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宇宙のすべてが 神の支配のもとにある 人々は、神に到達するために様々な霊性修行を行います。邪悪な心をもつ者がいたとしても、年長者の祝福を得たり、崇高な人々と親交を結んだりすることによって、悪い傾向をたやすく取り除き徳を育むことができます。そのことをはっきりと証明しているのが、追いはぎのラトナーカラの生涯です。彼の人生は、七聖仙と出会うことによって変容しました。ラトナーカラは邪悪な生き方を改め、揺らぐことなく七聖仙の教えに従い、やがては聖者ヴァールミーキとなったのです。彼は、人類に理想を示し、偉大な叙事詩『ラーマーヤナ』を書き記しました。悪魔の王ヒラニヤカシプの息子プラフラーダは、常にナーラーヤナ神を憶念し、その御名を唱えていました。その結果 、彼はナーラーヤナ神そのものと変わらぬ神聖な光輝を得たのです。同様に、チャールズ ダーウィンは、常に師のヘンズローを思い、その教えに従っていたために、すべての面 で師に似る者となりました。古の聖者や真理の探求者たちも、絶えず神を思い、神の命ずることに常に忠実に従いました。その結果 として、彼らの顔は神聖な輝きを放ったのです。クリシュナ神は、『バガヴァッド ギーター』において同じようなことを述べています。「生きとし生けるものの中の永遠のアートマ(真我)は、「私の存在」の一部である」、と。クリシュナはこう語りました。「アルジュナよ、すべての中で輝きを放っているものこそが、私の神なる光輝なのだ」。神は、すべに浸透しています。神は、すべての元素、すべてのものの中に光輝として存在しています。神が常に内在しているというのに、なぜ人間は苦しむのでしょうか? 困難に直面して惨めな人生を送っている、と語る人々がいます。そのように言うのは、愚かなことなのです。内在者なる神には、悲しみも心配も何一つとしてありません。神は至高の至福の化身です。あなたのハートの祭壇に神が安置されているというのに、惨めさに悩まされていると考えることは愚かさの印ではないでしょうか? 神はこう語ります。「私はあなたの中にいます。あなたは私の神性の火花に過ぎないのです」。そうならば、人が困難や悲しみに影響される必要などあるのでしょうか? これらの道筋にそって探求すれば、あなたにその影響をもたらしているのは、自らの中の悪魔的、獣的な傾向であることに気が付くでしょう。邪悪な資質を捨て去らない限り、あなたは永遠なるアートマの真理を体験することができません。 神が内在しているにも 今日、人間は、自分が神の一つの様相であることを理解していません。人々は、神が自らの中にいるという事実に気付かず、自分を愛してくれる存在はいないと思いこんでいます。すべての人間が、神聖であり、もとより慈悲に満ちているハートに恵まれているのです。神は、そのようなハートに住んでいます。しかし、今日、人は生来もっているはずの慈悲を失ってしまい、薄情になっています。そのような人間を神の火花と呼ぶことはできません。彼は、まさに悪魔です。「永遠なる真我は、『私』の一部である・・・」という神の宣言は、このような人間には当てはまりません。神の火花は、すべての人のハートに存在します。人間はブラマ(迷妄)のために、自らの神なる本性を悟ることができません。まず第一に、人間は、この迷妄に打ち勝ち、神が常に自らと共に、自らの内に、まわりに、上に、下にいることを知る努力をしなければなりません。迷妄は、あなたのハートとマインド(心)に邪悪な感情を引き起こす要因となります。それらの迷妄は単なる想像の産物であり、神とは何の関係もありません。 神は、すべての人間のハートに内在します。神は一つの特別な姿をもつのではなく、特定の場所に閉じこもっているわけでもありません。神はあなたのハートに内在し、また、すべてのものに浸透しています。「すべてのものに浸透する手、足、目、頭、口、耳をもち、神は宇宙全体に遍満している」――そのような、「自己」の光り輝く神聖な原理をアートマと呼ぶのです。クリシュナは、このアートマが神自身の様相の一部分であることを宣言しました。このような神聖な原理には、欠落も不完全もいっさいありません。あなたが見たと思いこむ、どのような欠落も単なるあなたの想像の産物に過ぎません。神は美徳の化身です。それゆえ、人間もまた、美徳の人生を送らなければなりません。邪悪な傾向は、霊性の道における障害です。まず第一に、人間はすべての邪悪な行為から自らを遠ざけ、善い行為をしなければなりません。そのときに初めて、彼は、自らを人間と呼ぶ権利をもちます。人生は、極めて神聖なものなのです。『ウパニシャッド』は、人間の人生をまことに神聖なものであると見なしています。人間は、すべての属性を 善き仲間は無執着へとつながり 無執着は人を迷妄から解き放つ デーヴィ ナヴァラートリの内的意義は何でしょうか? 人々は、この9日間にわたって、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーの三女神を礼拝します。ドゥルガーとは誰なのでしょうか? ドゥルガーはすべての力の化身です。サラスワティーは言葉と英知を司る女神です。 ガヤトリーマントラは、「オーム ブール ブワッ スワハ」と始まります。「ブール」は具現<物質界>を意味します。この言葉は、変化を余儀なくされる物質を表しています。「ブワッ」は生命の原理、すなわち波動<微細界>を表します。サーヴィトリーは生命の原理を 神なる母は、ガヤトリー、サーヴィトリー、サラスワティーという三つの名をもちます。「ガヤトリーは、彼女の栄光を歌う者を守護する」――私たちの感覚を司る女神であるガヤトリーは、私たちに感覚を統御するための助けをもたらします。生命原理を司る女神のサーヴィトリーは、私たちの生命を守ります。サラスワティーは、私たちに変化することのない永遠の英知をもたらします。ガヤトリー、サーヴィトリー、サラスワティーはすべての人間に内在していますが、人はその存在を理解することも体験することもできません。その結果 、人は邪悪な性質につけいるすきを与え、悪い行為にふけり、そのあげくに人生を滅ぼしているのです。悪い習慣が人の堕落の原因です。何よりも先に、人間は善い習慣を育み、自らを変容させなければなりません。サーヴィトリーは、どのようにして死んだ夫を蘇らせたのでしょうか? 彼女は、絶え間なく神を憶念することによって、自らの波動を神の波動へと変容させました。それゆえに、彼女の夫は蘇ったのです。神聖な感情を育めば、あなたにとって不可能なことはありません。純粋な無私の愛により、いかなる大仕事もなしとげることができるのです。 愛は、あなたの中に神聖な力を育みます。この世の中で、愛が征服できないものはありません。賢者たちは、野生動物がうろつきまわる森の奥深くで苦行をします。彼らは、身を守る武器を何ももちません。彼らを守る武器は、神に対する深い愛と崇拝の思いです。彼らは、野生の猛獣たちを愛の力で服従させ、従順な生き物へと変容させます。人間の性質は、付き合う仲間によって善くも悪くも変化します。崇高な仲間はあなたに気高い感情をもたらし、悪い仲間は邪悪な性質を助長させます。あなたの言葉と行為は、あなたの感情に基づいています。善い感情を育むときにのみ、あなたは人間と呼ばれるに値するのです。姿だけが人間を形作っているのではありません。真の人間とは、善い習慣を身につけ、他者を常に助け、決して傷つけない人のことを指します。あなたは単にアーカーラ
マーナヴァ(姿形としての人間)であるのみならず、アーチャーラ マーナヴァ(実践する人間)であるべきです。善いことを語り、善いものを見て、善いことをして、善い人間でありなさい。あなたの行いが善良であるときにのみ、あなたの内に神性が花開くことでしょう。
他者を傷つけてはなりません。「人は、他者に奉仕することで功徳を得、他者を傷つけることで罪を犯す」。それゆえ、ヴェーダは、「常に助け、決して傷つけてはならない」と教えるのです。ヴェーダは、神聖な感情を育む必要性を強調します。実際、神聖な感情は内在しているのですが、人間はそのことを忘れてしまいました。人間は、神聖なエネルギーの宝庫です。ドゥルガー(エネルギーの女神)、ラクシュミー(富の女神)、サラスワティー(英知の女神)は、人に内に在るのです。人間は、決して貧しい存在ではなく、弱くも孤独でもありません。人間は、神の至福を体験するすべての力を有しています。あらゆる力を与えられているにも拘らず、人は 教育と知性があるにも拘らず 愚かな人間は自らの真の自己を 真の教育とは、真理、道徳、高潔さ、文化を育むものです。教育は、あなたの内に人間的価値を育むべきです。あなたは、年長者を敬い、両親に仕えるべきです。人々は友情について話しますが、私たちは、真の友情をどこにも見出すことができません。今日、友情は邪悪と利己主義に汚染されてしまいました。 悪い仲間を避けなさい これが、皆さんがなすべきことなのです。善良に見え、優しく話しはするものの、その心の中は邪悪な感情で プラフラーダは悪魔の王の息子でしたが、その思いは絶えずナーラーヤナ神に注がれていました。彼はナーラーヤナの御名を常に唱えていました。彼の父と師たちは、彼を霊性の道から 信念あるところに 愛がある プラフラーダの答えを聞くなり、ヒラニヤカシプは、 学生の皆さん! 一日を愛で始め それゆえ、愛の精神を育みなさい。愛は誰をも 人々は、このナヴァラートリの9日間にわたって、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーを礼拝します。ドゥルガーは、悪魔を倒します。もはや武器は必要とされないため、人々はアユーダ プージャを執り行います。心からドゥルガーに祈れば、この女神はあなたが努力するものすべてにおいてあなたを守護するでしょう。 皆さんは、神の原理を理解することができません。この世における誰一人として、神が守るごとくにあなたを守ることはできません。それゆえ、神に全託し、その助けを祈り求めなさい。さらに、神への帰依は私たちの あなたの感情をコントロールしなさい。愛を育みなさい。邪悪な思いを抱いてはなりません。神と共にいることの至福が与える体験にまさるものは何もありません。あなたがすべてを愛すれば、すべてがあなたを愛します。犬や猿、猫とさえあなたの愛を分かち合いなさい。そうすれば、動物たちがどのようにあなたの愛に報いるかを知ることができるでしょう。人間は、犬でさえもがもっている感謝の念を忘れてしまいました。多くの外国人たちは、ペットとして犬や猫を飼っています。あなたが動物を愛せば、動物もまた、それに応えてあなたを愛します。「あなたはあなたが思うものとなる」。皆さんは、良かれ悪しかれ、自らの感情の反映、反応、反響という体験に束縛されているのです。あなたが他者の中に悪いものを見たとすれば、それは自分の悪い感情の反映に過ぎないのです。自分自身の過ちを無視して他者を非難することは誤りです。まず最初に、あなたの感情を清めなさい。あなたが邪悪だと見なしている人々さえも愛しなさい。実際、この世に邪悪な人間などいないのです。ある人々を善良だと見なし、ある人々を邪悪だと見なすことは、ブラマ(迷妄)が引き起こす状況です。サティアサンカルパ(崇高な感情)を育み、真理の道に従いなさい。 (バガヴァンは、『ハレ ラーマ、ハレ ラーマ・・・』のバジャンをお歌いになり、さらに御講話を続けられました) シヴァジが家臣たちに教えたことを思い起こしなさい。この身体は、その中に生命が宿っている限りにおいて尊重されるのです。生命が消え去れば、身体には何の価値もありはしません。ドゥリョーダナは、同じことを臨終の間際にこのように語りました。「私に敬意が払われるのは、私が生きている時のみだ。死ねば、明日には、カラスや犬が来て私の身体を食い荒らすだろう」。起こるべきことは何であれ、起こるのです。生きている間に、価値ある人生を送りなさい。自分の内に神聖な感情を育みなさい。そのときにのみ、皆さんは真の人間としての人生を送ることができるでしょう。今日、人間は極めて実利的な人生を送っています。これもまた、ある程度は必要なことです。しかし、この世俗の生活のなかにさえも超絶的原理が存在している、ということを覚えておきなさい。 愛の化身である皆さん!
監修:サティア サイ出版協会 |
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