サイババの御言葉

日付:2000年5月24日・場所:ブリンダーヴァン
夏期講習におけるババの御講話(11)より

神にとって愛しい者となるには


アナペークシャハ シュチルダクシャ ウダースィーノー
ガタヴィヤタハ サルヴァーラムバ パリッティヤーギー
ヨー マドバクタハ サメー プリヤハ

欲望を一切持たず、完全に清らかで決意が固く、まったく無執着で、
時の戯れの影響を受けず、誇示や見せびらかしを絶った人
そのような人は、私にとって愛しい

ギーター(12章16節)

愛の化身たちよ! 神は、バガヴァッド ギーターのこのシュローカ〔シローカ/詩節〕に連なる資質を持っている人を、心から愛します。

神にとって愛しい者となるために必要な資質

「アナペークシャ」とは、帰依者が、「アペークシャーすなわち“欲望や期待”を超越していること」を意味します。肉体と感官に縛られている人間が、願望を持たないことなど可能なのでしょうか? その可能性はほとんどありません。何らかの願望といったものは常にあるでしょう。しかしながら、人が抱く願望はコントロールされなければなりません。どんな種類の願望なら許されるのでしょうか? このことについてクリシュナ神が言ったことを思い出してみましょう。クリシュナは、ダルマにかなった行いはすべて神聖であると述べています。

ですから、許容される類の願望の中で最善の願望は、ティヤーガ、すなわち「犠牲〔捨離〕」を払いたいという願望です。ダルマを行いたいという切望も大切です。神を求める願望は必要不可欠です。本当は何を欲すべきかがきわめて明らかであるにもかかわらず、人々はそれとは別の類の幅広い期待や欲望を持っています。ダルマにかなっていることが非常に大切だと考える人もいれば、偉大さ(現世的な偉大さ)を勝ち得ることが目標の中で最高のものだと考える人もいます。また、この2つの目標を組み合わせる人もいます。実を言えば、自分の好きなようにする自由や権限は誰にもありません。人は、厳密に神の言うとおりにしなければなりません。

神はきわめてはっきりと、神はあなたが「アナペークシャ」の状態に到達することを望んでいると明言しています。では、どうすればよいのでしょうか? ダルマにかなった行為だけを厳格に行うこと、その行為を神に喜んでもらうためだけに行為をすること、そのすべての行為を完全に神に捧げることによって、そこに到達するのです。この精神で行われる行為は、世俗の欲望や期待をはるかに超えたものとなります。ですから、「アナペークシャ」という言葉を固定観念で解釈すべきではありません。「アナペークシャ」が本当に意味するのは、神のためだけに、神に喜んでもらうためだけに働きたい、という駆り立てられるような欲望を持つことです。しかし、それは何でもやっていいということではありません。私たちの行いは、神を喜ばせるもの、神の承認を得られるものでなければなりません。帰依者がこの流儀をもって行動するなら、その人は神にとって愛しい人となります。

帰依者が持たなければならない第2の資質は、「シュチ」すなわち「清らかさ」です。神はどのような種類の清らかさを私たちに期待しているのでしょうか? それは外面の清らかさでしょうか、それとも内面の清らかさでしょうか? 両方とも必要です。神は清らかさを愛しています。清らかさは神性です。ところが、人は外面的な清らかさだけに限っています。内面の清らかさも非常に必要です。実際、内面の清らかさが最も大切です。神は遍在です。神は外にも内にも存在しています。しかし、私たちはまず、内なる神の原理を認識しようと努めなければなりません。

一例があります。真鍮の鍋があり、あなたはその鍋でスープを料理しているとします。もしその鍋にメッキがされていなかったら、スープは腐り、毒にさえなってしまいます。私たちのハートは真鍮の器のようなものです。その器はプレーマ〔神聖な愛〕でコーティングされていなければなりません。この予防措置がとられていれば、ハートの中はきれいになります。内面の清らかさは外面の清らかさを得るにも不可欠です。外面の清らかさとは具体的に何を意味するのでしょうか? それは石鹸と水で体を洗うことではありません。それは、社会に無私の奉仕を行い、神を喜ばすためにその行為を行うということです。外面の清らかさを生み出すのはそうした奉仕のみです。内面の清らかさが欠けていれば、行った奉仕は必ず利己心で染まったものとなり、それによって外面の清らかさも薄れます。

帰依者が持たなければならない第3の資質は、「ダクシャ」つまり「固く揺るぎない決意」です。どのような決意を持たなければならないのでしょうか? あなたは、「どんなことがあっても、これを果たすまで、あるいは成し遂げるまで、休まない」と言わなければなりません。これがあなたが持つべき決意の類です。スワミ〔ババ〕は時折こう言います。

やるべきことをやると決意したなら
成功するまで食い下がれ


これが決意〔ダクシャ〕です。

望むべきことを望んだなら
それが叶うまで食い下がれ


これが決意です。

求めるべきことを求めたなら
それを手に入れるまで食い下がれ


これが、決意というものの意味です。

考えるべきことを考えたなら
その考えが実現するまで食い下がれ


これが決意の特性です。最終的に、どうなるべきなのでしょうか?

神は、ほとほと嫌気がさして、その願いを叶えるしかなくなる!
かたくなに、粘り強くあり、決してあきらめてはならない
決心を捨てて引き下がるのは、帰依者の特質ではない


決意とは何を意味するのでしょうか? 決意とは、「私は絶対に神に会い、神を有し、神の恩寵を手に入れるのだ」と、固く決心していることです。神は、それほどの固い決意を持った帰依者を心から愛します。

次は「ウダースィーナ」です。これは「無執着」を意味します。あなたが何をしていても、そのことにまったく執着していないことが必要です。あなたはどんな類の行いをすることもできますし、たとえば、奉仕活動に従事しているかもしれません。しかし、自分がしていることに対してどんな期待〔果報を含む〕もしてはいけませんし、見返りや賞賛や感謝などを求めてもいけません。

とりわけ、奉仕団体で仕事をしているときには、とても気をつけなければなりません。名声や評判を求める気持ちがあってはなりません。褒められたい、尊敬されたいと思ってはいけません。「私はこんなに猛烈に働いて、こんなにたくさんのことをしているのに、そのことが新聞に載っていない!」などと嘆いてはなりません。そのような欲求や期待を持って行為をするなら、あなたが得るかもしれない善果は無効となって、行為の神聖さは壊されてしまいます。ですから、誠実に奉仕の行為を行い、成功にも失敗にも、賞賛にも批判にも影響を受けずにいなければなりません。

この後は、「ガタヴィヤタハ」です。これは「時間によってもたらされる浮き沈みに左右されないこと」を意味します。この特定の徳を身につけるには、強い決意も求められます。過去を思い悩んだり、将来を心配したりしてはいけません。なぜそのような意味のないことをくよくよと考えるのですか? いくら考えても、思いをめぐらせても、気に病んでも、過去の惨めな状況を正したり、訂正したりすることはできません。

将来に関しては、誰も将来について確かなことを言うことはできません。なぜなら、将来はあまりにも不確実だからです。あなたは明日何かを成し遂げたいと思いますが、あなたが明日生きているという保証はありますか? あなたは、自分は明日生きていると請け合えるのですか? そのようなことについては、誰も確信を持って話すことはできません。ですから、将来の心配をすることに何の意味がありますか? 未来は時間の胎内に隠されていて、誰もそれを見ることはできません。それなのに、なぜいろいろな将来のシナリオを想像することに時間を費やすのですか?

過去については、過去は過ぎたことであり、時間の砂の中に埋もれています。過去をよみがえらせたり、取り返したり、復活させたりすることはできません。末来は時間の中にあります。それなのに、なぜ過去と未来の両方について考えて、時間を無駄にするのですか? もしあなたがどうしても考えたいというのであれば、現在のことを考えなさい。人間は考えずには生きられません。思考の波が、絶えずあなたを襲ってきます。あなたの思考を現在に向けなさい。どうしてでしょう? なぜなら、過去も未来も現在の中にあるからです。現在は、過去と呼ばれる木からとれた種です。この種の中には未来と呼ばれる木も入っています。このように、過去と未来の両方の具現である現在が、非常に重要なのです。ですから、今を生きなさい。

状況や事情を正しく判断しながら、 人を傷つけたり、人に害を与えたりすることなく、
また、その過程で自分も傷つくことなく話し、行う者
その者は、賢人であり、祝福されている


将来のことを心配せずに、現在に集中しなさい。もし現在に適切な注意を払っていれば、将来は必ず明るいものになるでしょう。あなたはそのことを確信してよいのです。

最後の、「サルヴァーラムバ パリッティヤーギー」は、完全な捨離を意味します。真の捨離者とはどんな人でしょうか? どんな時でも、どんな状況の下でも、完全に平静でいる人こそが、この言葉にふさわしい人です。そのような人には、誇示や見せびらかしは及びません。神は、これみよがしなタイプの人とは距離を置きます。実際、人が最初に手放さなければならないのは自己顕示癖です。誇示は、ラジョーグナ〔激性〕(強引で攻撃的な傾向)の確実な印です。見せびらかしたいという欲求は、あらゆる欲望の出発点です。世間の注目を求めるのは、世俗的な欲望の反映です。世俗的な目標を追い求めてはなりません。なぜなら、それらは一時的なもの、消えゆくものの象徴だからです。誇示、ショー、世間の注目を求めるのは、避けなさい。クリシュナは、そのような隠遁者は私にとって愛しいと明言しました。

今日では、どこでもショーと世間の注目を求めるケースばかりです。人は慈善活動にわずか5ルピーを使い、新聞でその行為を世間に注目させるために500ルピーをつぎ込む用意ができています。これはショーではありませんか? 世間の注目を必要とするのは名声を求める人だけであり、反対に、本当に奉仕に関心のある人は世間の注目を必要としません。決して世間の注目を集めたいと思ってはなりません。誇示をもくろんでいるかぎり、絶対にアートマの至福を体験することはできません。真我を知らない者に、どうやって神の愛を得ることができるでしょうか? 神の恩寵を求めている間ずっと、すべてのことにおいて、あらゆる面において、すこぶる忍耐強くいなければなりません。そうして初めて、自分は霊的な道を歩んでいると言えるのです。そうして初めて、神の配慮を受ける資格を得られるのです。

無私の奉仕のみが神の愛を招く

愛の化身たちよ! もしあなたが神の愛を受ける資格を得たいと願うのであれば、あなたの行いは愛に沿ったものでなければなりません。適切で神聖な行いをすることなしに、神の愛を確保することは不可能です。いつも見返りを求めている人が、本当に幸せになることができるでしょうか? あなたが求めるべき唯一の見返りは、自分の義務を正しく行うことの楽しさと喜びです。奉仕の喜びこそが真の報酬です。もしあなたが神の指示に背いたとすれば、あらゆることが上手くいかなくなるでしょう。

ヤッド バーヴァム タッド バヴァティ
――気持ちのとおりの結果が生じる


もしあなたが神の愛を欲するなら、あなたの行いはその願望にマッチした、その願望に合ったものでなければなりません。もしあなたが神の愛を望まないなら、あなたの好きなようにするのは自由です。けれども、もしあなたの望むものが神の愛であるならば、それにふわしい行いをしなければなりません。この世では、自分が望むものを所有する権限を得る前に、まずその代金を払わなければなりません。店にタオルを買いに行ったとします。店員は値段は20ルピーですと言い、あなたが20ルピーを現金で払うと、店員はタオルを梱包してあなたに渡してくれます。お金がなければタオルは得られません! 神も同じような「取引」の手順を踏みます。神はどのような「ビジネス」〔商取引〕をするのでしょうか? それは神聖なビジネスです! もしあなたが愛をもって神の命令に従うなら、間違いなく愛を受け取ることができるでしょう。神の愛に制限や規定はありません。1つ条件があるだけです。それは、あなたが差し出し、それから受け取る、というものです。先ほどスワミが言ったように、

無私の奉仕を捧げなさい、
そして、愛を受け取りなさい


無私の奉仕を捧げずに、どうやって神の愛を受け取ることを期待できますか? 神の愛を受け取るためには、世俗的な欲望がまったくなく、常に無私の奉仕に従事していなければなりません。奉仕は喜ばしいものでなければなりません。すべての行為は、神に喜んでもらうためだけに行われなければなりません。そのために何かをあきらめる必要はありません。ただ、あなたの通常の義務を、運命によって定められた方法で果たし続ければよいのです。

あなたは勉強がしたくて、なんとしてでも勉強するとします。しかし、どのような態度で勉強すればよいのでしょうか? あなたは神に喜んでもらうために勉強すべきです。あなたがどこかで雇われているとします。あなたはどのように仕事をすべきでしょうか? 神を喜ばせようとして働いているかのように仕事をしなさい。「この仕事は神様への捧げものとしてやっているのだ」と自分に言い聞かせなさい。その気持ちを自分のハートに植え付けて、何であれ、あなたのやりたいこと、やらなければならないことをしなさい。けれども、あわててこの進路を採用する前に、いったん立ち止まり、よく考えて、あなたがしようとしていること、神に捧げようとしていることを、本当に神が喜ぶかどうかを確認しなさい!

自分はこれを神に喜んでもらうためにやっているのだと主張して、くだらないことや愚かなことをすることはできません。もしあなたが自分の思いつきで行っていたら、神はあなたの行いを捧げものとして受け取ってくれると思いますか? あなたのすべての行いには、神に受け入れられる品質を保証するスタンプが押されてなければなりません。そのスタンプがなければ、あなたの行為はまがいものになってしまいます。神にあなたの行為が善いものであると認められることが望ましいのです。

きちんと切手(スタンプ)を貼れば、手紙は遠く離れた場所まで届きます。けれども、住所だけが書かれていて封筒に切手が貼られていなければ、何にもなりません。切手が貼られていない手紙がポストに投函されても、配達不能郵便課に行き着くだけです。ですから、もしあなたの捧げものを本当に神に届けたいのであれば、プレーマ〔神聖な愛〕という切手を貼らなければなりません。プレーマがあなたのあらゆる行いに浸透しているとき、初めて神は恩寵を注ぎます。神はさまざまな形で恩寵を注ぐでしょう。

忍耐なくしては何も生まれない

ゆっくりと、しかし確実に、あなたはギーターのシュローカの中で列挙されているすべての資質を伸ばさなければなりません。それらの徳を得ることは不可能だなど決して疑ってはいけません。

2つの木片をこすり合わせ続ければ
火は必ず生じる
カード〔凝乳〕をかき混ぜ続ければ
バターは必ずできる
絶えず探求し続ければ
英知は確実に花開く


2つの木片を強くこすり合わせると火花が出ます。バターはカードをかき混ぜ続けて作ります。同様に、霊性においても、持続的な探求は人を英知と神性へと導きます。あなたは、「タット トワム アスィ」(タットワマスィ)、すなわち「汝はあれ〔それ/神〕なり」という真理を悟ります。こすり合わせずに火を手に入れることや、かき混ぜずにバターを手に入れることができますか? 火は木の中に潜んでいて、目には見えません。火を出現させるには、強くこすり合わせる必要があります。バターはカードの中に潜んでおり、バターを出現させるには、一所懸命かき混ぜなければなりません。それと同じように、神の愛が欲しいなら、絶えず善い行いをし、神に喜んでもらうためだけにその行いをし、その行いをすべて神に捧げなければなりません。この全託の精神で働いたときにのみ、あなたは神の愛を受ける資格を得られます。

全託〔降伏〕とは、あなたは敗北して相手が勝利を得ることを意味するのではありません。霊性では、全託〔降伏〕とは2つが1つになることを意味します。そこには、与えたり、受け取ったりするようなことはありません。あらゆるところに浸透している宇宙の唯一性を認識しなさい。その唯一性の実体は神以外の何ものでもないことを認識しなさい。そうすれば、あなたは自動的に神を経験することになります。

学生諸君! 以上のことを実践するのは非常に難しいことのように聞こえるかもしれません。幸福は懸命な努力の後にのみやって来る、という真理を知りなさい。困難がなければ、喜びはありえません。

ナ スカト ラバテー スカム
――幸福は幸福からは生まれない


幸福は困難からしか生まれません。最初に困難がなかったら、どうやって喜びの甘さがわかるでしょうか? ですから、ある程度苦労をしたり、困難に直面したりしければならないのです。暗闇がなかったら、明るさに価値はあるでしょうか? 飢えがなかったら、食べ物に価値はあるでしょうか? 同様に、あなたは幸せの本当の味と価値を発見しなければなりません。あなたはどのような方法で発見しなければならないのでしょうか? まずあなたの中にある愛を発見し、それを使って神の愛を受け取りなさい。あなたの中にある、清らかで汚染されていない愛の樽の栓を抜けば、あなたは神の愛の受け手となるでしょう。神はあなたの過ちを大目に見て、許しさえするでしょう。けれども、それを当たり前だと思って延々と過ちを犯してはいけません! あなたは神があなたの中に預けたすべての宝物を守らなければなりません。

神はどこにでもいるが、人は神を認識する努力をしなければならない

ゴーピカー〔牧女〕たちは常にクリシュナを礼拝していました。クリシュナがマトゥラーに行ってしまった時、ゴーピカーたちはとても落ち込みました。ゴーピカーはあまりにもクリシュナへの想いに浸っていたので、どんな仕事をしていても絶えずクリシュナの御名を呼んでいました。あるとき、あるゴーピカーが、頭に牛乳とカードとバターの入った器を載せて、市場に向かっていました。目的は市場でそれらの乳製品を売ることでした。村の行商人は、自分が売る商品を、「牛乳! バター! カード!」などと大声で言って回るのが普通です。ところが、そのゴーピカーは、クリシュナへの想いに没頭していたあまり、売りに来た商品の名前を言って回るのをすっかり忘れていました。そうする代わりに、ゴーピカーは大声で「ゴーヴィンダ、クリシュナ、マーダヴァ」などと言いながらバザーの通りを歩き回っていました。ゴーピカーは神の御名を繰り返し続けました。そして、売ることをすっかり忘れ、何も売らずに家に戻りました。当時の信愛の強烈さはそれほどのものだったのです。

あるゴーピカーが、あるとき、クリシュナに言いました。

「おお、クリシュナ、私はどうやってあなたを見ればいいのですか? どうすればあなたがわかるのですか? その可能性はありません! あなたはすべてのものの中にいるのに見えません! 私たちが、あなたが見えませんと言うと、あなたは突然現れて、あなたがいますと言うと、あなたは突然消えてしまうのです!」

おお、クリシュナ、私たちは、いつかあなたのことがわかるでしょうか?
原子よりも小さくて、最も大きなものよりも大きなあなたは、
840万種の生き物のすべての種の中におられます
そして、あなたはそれぞれの種のすべての生物の中に宿っています
私たちは、あなたのようなお方をいつかわかるのでしょうか?


当時の人々は、840万種の生き物がいると信じていました。神は、それらの非常に多くの種のそれぞれに属する生き物すべての中に、内在者として宿っています。どうしてでしょう? それは、一なる神が多となったからです。神の姿がそれほどまでに多いとき、私たちはどの姿の神を礼拝すべきなのでしょうか? 神をどの名前で呼ぶべきなのでしょうか? 姿形は私たちの肉眼の知覚の結果であり、名前はそのさまざまな姿形に私たちが与えたものです。神自身は、真理であるのみです。

ここに、花と便箋と布があります。(スワミはご自身の前のテーブルの上にあるさまざまな物を指差しました) 目には、これらはすべてまったく違って見えます。花は花、布は布、便箋は便箋です。名前や形は様々ですが、根底をなす共通の要素があります。それらすべてが存在しています。この存在しているということが根本的な真理です。それは、さまざまな名前や形の背後にある、1つになる基質です。それが在るのです! それは神と同一です。

神は確かに存在している
そして、神は目に見える!


神は、います、います、います!! 神は存在します! あなたは神の存在を完全にすっかり信じるべきです。もしあなたがこの信念を持っていれば、どこにでも神を見ることができます。あなたはどうしてあなたのお母さんを信じているのですか? あなたはこれまで、お母さんがあなたの本当のお母さんかどうか疑ったことがありますか? 一度もありません! あなたはどうしてあなたのお父さんを信じているのですか? あなたはこれまで、お父さんがあなたの本当のお父さんであることを疑ったことがありますか? あなた方はこの世のあらゆるものを信じたがりますが、霊的な真理は受け入れようとしません。これは現代人の最大の過ちであり、弱点です。

ブラマとブラフマ

寮監(先にスピーチをしたブリンダーヴァン キャンパスの寮監)は、ラーマーヤナに言及しました。4つのヴェーダの象徴である、ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナは、皇帝ダシャラタの息子として生まれました。ラーマはリグ ヴェーダの権化、ラクシュマナはサーマ ヴェーダ、バラタはヤジュル ヴェーダ、シャトルグナはアタルヴァナ ヴェーダの象徴でした。このようにして、4つのヴェーダが4人の王子として顕現しました。

聖仙ヴィシュワーミトラは、ヤーガ(ヴェーダの儀式)を行っていました。ヴィシュワーミトラ仙は、自分がしたいと思っている儀式を守ることができるのはヴェーダの権化であるラーマだけであるということを、よく知っていました。そこで、ヴィシュワーミトラ仙はラーマの助けを求めるためにダシャラタ王の宮殿に行きました。ダシャラタ王は、崇敬すべき聖仙を見ると、とても喜んで尋ねました。

「おお、聖仙よ、何があなたをここに来させたのですか?」

ヴィシュワーミトラ仙は、問い返すことでそれに答えました。

「私の頼みをきいてくれるか?」

ダシャラタ王は、一秒たりとも考えることなく、「もちろん、間違いなく」と答えました。ダシャラタ王は、こうして確約し、自分の言葉に縛られることとなりました。

人の行いは、自分の能力に合ったものでなければならない
あらかじめ方向づけたものでなければならない
良い面も悪い面も、あらゆる面を考慮に入れたものでなければならない
決してあせって起こしてはならない
そして、目的にかなったものでなければならない
そうでなければ、命に関わる危険な行いとなりえる


約束をするときには、する前によく考えなければなりません。軽々しく、あるいは、やみくもに約束をして、後悔したり、反故にすべきではありません。ダシャラタ王が約束をしたのは、ヴィシュワーミトラ仙への絶大な信頼があったからです。ヴィシュワーミトラ仙は言いました。

「王よ、私が森で執り行っているヤーガを守るために、息子のラーマを私と共に森に遣ってほしい」

ダシャラタ王は唖然としました。

「この息子ラーマは、数え切れないほど祈り、おびただしい数の苦行をし、おびただしい数のヤグニャを行った末に、私のもとに生まれてきたのです。その愛しき年若い息子を、悪鬼〔羅刹〕と戦ってヤーガを守らせる森に送ることなどできましょうか? ラーマはまだ若い。ラーマは悪鬼を見たこともありません。かの恐ろしい生き物を怖がるかもしれません」

ダシャラタ王のラーマへの愛は、自らの内にそのような思いを高まらせました。ヴィシュワーミトラはダシャラタ王の懸念を察知して、王を厳しく叱責しました。

「そなたは自分の息子が何者かわかっていない。彼はまさに神の化身なのだ。彼を自分の年若い息子だと思ってはならない! 執着が、そなたにラーマが絶対実在であるということを見えなくしている。その肉体的な執着を捨て、信愛に取って代わらせなさい」

それから、ヴィシュワーミトラ仙はヴァシシュタ仙(王宮に住むダシャラタ王の導師)を呼び寄せました。ヴァシシュタ仙は言いました。

「ダシャラタよ、なぜ私がそなたの王室の僧として奉仕しているか知っているか? 私がここにいるのは、そなたの富や名声や権力に魅了されているからではない。私は神が人間の姿をとってここに誕生することを知っていたのだ。私はその神なる少年のダルシャンを受け、共に時を過ごし、至福を経験することで、わが人生を聖なるものにしたかったのだ。私がここにいるのはそれが理由であり、世俗的な利益のためではない。なぜそなたはラーマについて疑念を抱くのか? ラーマをヴィシュワーミトラ仙と共にすぐに森に遣りなさい」

おおいに不本意ながら、ダシャラタ王はヴァシシュタ仙の命令に屈しました。

ヴィシュワーミトラ仙は普通の聖仙ではありませんでした。その名のとおり、ヴィシュワーミトラは全世界の友(ヴィシュワ=全世界、ミトラ〔ミットラ〕=友)でした。彼はどのようにしてその状態に達したのでしょうか? それは、人類にガーヤトリーマントラという貴重な贈り物を与えたからです。厳しい苦行を積んだことで広く知られ、並外れた霊的な力を持ち、多くの者のグルである、偉大なヴィシュワーミトラ仙は、そうして、若き王子であるラーマとラクシュマナを森に連れていきました。

一行はジャングルの奥深くに入り、サラユー川に近づきました。夕刻だったので、ヴィシュワーミトラ仙は王子たちに、「さあ、夕べの祈りを捧げなさい」と言いました。ラーマとラクシュマナがそうした後、ヴィシュワーミトラ仙は川向こうを指差して言いました。

「我らはあそこに行く。あそこが私がヤーガを行う場所だ。暗くなってきたので、恐ろしい悪鬼どもが出るだろう。そなたらが脅えないよう、私が2つのマントラを教えよう。バラーとアティバラーだ。私のそばに座って教えを受けなさい」

それから、ヴィシュワーミトラ仙は2つのマントラを教えました。皆さんは、いかに迷妄〔マーヤー〕が明晰な思考を覆うかがわかったでしょう! 今ここにいるのは、ダシャラタ王の宮廷では、ラーマは神の化身であると強く宣言し、ラーマを称賛した偉大な聖仙です。ところが、今、森の中では、その思いはどこかに行ってしまったのです。ヴィシュワーミトラ仙は、ラーマは年若い王子なので悪鬼を怖がるだろうと想像しているのです。このことは、その人物がどんなに進化していても、身体的な関係がある場合には化身についての疑念が生じえる、生じるものなのだ、ということを示しています。

そうした疑念は思い込みの結果です。ブラマ(思い込み/妄想/惑い)はブラフマン(神)を覆い隠すことができるのです! 思い込みは、多くの生を重ねるうちに蓄積された傾向から生まれます。一方、神聖な思いや人間の姿をとった神を認識する能力は、神聖な行為を重ねた結果です。ブラマとブラフマンの間には、なんと大きな違いがあることでしょう! ヴィシュワーミトラのような偉大な聖仙でさえも、ブラマの支配下に置かれえたのです!

神は愛によってのみ結びつけられる

あなた方も時々そうした思い込みを経験します。そして、問いが生じます。「神とは何なのか?」、「人はどうやって神性と結びつくべきなのか?」、「人間とは何者なのか?」、「悪鬼とは何か?」、「動物とは何か?」といった問いです。これらの答えは簡単です。神性とは清らかな愛です。ダルマの道に従う者が人間です。残酷さが悪鬼の性質の反映です。そして、その人の中に獣性があると、その人は動物のレベルにまで引きずり込まれてしまうのです。神性は愛によってのみ完全に経験することができるものであり、それ以外の方法ではできません。愚かにも多くの人が想像しているように、神はお金で買えると思ったら、大間違いです。

皆さんはサティヤバーマー(クリシュナ神の妻の一人)の話を知っているでしょう。サティヤバーマーは、クリシュナは自分のためにいてほしい、どこにも行かせたくないと思っていました。サティヤバーマーは、どうすればそれができるかをナーラダ仙に尋ねました。ナーラダ仙は霊的知識の指導を与える者です。サティヤバーマーのエゴがその理不尽な欲求の原因であることを見てとったナーラダ仙は、サティヤバーマーに教訓を与えることにしました。その目的のために、ナーラダ仙は策を講じ、サティヤバーマーにこう尋ねました。

「あなたはクリシュナの体重に釣り合う富を持っていますか?」

サティヤバーマーは答えました。

「私は神秘の宝石スヤマンタカを持っています。私はその宝石でいくらでも富を生み出すことができます。ですから、私の豊かさを疑ってはいけません。私は、確実に、金や宝石や宝飾品でクリシュナの体重に釣り合わせることができるでしょう」

すると、ナーラダ仙は大きな天秤を持ってこさせ、クリシュナ神に協力を要する伝言を送りました。クリシュナが来ると、ナーラダ仙は、片方の天秤皿の上に座ってくださいと頼みました。それから、サティヤバーマーに、もう一方の天秤皿に金などを載せるようにと言いました。いくら金を置いても、クリシュナの乗った天秤皿は下がったままで、ほんの少しも上がることはありませんでした。

サティヤバーマーは恐れをなしました。自分のすべての富を天秤皿に載せるように命じましたが、何の効果もありませんでした。ついには、サティヤバーマーは大事な神秘の宝石スヤマンタカさえも載せました。それでも天秤は動きませんでした。サティヤバーマーはルクミニー(クリシュナの妻の一人)のところへ走っていって、大声で「姉上! 姉上!」と呼びました。この時まで、サティヤバーマーはルクミニーのことを気にすることもなく、顔を見ようともしませんでした。その日はルクミニーの誕生日でしたが、嫉妬深いサティヤバーマーは、その日もクリシュナがルクミニーのところに行くのを妨げていました。ルクミニーは思いやりのある女性です。ルクミニーはサティヤバーマーに「妹よ、何をあわてているのですか? 何があったのです?」と尋ねました。サティヤバーマーは事の次第をすべて説明し、「すべてあのナーラダのしわざです!」と言いました。

ルクミニーは自分の庭のトゥルシー(トゥラスィー)の周りを回ってうやうやしく礼拝し、葉っぱを1枚摘むと、それを手のひらに載せてサティヤバーマーと一緒にクリシュナのいるところに行きました。ナーラダ仙は顔に大きな笑みを浮かべて2人を待っていました。クリシュナも満面の笑顔でした。クリシュナは言いました。

「私は、私を買う準備ができている者に、いつでも自分を売りに出します」

すると、ルクミニーは言いました。

「ナーラダよ、クリシュナは、ご自身の輝かしい御名とのみ、釣り合うことができるのです。物質的な富とは釣り合いません。ですから、私はただ、“クリシュナ!”とだけ唱えます」

ナーラダ仙は答えました。

「どうやって1つの言葉が、形なき御方と同じ重さになりえるでしょうか? 私は、その種のものを天秤に載せて量ることを認めることはできません。あなたは空の天秤皿の上に何か物を載せて天秤を傾けようと試みなければいけません。サティヤバーマーは自分のすべての富を載せて試しましたが、何の役にも立ちませんでした。あなたは何を天秤皿の上に載せるおつもりですか?」

すると、ルクミニーは歌いました。

おお、葉と花と果物と水で礼拝される神よ、
もしあなたがご自分を差し出すというのが本当ならば、
それらの供物すべての代わりに清らかな愛を捧げられときに、
あなたとあなたの御名が同じ重さになりますように、と私は祈ります
そしてそれから、このトゥルシーの葉で天秤を傾けてみせましょう


そう言うと、ルクミニーはクリシュナの御名を唱え、それから、空の天秤皿にトゥルシーの葉を載せました。すると天秤はすぐに傾き、クリシュナを乗せた天秤皿が上がりました。クリシュナのほうが軽かったのです! ナーラダ仙は、「クリシュナという御名が天秤を釣り合わせ、その後に載せたトゥルシーの葉1枚で、天秤を傾けるには十分でした」と言いました。

神は、愛のみに明け渡します。あなたが神に捧げるものは何であれ、それが物質的な意味においてはどれほど些細なものであったとしても、もしその捧げものが清らかな愛を伴っていれば、それは神に受け入れられます。1枚のトゥルシーの葉でも十分です。神は、富で手に入れることはできず、愛によってのみ手に入れることができるのです。実に、愛よりも大きな富はありません。ですから、愛を神に捧げなさい。もしあなたが清らかな愛を神に捧げれば、神はとても喜び、いつもあなたと一緒にいるでしょう。もしあなたが、神の愛にふさわしい人になって神の恩寵の受け手となりたいと思うなら、神の命令に従わなければなりません。神は何と言っているのでしょうか?

アナペークシャハ シュチルダクシャ ウダースィーノー
ガタヴィヤタハ サルヴァーラムバ パリッティヤーギー
ヨー マドバクタハ サメー プリヤハ

欲望を一切持たず、完全に清らかで決意が固く、まったく無執着で、
時の戯れの影響を受けず、誇示や見せびらかしを絶った人
そのような人は、私にとって愛しい

ギーター(12章16節)

神は、「もしあなたがこれらの資質すべてを持てば、あなたは私にとって愛しい者となる」と言っているのです。もしあなたが神の言うことを実行するなら、神はすぐにでも、あなたは私のものだと断言するでしょう。あなたは、神があなたに何を望んでいるかをきちんと理解して、それに応じて行動しなければなりません。

愛の化身たちよ! どうやって神の教えを理解すればいいのでしょう? どうやって神への信心を育み、維持すればいいのでしょう? スワミは明日、これらのトピックについてあなた方に話しましょう。

(バガヴァンは「バヴァバヤ ハラナ」のバジャンを歌って御講話を締めくくられました。)

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 2000 Ch11

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