上をバイクで飛び越えるような極めて危険なスタントをして度胸を見せれば、スワミは満足するのでしょうか? 皆さんが無事で安全でいて、観客が皆さんのパフォーマンスを喜んで幸せを感じているときに、私は満足するのです。

自分も他人も傷つけることなしに振る舞う人が、祝福される人です。皆さんは、安全で危険のないようにし、それと同時に、人に心配をかけるような行動はやめるべきです。これが私の望むことです。私は、自己顕示(プラダルシャナ)ではなく、気持ち(ニダルシャナ)を喜ぶのです。たとえ小さな行為でも、愛でいっぱいのハートでなされた行為は、私を喜ばせるのです。

スポーツ大会で何が起こったか?

私は、(12月に)バンガロールから戻ってくる途中、寮監に学生たちをスポーツ大会に連れて行かないようにと指示しました。寮監たちは私のこの言葉にいろいろな理由を付けました。さまざまな理由(カーラナ)があるかもしれませんが、私の関心は行い (カーラヤ)にあります。ここ〔プラシャーンティ ニラヤム〕に着いた後、私は副学長に、私は学生たちがバドミントンやテニス、バレーボールなど、いろいろなスポーツや競技への参加を反対しているわけではいないと言いました。それと同時に、1月11日に組まれている予定〔年に一度のスポーツ文化祭〕が実施されている最中、参加者にも観客にも何の怪我もないことを確実にしなさいと、私は警告しました。

学生たちは優しいハートを持っていて、それはスワミへの高潔な感情と愛に満ちています。学生たちは、私を喜ばせようと、いろいろなプログラムを計画しました。私は差し迫る危険をよくわかっていました。しかし、学生たちは私の言葉を受け入れませんでした。私は、このような状態の中で彼らに忠告してもあまり意味はないと感じました。私の言い付けにそむいた結果に直面した時、初めて彼らは私の言葉の価値に気づくのでしょう。その瞬間まで、誰も11日の朝に起こったことに気がついていませんでした。彼らは、スポーツ大会は大成功だったと言いました。私も皆さんが成功すれば嬉しいです。学生たちは大変よくパフォーマンスをしました。各人が自分の才能や能力を基に、そのイベントの成功に貢献しました。

スワミはいかにして学生たちを救ったか

あの朝、私がスタジアムに入った時、2台のトラックが目に入りました。即座に、その場に潜む危険が私の目に浮かびました。トラックの上には大きな足場が組まれていました。男子学生たちがその上でいくつかの軽業を披露しようと計画していたのです。私には、足場の棒の一本がきちんと取り付けられておらず、折れそうになっているのがわかりました。もしそうなれば、学生たちは頭と背骨にひどい怪我を負うでしょう。私はその学生たちが救われることを意志し、自分がその怪我を引き受けて身代わりになろうと決めました。

それに先立って、先日、ある少年が背骨を負傷し、バンガロールのマニパル病院に運ばれていました。その時、私は直ちに救急車を手配して少年をバンガロールの病院へ移すようにし、当面の費用の支払いのために1万ルピーを与えました。さらに私は、私たちの医師を同乗させることを請け合いました。少年の両親は、スワミから注がれた息子への愛を知り、感謝の涙を流しました。医師は、その少年は背骨がひどく損傷しているので座ることも寝ることもできないだろうと言いました。私は医師に、「どんな懸念も抱いてはなりません。私の言うとおりにしなさい」と言いました。奇跡的に、少年は病院に着くまでに座ることができるようになっていました。少年は病院のベッドに座ることができました。少年はそれまで麻痺していた手足の感覚を取り戻しました。何の危険もありませんでした。少年が守られたのは、私の限りない慈悲と恩寵によるものです。

私は、このような嫌な出来事が繰り返されないようにと意志しました。ひとたび背骨が折れてしまったら、正常な状態に戻すのは不可能です。すべての学生が、無事で安全でいるべきです。私は、学生たちは私の財産であると繰り返し言ってきました。私は、学生たちの福利は私の福利であり、学生たちの幸せは私の幸せであると考えています。私が自分の幸せや快適さのことを考えたことは一度もありません。私の唯一の関心事は、学生たちが失望したり、不便を負ったりしないことです。

スポーツ大会の前日、私は4人の学生に、馬車を囲んで番をし続けるようにと指示していました。彼らもスワミへの愛と献身であふれていました。けれども、私は彼らの誰もその場にいないことに気づきました。誰も非難されるべきではありません。わざとそんなことをする人は誰もいません。スワミは学生たちにとって命を支える呼吸そのものです。私は馬車を止めるようにと言いました。ある年輩の帰依者が、まったくの誠実さと愛と献身をもって、その馬車を引く車を運転していました。彼は私の指示に従って車を止めました。ちょうど私が副学長に話しかけようとした時、彼は誤って足をクラッチから離してしまいました。馬車が急に動いたので、私は馬車の上で倒れました。その結果、私は頭と手と背骨を負傷しました。男子学生たちが直面しなければならなかったことを、私が身代わりとなって引き受けたのです。

スワミの神性を垣間見せる

大勢の男女が観客席に座っていましたが、私は誰にもその怪我を気づかれないように気をつけました。私は何も起こらなかったかのように振る舞いました。副学長は、スワミが起き上がれないのではないかと思って心配しました。私は、遅くなればなるほど帰依者たちが心配することがわかっていました。そこで、私はすぐに立ち上がって痛みを忘れ、両手を振って帰依者たちを祝福しはじめました。痛みはとても激しく、手の傷は、ナイフで刺されたかのような、とても深いものでした。ですから、私の手を覆っているローブの袖は、私が怪我を負う前に裂けていたはずです。けれども、ローブの生地はまったく裂けていませんでした。このことは、あなた方に神性の無限の力を垣間見せています。

どのような状況の下でも私は決して自分の苦しみを見せない

私は、やっかいな状況になったと思いました。怪我をしたことが気づかれないよう、私は高座に上らなくてはなりませんでした。そのため、私は誰も不安になることのないよう意図しました。私は高座に上がり、椅子に腰掛けました。しかし、そうこうしているうちに、ローブの下に着けているドーティ(腰布)が血でぐっしょり濡れていました。帰依者たちがこのことに気づくかもしれないと考えて、私はさりげなく洗面所に入りました。備え付けの数枚のタオルでは、にじみ出てくる血を拭くには不十分でした。誰かが気づくといけないので、私は血の染みついたタオルを洗面所に残したくはありませんでした。極度の痛みがあったにもかかわらず、私は石鹸でタオルを洗い、絞り、乾かすために掛けておきました。どのような状況の下でも、私は決して自分の苦しみや痛みや疲れは見せません。何人かの学生たちが、なぜ私が繰り返し洗面所に行くのかを知りたがりました。私は「なぜ心配しているのですか? これは私事(わたくしごと)です」と答えました。通常、私は一日に朝夕2回しか洗面所に行きません。やたらと血が出てくるので、私は短い間に5回も6回も洗面所に行かなくてはなりませんでした。

そのうち、2人の学生がやって来て、旗を揚げてくださいと願いました。椅子から降りた時、電気ショックを受けたかのような衝撃が走りました。私は自分の神聖リーラーに苦笑しました。私はしっかりと地面に立つことができませんでした。私は、体への執着に惑わされるべきではないと思い、旗を揚げるために、微笑みを浮かべて前に歩いていきました。それから、ランプに火をつけました。私は、困った状況にあることに気がつきました。私はどんな姿勢でも快適に座ることができなかったのです。私は帰依者たち皆に体への執着をなくすよう説いているのですから、自らその手本を示すべきです。そのように自分に言いきかせ、私はそれにふさわしく行動しました。

小学校の子供たちは、とても上手にパフォーマンスをし、私と写真を撮りたがりました。私は子供たちをがっかりさせたくなかったので、その祈りに応えて子供たちの所まで歩いていって、写真を撮りました。その後、残りの学生たちと写真を撮るために、私はさらに5回もグラウンドまで歩いて行かなくてはなりませんでした。そのようにして、私は自分の体から自分を引き離しました。私の体は麻痺していました。まったく感覚がありませんでした。頭はぐるぐると回っていました。私は、自分の体に何が起ころうとも彼らを幸せにしようと決心しました。そして、このことは自分の胸にしまっておこうと決めました。グラウンドから高座に戻る間に血の染みが見えてしまうかもしれないと考えて、私は自分の椅子に直行するため階段を上りました。これほど大きな集まりの真最中、これほど長い間、これほどひどい怪我を公衆の目から隠しておくことが、人間にできるでしょうか? いいえ、できません。私は5時間という長い間、椅子に座っていたのです。

神性の本質をよく理解しなさい

私がこの一切を話しているのは、学生と帰依者たちが神性の本質を理解することができるようにするためです。同じ苦境にあったら、誰も、一秒たりとも、椅子に座っていることはできないでしょう。一歩も足を前に踏み出すことはできないでしょう。それは電気ショックが私の体を貫いているかのようでした。ショックを与えるのは電流だけれども、私自身が電流なのだから、その私がショックを受けることなど論外ではないか? そのような気持ちで、私はすべてのプログラムの間ずっと座っていて、それからマンディルに戻りました。セントラル トラストのメンバーたちが私の後に続きましたが、彼らは私に起こっていたことには気づきませんでした。私は彼らに、食事をとるようにと言いました。馬車を引く車を運転した年輩の帰依者が、起こったことについてわびてきました。私は彼に、「なぜ過去のことをくよくよするのですか? 過去は過ぎたことです。私は幸せです。私のことは心配しなくてよろしい」と言いました。

彼らは皆、昼食をとりました。昼食後、また血が流れ出しました。学生や楽隊が写真を撮るために外で待っていました。私は再び血を拭くために洗面所に行きました。それに気づいたインドゥラル シャーが、「スワミ、いったいどうしたのですか?」と叫びました。私は優しく彼に言いました。「インドゥラル シャー、何であれこの体に起こらなければならなかったことが、起きたのです」 そう言うと、私は自分の怪我を彼に見せました。彼らは皆、苦悶の叫びを上げました。彼らは体中の血に気がつきました。私は彼らに、もしそんなふうに自分の悲しみの気持ちを表すのであれば、今後一切、私は何も打ち明けないと言いました。私がマンディルに着くまで、誰も何が起こったか知りませんでした。

起こるべくして起こることは必ず起こる

同じように、私はさまざまな時点で、学生や帰依者を守るために、言うに言えない彼らの苦しみを身代わりとなって引き受けます。この不幸な出来事は、誰の責任でもありません。皆さんは誰かの過失を見いだそうとするかもしれませんが、誰も責められるべきではありません。起こるべくして起こることが起こった、それだけです。

たとえ密林に身を隠しても
運命づけられた苦楽は体験せねばならない
いくら細心の注意を払っても
時がくれば自分の体は滅びることになる

(テルグ語の詩)

あらん限りの予防策をとった強力な皇帝や王でさえ、定められた時が来れば自分の体を手放さなければなりません。何であれ、起こるべくして起こることは必ず起こります。このことに不当に抵抗してはなりません。

1月は西暦の新年の最初の月です。もしあなたが始まりに幸せを感じるなら、一年中幸せでいるでしょう。早く出発し、ゆっくり運転し、安全に到着しなさい。「プラマーディ〔事故〕の年」〔60周期のテルグ暦の年の名前の1つ/元日は西暦の1999年3月19日〕がどんどん近づいています。政治や教育など、あらゆる分野に危機があるでしょう。このことは、これから起こる危険の兆候です。私の幸福について心配する必要はありません。私は、何でも、すべてのことを行えます。小さな例があります。

クリシュナはいかにして戦争でアルジュナを守ったか

マハーバーラタの戦いの間、クリシュナはアルジュナの御者でした。ビーシュマがアルジュナに向けて矢を放っていました。クリシュナは、それらの矢と、アルジュナに向けて放たれた他のすべての矢を自分の方にそらして、アルジュナを守りました。その結果、矢がことごとくクリシュナに傷を負わせ、クリシュナはおびただしい量の血を流していました。クリシュナは御者でしたから、馬車をどちらの方向に走らせるべきか、アルジュナから指令を受ける必要がありました。その当時は、今あるような左右の方向指示器はありませんでした。そのため、アルジュナはクリシュナの右目の脇〔こめかみのあたり〕に自分の鉄の靴を押しつけて、馬車を右に進ませるよう指示しなくてはなりませんでした。同様に、馬車を左に方向転換させるには、クリシュナの左目の脇に靴を押し付けなくてはなりませんでした。その結果、クリシュナの顔からも血が流れていました。クリシュナの全身が血まみれになっていました。誰もそれを見てはいませんでした。なぜなら、それは戦いの時であり、誰もが自分の義務を遂行することに忙しく、また、クリシュナはアルジュナよりもだいぶ低い位置に座っていたという事実によるものでもありました。そのため、誰からもアルジュナだけしか見えず、クリシュナは見えなかったのです。

クリシュナは、先に交わした約束どおり、アルジュナを守りました。戦いの前に、アルジュナとドゥルヨーダナがクリシュナに助けを求めにいった時、ドゥルヨーダナはクリシュナの70万の強力な軍隊を選びましたが、アルジュナは軍隊よりもクリシュナを選びました。その時、クリシュナはこう言ってアルジュナを安心させました。「アルジュナよ、恐れる必要はない。軍隊は列車の客車であり、私はエンジンだ。エンジンに引かれて初めて客車は動くのだ。だから、心配するな。エンジンは君といる、アルジュナよ」 アルジュナも、「クリシュナ、あなたが共にいてくださるならそれで十分です」と言って、それに応えました。ですから、アルジュナに降りかかるべきすべての危険が、クリシュナの身に降りかかったのです。このような、神が帰依者を守る出来事が、過去にたくさん起きていました。

神の言い付けに従って無事で安全でいなさい

ですから、あの日に起こったことは何であれ、完全に私の意志によるものです。学生にもドライバーにも、あの事故に何の責任もないのです。毎日、学生たちはよく、なぜ私がそんなにゆっくりと歩くのか尋ねていました。私は彼らに言いました。「走るのに十分な場所がありません。もしあったら、私はいくらでも走れます」 私は笑みを浮かべて彼らと会話を交わしていました。私がこのエピソードを話しているのは、ただ、私の指示に従う帰依者を守るためなら、私はどこにでも行く、という事実を断言するためです。

私は、マンディルに戻ると、前述の4人の学生を呼びました。彼らは私の怪我に気づいて、うなだれました。私は指示に従わなかったことを叱りました。私は彼らに尋ねました。「なぜ君たちは、あの時、私に指示されたとおりにあそこにいなかったのですか? 私の指示に従ってさえいれば、この事故は起きませんでした」 私は彼らに、そのことで気を落とさないようにと言いました。この1年の間に起こる運命だったことはすべて、もう起こりました。ですから、神の言い付けに従って、無事で安全でいて、本校に良い評判をもたらし、両親を幸せにしなさい。

セヴァダルへの無料の食事

明日は神聖なウッタラーヤナ〔北行/ウッタラ(北)+アヤナ(旅)/北への旅〕です。それは、ビーシュマが滅びゆく肉体を捨てるために矢の床で56日間という長い時間横たわって待った、吉兆の時です。明日、太陽は北への移動を始めます。それは最もおめでたいことです。昔、人々はサンクラーンティの到来を表す歌を歌ったものです。

太陽は涼やかで穏やかに見え
日が短くなりはじめる
涼しい風が強く吹き
田畑は黄金色の収穫物であふれ
農夫たちは明るい月夜に歌い喜ぶ
川岸では真珠のネックレスのような花のつぼみが咲きほころび
唐辛子は赤く染まる
農夫たちは新たに収穫した穀物を家へと運び
サンクラーンティの喜ばしい祝祭の到来を歓呼して迎える

(テルグ語の詩)

何であれ、私が意志することは起こらねばならず、誰にも私の邪魔はできません。私はもう一点言及したいと思います。昨年の11月19日、女性の日を祝うために女性たちが皆、集まりました。彼女たちは言いました。「スワミ、私たちはあなたから贈られたサリーを着て、あなたという神の御前にいる至福を味わっています。あなたへの感謝の気持ちを表すには、お返しに何ができるでしょう? どうか私たちにあなたへ奉仕するチャンスをください」 私は答えました。「何もする必要はありません。いつも幸せでいなさい。それで十分です」 けれども、彼女たちの何人かが、国内のさまざまな地域からプラシャーンティ ニラヤムで奉仕をするために大勢でやって来たセヴァダルたちに食事を配るチャンスをお与えくださいと、嘆願しました。私はすでにそれを意志しており、それはまもなく目に見える形になるでしょう、と請け合いました。

私は、セヴァダルにはまったく無料で一年365日よい食事が与えられるよう、意志していました。毎日、3000人のセヴァダルがここにいます。彼らはとてもよい食事にありつけるでしょう。私はすでにその手配をしました。私はシェッド〔簡易宿泊所〕を設置しました。ガスボンベ、調理器具、お皿、スプーン、お米、豆など、必要な品はすでに調達してあります。誰もそのことに気づいていません。サティヤ サイは寡黙な働き手です。昨日以降、永遠に、セヴァダルには無料の食事が出されます。

セヴァダルのための交通費の値引き

それから、私はセントラル トラストのメンバーたちを呼び出して、彼らがしている仕事〔奉仕〕について尋ねました。もし誠実に自分の義務を果たさないなら、高い地位に就いていることが何の役に立ちますか? あらゆる職業、あらゆる社会の階層の人たちが、毎年セヴァダルとして奉仕に来ています。私が彼らに食事を無料で与えることができても、交通費は誰が負担するのでしょう? 鉄道の料金は日に日に値上がりしています。以前は、ここからマドラスまで行くのに20ルピーもあれば十分でしたが、最近では200ルピーあっても足りません。私はセントラル トラストのメンバーたちに、鉄道当局にセヴァダルの交通費を割り引きしてもらえないか交渉するよう命じました。私は優しく話しますが、自分の義務を果たすという問題については厳しいのです。私は彼らにこの仕事をするか、〔役員を〕辞めるか、どちらにするのか尋ねました。セントラル トラストのメンバーたちは鉄道に交渉し、セヴァダルの交通費を割り引いてもらうことの承認を得ました。カリユガの影響で、人々は利己的になっています。利己心は人々を怠け者にさせます。そのため、人々は厳しく言われると熱心に行動しはじめます。鉄道当局はとても喜びました。彼らはこう言って私に感謝しました。「スワミ、あなたの帰依者に奉仕できる機会を得られて、私たちは幸運です」

それだけでなく、セヴァダルや帰依者たちが不便なくプラシャーンティ ニラヤムに到着できるよう、中央政府は給油所の近くに駅を建設するために5億ルピー〔の予算〕を承認しました。私たちはペヌコンダとダルマヴァラムとプッタパルティを結ぶ列車を得ることになるでしょう。先日、鉄道部門の役人たちがデリーで会議をし、その結論に達したのです。スワミの75歳の誕生日には、誰もが楽にプラシャーンティ ニラヤムに到着することができるようになるべきです。人々は、ボンベイからでもマドラスからでも、デリーからでもハイデラバードからでも、プラシャーンティ ニラヤム行きの列車に乗ることができるでしょう。

前代未聞の驚異!

昔、プッタパルティは、人口が100人そこそこの小さな村落でした。そのような小さな村に、大学や飛行場、高度専門病院や鉄道の駅がこのような短期間にできるなど、誰が予想したでしょうか? この一切は、このアヴァターの生きている間に起こったことです。これは人類史上、前代未聞のことです。他のアヴァターたちの時には、これほど短期間に途方もない仕事が成し遂げられたことはありませんでした。さらに多くのすばらしい出来事が起ころうとしています。今日、皆さんは私を近場で見ることができます。しかし、そのうち、数マイル離れた所から私を見なくてはならなくなるかもしれません。

ですから、サイという神の近くにいることを最大限に活用しなさい。蓮華の御足に奉仕するという貴重な機会は、ひとたび逸してしまったら、二度と手に入れることはできないでしょう。サイはあなたに、信愛、力、そして、最終的には解脱を授けます。決して他人の言葉に惑わされてはいけません。このことを心に留め、救われなさい。私は、ただあなた方のために苦しみを引き受けましたが、今、あなた方の祈りに応えて、あなた方のために自分を治すことにしました。どんな不安にも付け入る隙を与えてはなりません。今、スワミは100%パーフェクト、パーフェクト、パーフェクトです!

スワミの言い付けに従い、よい評判を得て、よい点数を取り、世界の人々に理想を示しなさい。それが私の望みです。ボランティアのためのさらなる設備に加えて、私たちはあと100棟シェッドを建てて帰依者たちに十分な宿泊施設を提供するために、尽力しています。外国人への宿泊設備の提供のためには、小さな丘にそれに適した150エーカー〔約18万坪/60万平米〕の土地を入手しています。75歳の誕生日に誰がどこにいるかが、誰にわかるでしょう? けれども、もしあなたがスワミの恩寵を得て、あなたがスワミのものでいるならば、あなたがどこにいても、スワミはいつもあなたと共にいます。決して、スワミがあなたから離れてしまうなどという感情を抱いてはなりません。スワミを固く信じなさい。

霊性が唯一の薬

学生諸君! 今後、皆さんは、障害なくプログラムを行うことができるでしょう。来年はさらに盛大なスポーツ大会を開催することができるでしょう。私は皆さんの活動にどんな歯止めもかけません。しかし、皆さんが私の言い付けに従わなくてはならないことは確かです。これは私のためではなく、あなた方のためです。無事で安全でいて、理想的な霊的生活を送りなさい。

今日、私たちは、不穏や不安や心配がいたる所に広がっていることに気づいています。霊性は、そうしたあらゆる社会の病の唯一の解決策です。霊性を欠いているせいで、人は憂鬱と病気の餌食になっています。病気は心が生み出すものであり、体が生み出すものではありません。心の平安の欠如が憂鬱をもたらし、それが病気を引き起こします。体を鍛え、神を信じ、至福を経験し、それを人類同胞と分かち合いなさい。

どんなことがあっても、決して霊性を手放してはなりません。バーラタを守るのは神への信愛のみであり、他にはありません。獣性から遠ざかり、人間性を向上させて、神と1つになりなさい。人間的価値の大切さを理解することができずに、どうやって神性を理解することができるでしょう? まず人間的価値を実践しなさい。そうすれば、おのずと神性が現れます。霊性の道を歩み、国の隅々まで行って霊的理想を広め、世界全体の幸福のために努力しなさい。明日からは、いつも幸せでいなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.32 Part1 C1

<<SSOJ Topページへ <<サイババの御言葉メニューへ